3 お父さん、ごめんなさい
3 お父さん、ごめんなさい
樹
冬の風がびゅうびゅうと吹く。コートの前をかき集めてじっと耐えるように縮こまって過ごして一体いつまで続くのだろうと思っていると、でもちゃんと地球はぐるっと回っていて、とある朝にパチリと目を覚ますとなんだか少しだけ寒さが緩まっている気がする。
いつも起きる時間よりも早く起きた。厳しい朝の寒さが少し緩くなったように思えて、そして、明るくなるのが少し早くなったみたいだ。ベッドに起き上がり横を見て、妻の寝顔をしばらく見る。その後、パジャマのままでおき上がるとそっと子供たちの部屋に入った。二人ともまだ布団の中で夢を見ていた。
その顔をしばらく朝の光の中で眺めた。子供のすべすべとした肌とふっくらとした輪郭を。
冬が緩まり春が近づくのを感じたからだろうか、朝の通勤電車の中で吊り革に捕まり揺られながら、今日は仕事を早めに切り上げて、梨花のところへ行こうと思った。その時、朝からの気持ちに、さっとひとはけ薄墨のような色が加わる。
会社を早く出ようと思っている時に限って、夕刻に仕事を持ち込む奴がいる。あからさまにため息を出しはしなかったが、顔に出てたらしい。
「すんません、今日なんかあるんすか」
「別に……」
ひたすら低姿勢に謝る後輩がかえってうざかった。これに懲りて次からもっと見落としがないかきちんと詰めながら仕事はやってくれ。
会社から外に出る。やはり、空気が少し違う気がする。ビルの合間から覗くラベンダー色の空を眺める。
「や、上条君じゃないの。奇遇」
出入り口のところで、久々に会った昔の部署の人と出くわす。飲みに行こうというのを丁重に断り、電車に乗り込んだ。特急に乗るのをやめて、急行に乗る。
電車の中から流れてゆく風景を見下ろす。ところどころに桜の木が見える。その枝で蕾が膨らんでいるような気がした。もちろん、電車の中からそんなものが見えるわけがなく、ただ春が近づいてくる気がするだけだ。
いつもはもう少し遅い時間に乗るから、酔客や自分のように残業をして帰るスーツ姿の男たちで賑わう電車も、今日は学生や女性の割合が多い。ふと向かい側を見ると、ちょうど梨花と同じぐらいの年齢のスーツ姿の女性がいた。
梨花がもう一度あんなふうにスーツを着て働くことはないだろうな。
気づくとその女性をじっと眺めていた。彼女は座って俯いてスマホをのぞいていたのがパッと顔をあげた。慌てて目を逸らした。
自分の家より手前で降りる。駅から出ると、賑わった駅前を背に歩き出す。小さな店や住宅の続く線路沿いを歩くと、その賑わいはすぐに遠のいてゆく。向こうに妹のいる店のぼんやりと明るい灯りが見えてきた。
カンカンカン、と少し離れたところにある線路の踏切の音が鳴り、自分の前方から電車が近づいてくる。ライトで辺りがぱあっと明るくなる。それで、そのライトに照らされて暗がりから人影が浮き上がってきた。梨花の店の前で、佇む影。
僕は思わず足をとめ、そしてしばらくその人影を見ながら、目を凝らす。
カンカンカンカンという音がまだ聞こえていた。ゴオオと音を立てて横を電車が通り抜けてゆく。
離れているからよくわからないけれど……。
僕はその人影に向かって足を早めた。ある程度近づいて確信した。気の弱そうな横顔。
「ちょっと」
低い声で呼びかけつつ、相手の片腕をぐっと握った。男は最初こっちを見て、ポカンとして、僕が誰だかわからないようだった。しかし、それはほんのわずかな間で、すぐに目の色が変わった。
「こっち来て」
梨花がまだ気づいていないことを祈りながら、男をぐいと引っ張る。大人しくついてきた。少し離れたところで、背後からぱたんと音がした。男と2人、足を止めて振り返る。エプロン姿の梨花が店先に出てきて、傍にあった看板を片付けている。
その時、男は僕に逆らってぐいと身を乗り出そうとした。梨花の方へ。やつの気の弱そうな顔。僕と比べてたいして変わらない平凡な体つき。それでもやつもやはり男で、体内には男としての力を蓄えていて、それで僕に本気で抵抗して梨花に向かおうとする。
「やめなさい」
力だけで抑え込むのに危うさを感じた。この距離で声を出されたら梨花が気がつく。幸いこの沿線は主に住宅地で、ポツンポツンと住宅の合間に軒を連ねる店もこの時間まで営業しているものが少ない。だから、僕らは薄ぼんやりとした暗闇の中に沈んでいた。そうでなければ、梨花の視界に僕らは入っただろう。僕らが明るく照らされていたならば。さらに低い声を出す。
