巻の二十 甘い誘いと優しい言葉。
「琉花っ!?」
「だ、大丈夫です。ちょっと頭が痛いだけなので――」
正直、このまま抱きとめられていたくない。けど、さっきから感じていた頭痛は少しずつひどくなってきていて、立っているのもつらい。
「頭痛?」
「たいしたことないです。〈月のもの〉からきてるやつなので……」
いっつも〈月のもの〉の前になると起こる頭痛。薬飲んでもあんまり効果がなくて、耐えるしかない頭痛。「不浄のものが身体を巡ってしまうせいでしょう。経血とともに不浄が流れ去れば治りますよ」と産婆は言ってたけど、出血が始まると、今度はとんでもない腹痛に見舞われるんだってば。
「月のものっ!?」
「公主さまは、こういう経験はなさったことないんですか?」
「いや、僕は、その……、ないかな」
羨ましいですね~。というか、いつまで「僕」なんですか。頭痛にも生理痛にも無縁の人って羨ましい以外の何者でもないわ。
普段ならこうなる前に、香鈴から気休め薬をもらって静かに過ごすんだけど、今日は、公主さまの結婚話に驚いて出てきちゃったから薬すら持ってない。
「とにかく、どこかで休もうか」
……「帰る」って選択肢はないんですね。
反論したいけど、それだけの体力が残ってない。
キョロキョロと視線をさまよわせて、公主さまが見つけた運河に続く階段にどうにか腰かける。
「大丈夫?」
大丈夫じゃないです。できることなら、暗い、静かなところで休みたいです。寝台で横になって、冷たい布で頭を冷やしたい。
「……一度、家に立ち寄らせていただいてもいいですか?」
「家?」
「わたしの実家です。少しだけ横になりたいんです」
苛立ってもしかたないのに、つい口調がキツメになる。
「しかし――」
「道なら案内しますから……」
「いや、でも――」
困ったような公主さまの声。そんなに帰りたくないの?
なんか、だんだんと腹立ってきた。
なによ。ちょっと外に出てみたいって言うから、まあ、結婚前だし? 落ち込んでるのかなって同情して外に出たけど、わたしのお願いはきいてくれないわけ?
勝手にふり回して、帰りたくないってダダこねて。そりゃ、勝手に髪切ったんだもん。怒られるのはわかってるけどさ。でも、こういう場合は、わたしのことを案じてくれたっていいじゃない。
「……わかった。では、道案内を頼む」
不承ぶしょう、納得はしてないけど従うって感じの公主さま。それでも、わたしにとっては、ちゃんと休める場所に連れて行ってくれるのはありがたい。
フラフラと立ち上がり、公主さまの手を借りて歩き出す。
脈に合わせて頭がガンガンするし、どっちかというと気分悪い。これ、もしかすると、家についたあたりで限界突破して吐きそう。
まずいな~。それだけはやりたくない……。
「もし? そこのご夫婦」
「夫っ……!!」
突然呼びかけられた声に驚く。
「嫁さん、えらい顔色悪いじゃないかい。大丈夫かい? もしかしてつわりかね?」
つ、つわりっ!!
「い、いえ、ちょっと頭が痛いだけで……」
訂正したい。メチャクチャ訂正したい。
声をかけてきたのは見ず知らずのオバサンだったけど、誤解はといていきたい。
夫婦もつわりもとんでもない話だわ。
「そうかい。それならいい茶があるから、ちょっと休んでいかないかい?」
オバサンが運河の脇に建つ、一軒の小さな茶屋を指さした。
(ああ、客引きか……)
この通り、閑散としてるし、ヒマだった店のオバサンが客引きに来たと。
「いえ、このまま帰りますので……」
「琉花、少し休ませてもらおう」
断わろうとしたわたしの声に被さる公主さまの声。
……どれだけ帰りたくないのよ。まったく。
でも、頭が痛いのを鎮める茶があるのなら、気休めでもいいから飲んでおきたい。(できれば吐き気止めも)
「じゃあ、こっちで休んでな。茶を淹れてあげるから」
少しヒンヤリとした薄暗い店内。その二人掛け用の長椅子の上に、横にならせてもらう。
「……すみません」
「いいってことよ。困った時はお互い様だね」
カラカラとオバサンは笑う。
「そうだ、茶を淹れてる間に。旦那さん、そこの井戸でこの布、冷やしておいで。頭痛の時は、冷たい布を当ててやると気持ちいいからね」
オバサン、わかってるなあ。
今は、優しい言葉より、現実的な介抱がなによりありがたいのよ。
旦那とか夫婦とか納得いかない言葉も多いけど、それでも介抱されるのは本当に助かる。
オバサンの言葉にしたがって、公主さまが布を片手に、一旦店を出ていく。
「さ、これをお飲み」
入れ替わるように、オバサンがお茶を持って来てくれた。
「ありがとうございます」
少しだけ身を起こして、勧められるままに茶を飲む。
(甘い……、おいしい……)
甜茶かな。どっちかというと、甘さよりスッキリしたほうが今の自分に合ってるんだけど。
それでも、人の好意をむげにしちゃいけない気がして、全部飲み干す。
甘くておいしいのは間違いないし。
……って、あれ?
