巻の二十一 お役御免になりました。
(ん……、ここは……)
暗闇に一点の光が明滅するような感覚。
その感覚と一緒に、意識がポコリと浮かび上がってくる。
「琉花っ!!」
「目が覚めたのね、琉花っ!!」
「父さま……? 母さま……?」
ここは、自分の……家? 心配そうな父母の顔。その後ろには泣きそうな表情の香鈴。
「気分はどうだい? 痛いところは?」
「え? 大丈夫……です」
まだ頭はボンヤリしてるけど、辛いとかそういうのはない。ちょっとだけお腹が痛いけど、多分、これは月のものが来たせいだ。軽く身じろぎすると、そちらもちゃんと手当てされてるのがわかった。
「お前がここに運ばれてきたときは肝が冷えたよ。とにかく無事でよかった」
「あ、あの……」
「まったくですわ。啓騎さんのおっしゃることだからと、安心して琉花ちゃんをお預けしたというのに」
プンプンと、どっちかというとかわいらしく怒る母さま。
「ご寵妃だのなんだの。琉花ちゃんをこんな目に遭わせて。赦せませんわ」
「琉花。もう大丈夫だからね。ここでゆっくりと養生しなさい」
「えっと。あの、父さま、その、後宮へは……」
というか、陛下は?
あの時、助けてくださったのって、陛下だよね。
それと、公主さま。公主さまはご無事なの?
ぼんやりとした記憶。霞みがかかったように、ハッキリしない。
「ああ、安心していい。もう後宮には上がらなくていいと、啓騎さんから伝言があったよ」
どういうこと?
父さまの言葉が理解できない。
「皇帝陛下直々にお達しがあったそうだ。きみにお暇を出すってね。二度と後宮に上がらなくていいらしい。借金については、これまでの働きの対価として、すべて支払ってくれるそうだ」
「お暇」って。
寵妃として、お役御免になったってこと?
わたしが、後宮を飛び出しちゃうような妃だから?
それとも、公主さまを危険な目に遭わせるような女だから?
だから、お役御免になったの? 陛下にいらないヤツだって思われたの?
混乱するわたしを、母さまがゆっくりと寝かしつける。
「琉花ちゃんは、もうなにも心配することないのよ。ゆっくり休みなさい」
その言葉に、優しさに。心が見えない巨大な手に握りつぶされたような感覚をおぼえた。
* * * *
「お嬢さま、これ、痛み止めのお薬です」
「ありがと、香鈴」
いつものわたしの部屋、いつもの寝台の上で、香鈴からいつもの薬を受け取る。
「でも、あんまり効かないんだよね~、これ」
苦いだけの薬。それを手に、眉根を寄せて思いっきり嫌そうな顔をしてみせる。
「そんなことありませんよ。病は気から。ちゃんと飲んでくださいよ」
「……はいはい。って、やっぱマズッ!! 苦っ!!」
いつものやりとり。いつもの会話。
「だから効くんですよ。ほら、あとはゆっくり横になっていてください」
いつものように言われるまま寝台に身体を横たえる。
「あとで滋養のある食事をお持ちしますから。休んでいてくださいね」
「ありがと、香鈴」
軽く礼を述べると、香鈴が部屋から出ていく。
なにもない午後。暖かな日差しだけが部屋に降り注ぐ。
風にそよぐ庭の木々の葉。その音を聞きながら一人目を閉じる。
――後宮から暇を出された。
そのくわしい理由を誰も話してくれない。
ただ、わたしにも公主さまにも啓騎さんにも、誰にもお咎めはないということ。それだけは教えてもらった。
借金もない。後宮に上がることもない。
以前と同じ生活。
香鈴にお世話をしてもらいながら、商家の娘として暮らす日々。
後宮じゃない。菫青妃でもない、ただの李 琉花としての生活。
これでいい。
これでいいんだ。
もともと挑戦に失敗したら、ここに戻ってくるつもりだったし。
それが、ちょっと早くなっただけだし。
そもそも後宮、皇帝陛下や公主さまとの暮らしなんて、わたしには似合わないことだったのよ。
(あんな目に遭ってまで――)
あのならず者たちは、わたしを殺そうとしていた。
どういう理由なのかは知らないし、知りたくないけど、わたしの命を狙っていた。
おそらくは、わたしがご寵妃だったことに関係してるんだろう。それに、公主さまが巻き込まれかけた。
思うように動かなかった身体。
抑えつけられた公主さまの姿。
あの時、陛下が駆けつけてくださらなかったら、わたし、どうなっていたんだろう。
意識を失ったまま縛られ、公主さまと一緒に冷たい運河に投げ捨てられ――!!
(ダメッ!! ダメダメッ!! 考えちゃダメッ!!)
頭をブンブンとふり、上掛けをひっかぶる。
忘れよう。忘れたい。忘れなきゃいけない。
あんな事件なんて。
あんな出来事なんて。
あんな世界のことなんて。
あんな、あんな、あんな……。
溢れそうになる涙をこらえて、寝台の上で一人身体を丸める。
(陛下……)
彼は、あんな世界で生きているのだろうか。今も。
恐怖とは違う、別の感情が涙になってこぼれそうになった。
* * * *
「――陛下」
その声に、ピクッと意識が書類から引き戻される。が、すぐに書類へと没入していく。
「陛下、皇帝陛下っ!!」
「……そう何度も呼ばずとも聞こえている、啓騎」
聞こえているが、俺は忙しいんだ。
お前の言いたいことは理解している。だからもう話しかけるな。
「でしたら、是非目通りの許可を。異母弟君がいらしております」
「何度来ても同じだ。宮に帰るように伝えろ」
書類から目を離さない。今は、異母弟よりこっちのが大事だ。
「無理でございます。今日はなんとしてもお会いしたいと申されております。陛下がお忙しいのであれば、いくらでも待つと、紫宸殿の前に侍されております」
脅しか?
せっかく人目につかないよう、主不在となっている琥珀宮に、ヒッソリと住まわせてやってるというのに。
「……招じよ」
ため息混じりに啓騎に命じる。
一礼して辞した啓騎が、異母弟を伴って再び姿を現した。
「久しぶりだな、玉賢。息災にしていたか」
「はい。おかげさまをもちまして」
少し強張ったままの異母弟の声。しかし、それに気づかないようにして淡々と話を続ける。
「ならばよい。お主の処遇については、おって沙汰する。なに、悪いようにはせぬから、琥珀宮で待っているがよい」
「異母兄上、いえ、陛下っ!!」
辞するように告げた俺に、異母弟が食い下がる。
「僕のことなどどうでもよいのです。陛下をたばかったばかりでなく、あのように後宮を抜け出したのですから」
祈るような、すがるような、かつて異母妹だった男の目。
「今日、こうして伺ったのは、菫青妃のことです。どうして彼女に暇をだされたのですかっ!! 彼女は僕に巻き込まれただけで、なにも悪いことなんでありませんっ!!」
菫青妃。
その言葉に、卓の上に置いていた手がピクリと痙攣したかのように動いた。
「僕はどのような処罰でも覚悟しております。ですがどうか菫青妃、彼女だけは――」
「――玉賢」
静かに名を呼ぶ。
「私たち兄弟ような目に、彼女を遭わせたいのか?」
その言葉に、異母弟の肩がビクンと揺れた。
「お前がどうして公主と偽って生きねばならなかったのか。そのことを考えたことはないのか?」
「そ、それは……」
「わかっているのなら、下がれ。これ以上、菫青妃についてもの申すことは許さぬ」