「おい」
「……」
僕に腕を捕まえられたまま、男はぐったりとした。ぐったりと梨花に向かう力をその体から抜いた。愛しい人と自分の間には大きな川があって、彦星と織姫は会うことができない。川の対岸を見つめるような顔で男は梨花を眺めていて、僕はそれを半ば力づくで遮り、駅に向かって引きずって行った。
このまま帰すわけにいかないと思い、沿線で目についたカフェに入った。一番奥のテーブル席に着く。
ぐったりと俯き動かなくなった男はほっておいて、コーヒーを二つ頼んだ。男は何も喋らず僕の目の前でひたすら俯いている。僕はその男を観察する。
男は初めてその顔を見た日から、ただ、もう日に日に疲れていった。疲れるという言葉では足りない。憔悴しきっていった。あっという間に髪に白いものが増え、短い間に別人のようになってしまった。
道を、踏み外す、ということが、どんなに人を憔悴させるものなのか、この男を見ていて教わった気がする。
ずっと見つめていると、自分にもその疲弊というか疲労がうつってくる気がして目を逸らした。カフェの全面ガラス張りの壁越しに夜空が建物と建物の合間から見えた。そこでポロリとこぼした。
「虫の知らせのようなものだったのかな」
男がのっそりと顔をあげて、乱れて目にかかった前髪と前髪の間から僕を見た。
「たまたま今日、梨花のところに来ようと思ったから」
そうでなければ、2人は間違いなく顔を合わせ、そして言葉を交わしていただろう。僕は少し男に向かって身を乗り出した。
「タイミングもぎりぎりでぴったりで、これはもう偶然ではなくて必然のように思いますが……」
獣のようにこちらを覗いてくる男に淡々と話しかける。お待たせいたしましたと店のウェイトレスが二つの湯気をたてたコーヒーを運んでくる。僕と男の間にかちゃりかちゃりと置かれた。それは白くてシンプルだが厚みのあるカップとソーサーで、そして、コーヒーはまだ寒い今日のこの日に温かく平和であった。
「神様が僕を使って邪魔をしたと思いませんか?」
「……」
「もう2人が会ったり話したりしないほうがいいというのは、あなたも十分わかっていますよね?」
すると男は声を忍んで、カフェの片隅で泣き始めた。男の肩が震えるのが見える。僕はその男の様子がカフェの店員や他の客からできるだけ見えないように、座る位置を調整した。微かな嗚咽の隙間から男は言葉を捻り出してきた。
「どうしていいかわからないんです」
「はぁ」
「忘れられないんです」
「……」
「彼女は今、大丈夫なんでしょうか?」
「大丈夫ですよ」
「……」
「あなたがいなくても妹は大丈夫です」
だから、もう二度と近寄らないでください。そういう趣旨のことを何度も繰り返し、やがて僕らは別れた。もう二度と会うことはないだろう。そうでなければならない。男は駅の方へとトボトボとゆく。解放されて1人になった時、少しひんやりとした初春の夜気が心地よかった。
もう片付けて家に帰ったかと思いつつ店の方にとって返すと、奥にほんのりとまだ灯りがついていた。ほっとしてドアを開ける。カランとドアベルが鳴る。
「梨花」
灯りのほうに呼びかけると、お兄ちゃん?と声がした。カウンターの陰になっている奥のソファー席まで行ってみると、ちょこんとソファーに座る梨花の前の肘掛けに、若い男が座っている。ちょっとポカンとしている男に梨花が声をかける。
「兄なんです」
「あ、お兄さん」
メガネをかけた細身のその男は僕が現れるとテーブルの上に出ていた手帳とかペンを片付け始めた。
「じゃ、気が向いたらで構わないので」
「ええ、はい」
そして、あたふたと出ていった。梨花は男を見送り一旦外に出て、戻ってきた。
「あの人、誰?」
「ああ、近所のね、牧師さん」
「牧師?」
「今度ね、ガレージセールっていうのかな?教会でやるんだって」
「ふうん」
ソファーに座りながらあちらこちらと歩き回り、あたりを片付ける妹を眺める。
「ああ、お腹すいちゃった」
「なんか食いに行くか?」
「奢ってくれるの?」
「安いものにしろよ」
「やった」
あとはもう明日でいいやと言う妹と店の灯りを消してドアを閉じる。その美しい飾り文字の描かれたドアの鍵は、なんだかやはり劇がかっていた。古い洋館のような建物にふさわしいゴテゴテと変わった形の鍵だった。
「鍵まで変わってるな」
「そうね」
「もっと近代的なやつにしたほうがいいんじゃないか」
「いや、まあでも、使えるし」