(眠い……)
飲み終えた途端、なんだか急に眠気が……。
瞼が重い。身体が長椅子に沈み込んでいきそうなほど、泥のように蕩けそうなほど眠……い……。
「琉花っ!!」
慌てたように、誰かと争いながらもつれるように店に飛び込んできた公主さま。
「しっかりしろっ、琉花っ!!」
ひどく焦った顔。……どうしたんですかぁ?
「大人しくしろよぉ、お坊ちゃんっ!!」
公主さまと一緒に店に入ってきた男たちが、公主さまを後ろ手に拘束した。
「おい、女将。あれは飲ませたのか?」
「ああ、バッチリさね。もうこれでしばらくは動けないだろうさ」
え?
なに?
何の話?
「そりゃあいい。あとは、この坊ちゃんを黙らせるだけだな」
「やめろっ!! 琉花っ!! 琉花っ!!」
「うるせえ坊ちゃんだな。おい、この坊ちゃんにもれいの茶を飲ませろっ!!」
れいの茶って。
もしかして、さっきのお茶に何か含まれてたの?
オバサンの好意だと思って口にしたお茶。本当は、悪意と害意が入れられてたお茶だったの?
この、どうしようもない眠気は、あのお茶のせい?
男たちが公主さまを抑えつける。オバサンがさっきと同じ茶を持ってくる。
「ダ、メッ、逃げ……てっ!!」
身体に力が入らない。でも必死に腕に力をこめる。
頭もグラグラするし、状況に理解が追いつかない。
一つわかるのは、今がものすごい危険な状況で、狙われてるのはおそらく公主さまだってこと。
だって、香鈴の読んでた本にもあったじゃない。
お忍びで外に出た姫君が悪漢に襲われるって。
この場合、襲われるのは公主さまでしょ。お姫さま、皇帝陛下の妹君なんだもん。
「フンッ、こんな状況になっても情夫を庇おうとするなんてね」
オバサンが鼻で笑う。
……情夫?
「安心しな。あたしらは優しいからね。アンタらを二人仲良く運河に浮かべてやるよ。ご寵妃が男と仲良く運河に浮かびゃあ、皇帝陛下の目も醒めるってもんよ」
え? もしかして、もしかしなくても、狙われたのは、わたし?
公主さまは、その巻き添え?
「ご寵妃と情夫、悲恋の末の心中。最高じゃないか。来世を願って、仲良くドボンだ」
「にっ、逃げてっ!!」
「琉花っ!!」
「おやおや、あの茶を飲んでもまだ動けるとはね。たいしたもんだよ」
長椅子から転げ落ちた身体。痛いとかなんとか言ってるヒマはない。
「ほらほら、坊ちゃんも抵抗しないでこれを飲んだらどうだい? かわいいお姫さまと心中させてやるんだからね」
床に押し倒された公主さまの顎を乱暴に掴み上げる女。いくら公主さまが男の格好をしてたって、所詮は女。暴れたところで、悪漢たちの腕はピクリとも揺らがない。
「さあ、いい子だからお飲み」
「公主さまっ!! 公主さまっ!!」
ダメ、身体に力が入らない。重い。痛い。動かない。
(誰かっ!! 誰か助けて――っ!! ――――っ!!)
「グッ!!」
「グアッ!!」
一瞬、理解できなかった。
公主さまを取り押さえていた男たちが次々に崩れ落ちる。
その背後に……誰?
逆光になって、よくわからな――。
「琉花っ!!」
その声、まさか陛下?
続いて入ってきた数人の男たち。それが次々に悪漢たちを倒し、縛り上げていく。
「しっかりしろっ!! 琉花っ!!」
床に転がってたわたしを抱き上げる力強い手。
ああ、これ、陛下だ。
安心したのか、薬が効いてきたのか。
意識が限界を超えて茫洋として溶けていく。
「陛下……公主さまを……」
それが限界だった。
「琉花っ!? 琉花っ!!」
陛下の声と、その腕の力強さを感じながら、わたしの意識はストンと暗い闇のなかに落ちていった。