それにあと何年使うかわからないのよと言葉が続く。時代がかった様子のわりにはそれは滑らかにかちゃりと回った。
「どうして?」
「話してなかったっけ?」
沿線を賑やかな方へ向かって歩きながら、妹は語る。ここのカフェは今妹が運営をオーナーから預かっている。もともとは今のオーナーの姉の持ち物だった。2人の両親が建てた自宅だったのだ。姉弟はここで大きくなった。両親はもちろん他界し、高齢となった姉が亡くなり弟が相続した。
「生まれて育った家だから、自分が生きているうちはどうしてもこのままにしておきたいんだって」
「ああ……」
その高齢の姉弟、姉の方はもう亡くなっているが、姉弟に見そめられて、妹は今、この館のかりそめの門番のようなものなのだな。
「じゃあ、あと何年とかはっきり決まってないんだ」
「やあねえ、お兄ちゃん。人があと何年で死ぬかなんて数えちゃダメよ」
「子供はいないの?」
「僕が死んだら……」
不意に妹が、その高齢の男性の真似だろうか、別の口調と表情で語り出す。
「きっと娘か息子か両方か、嬉々としてここを更地にしてアパートでもマンションでも建てるだろう、だって」
「まぁ、便利なとこだしな。儲かるだろうな」
学生が住むだろう。沿線にはいくつも大学があるし、都心まですぐのところだ。梨花はそっと笑った。僕はカフェの様子を思い浮かべながら言う。
「ま、でも、あんな入った途端にタイムスリップできるような場所が東京にもあってほしいけどな」
「そうねぇ」
時限付きの、別世界への、ゲートの番人なわけか。我が妹は。
線路を渡って向かい側の沿線の小さな居酒屋に誘われた。夜の中の黄色い灯りが少しノスタルジックで、子供の頃にタイムスリップしたようなそんな懐かしさを感じた。店に入りカウンターに並んで座ると、間髪を入れずに店の店員の男が声をかけてくる。
「お客さん、何にします」
「いつもの」
「お兄さんは?」
「えっと……」
「この人にもいつもの」
「はい、毎度」
熱いおしぼりが渡されて、そのうち、生レモンサワーが二つどんと置かれた。
「常連なの?」
「お客さん、美人だからね。すぐ覚えちゃった。はい、お通しね」
妹への問いかけに店員が横から答える。愛想のいい店員だった。トントンと目の前に置かれたお通しの白和えに箸をつける。いい味だ。妹はメニューも開かずつらつらと注文した。
「オススメのお刺身の盛り合わせと、さつま揚げと、出汁こんにゃくとコロッケ」
「よく食うな」
「お腹すいちゃった」
サバサバというその横顔を見ていて少しホッとした。
「千夏さん、元気?」
「おかげさまで」
「こんなとこで油売ってて、怒んないの?」
「怒んないよ」
「子供たち、寂しがらないの?」
「一日くらい」
「別にわたしのことなんてほっといていいのに」
今まで何度言われたかわからない言葉をまた言われた。ガブリと冷たいサワーを飲み込む梨花の顔を見るでもなく見る。
「さっきの牧師さん」
「なに?」
「お前のこんなガブガブ酒飲む様子、見たことないんだろ」
「何の話?」
ネクタイを片手で緩めて外すとシャツのボタンを外して、自分も酒を流し込んだ。レモンの酸っぱさにすっきりとする。
「なんかお前に気のありそうな顔してたぞ」
「やだ」
梨花はそう言って酒を片手に笑う。
「考えすぎよ」
「考えすぎかな」
妹は自覚があるのかどうかわからないけれど……、なんと言えばいいのだろう?枝豆をつまみながら、言わなくてもいいかもしれないことを口に出す。
「飯島の二の舞になるなよ」
「やあね、あの人、独身よ」
「じゃあ、相手にその気があれば、お前にその気はあるのか?」
すると苦笑いしてこっちを見る。
「つまんない話」
吐き捨てるようにいうその様子で、梨花には全くその気がないのがわかる。
特にこれといった話をしたわけでもなく、しばらく酒を流し込んで、たらふく食べると席を立った。歩いて帰るという梨花を送ってゆく。
「家まで送んなくたっていいわよ」
「まぁ、そういうなよ」
夜気は突き刺すようではなくて、やはり春は間近らしい。朝の天気予報で天気予報士はなんて言ってたっけ?思い出さなくても別に困らないことを思い返そうとした。
「ね、お兄ちゃん」
「なに?」
梨花はきっちりと立ち止まって僕を見上げた。なんとなく自分もきっちりと妹に向き合った。
「別に会いに来なくていいのよ」
「……」
「来なくていいっていうか」
梨花は苦い笑みを浮かべた。
「むしろ、来られると調子が狂う」
「なんで?」
「忘れようと思っていることを、お兄ちゃんの顔見てると思い出してげんなりするわ」
「……」
「だから、ほっといて」
「ほっとけないよ」
「なんで?」
妹は低く声をうねらせて、少し呆れたように僕を見上げた。
「家族だから」
ふっと鼻で笑われた。それから、梨花は首を傾げた。
「それは、誰のため?わたしのためなの?本当に?」
梨花の目が夜の街の片隅で光った。昔から試すような顔で、何度も僕を睨め付けてきた。その時の顔がまた蘇る。
「お兄ちゃんはさ」
夜の空に向かって、梨花の尖った声が吐き出されていく。
「自分が幸せなのが後ろめたいんでしょ」
「そんなことないよ」
「あるわよ。そういう表情をしてるもの」
「……」
梨花は口を開き、僕はそこに続く尖った言葉を受け止めようと身構えた。しかし、梨花は口を開いたまましばらく黙っていた。彼女は唇を一旦閉じると、もう一度開いた。
「とにかく家まで送るとか、いいから。早く春樹と暎万のところへ戻りなよ」
「もう寝てるよ」
「それでもいいからとにかく戻れ」
梨花は僕の両腕を掴み、乱暴に体を駅へと向けさせる。
「お兄ちゃんの、わたしがかわいそうって表情見てるとさ、元気になるもんもならないよ。だから、当分来ないでいい」
「梨花」
「いいから早く帰れ」
それで僕は半ば強引に駅へと引き返すこととなった。お互いに背中を向けて前へと進む途中で、ふと後ろを振り返った。梨花はしっかりとした足どりで前へと進んでいた。その背中をしばらく見ていた。
梨花
どこから話せばいいのかわからない。
わたしのこの話は、どこから始まり、どこにつながり、そして、どうなってゆくのだろう?わからない。
最初に思い出すのは、黒い靴だ。ストラップで止める形の、ツルツルとしたエネメルの黒い靴。恐ろしく硬くて、あれに足を通すのは拷問だった。ヒラヒラとした服を着せられて、出させられたピアノの発表会。
実際に覚えているのは、何を弾いたのかよくわからないまま終わった当日の記憶ではない。前日の夜遅くにベッドの中で聞いた両親の言い争う声だ。暗い部屋のベッドの中で体を縮めて、母の甲高い声とその合間に時折聞こえる父の低い声を聞いていた。
足が痛くなる靴も、格好ばかり一丁前で、たいしてうまくはないピアノも、全てが嫌でたまらなかったが、それでも当日父が来てくれたなら……。
あんなに惨めで空っぽな気分になったことはない。だからよく覚えているのだ。
父は笑わない人だった。全く笑わないわけではなく、ただ、父の無防備にもれる顔いっぱいの笑顔を見たことがない。怖い人だったわけではない。怖いというよりは、父はわたしにとって遠い人だった。仕事が忙しくて留守がちでもあり、たまに近くにいても、とても遠い人だった。
お父さんというものはいつも基本的に疲れていて、笑ったりはしないものなのだろうと小さな頃はなんとなく思っていたような気がする。徐々に大きくなるにつれて、他人の父親と比較するようになり、何か違うなと思うようになった。それから、断片的に大人たちから聞いた話を継ぎ合わせて、自分の父親のその、遠さがなんなのか知るようになった。
父には、もともと別の奥さんとそして子供がいたのである。
父がそばにいるのに遠く感じるのは、父の体はここにあっても、心がここにないからなのだと理解した。父の心は今も、そのもう1人の奥さんと子供の元にあるのだろう。
理解はした。ただ、それで楽になったわけではなかった。
あの日のことは今でもくっきりと覚えてる。父がわたしより年上の男の子を連れて帰ってきた日のこと。あの日、不機嫌だった母はもちろん事情を事前に聞かされていたのだろうが、わたしは当日まで家に同居人が増えることを知らなかった。しかし、父が連れてきた人の顔を見て、それが誰なのかはすぐにわかった。
兄の顔立ちは父に似ていた。父の面影がありありと顔に出ていた。
兄の顔に驚いている横で、父の兄にかける声音にもう一度驚いた。その声に滲む感情に。
兄の横にいる時、父は痛々しいまでに心をここにおき、残酷なまでに生きていた。今までわたしや母に対していたのはなんだったのだろうと思うほどに生きていた。わたしという実の娘の前で、そういう態度を見せることが、残酷なことだとは父はこれっぽっちも気づかなかったのだろうか。
そうは思ってもしかし、わたしは父を憎むことはできなかった。
兄は父に似ていた。わたしはあの頃、兄に受け入れられることで、父に受け入れられる錯覚を得たかったのかもしれない。その他にもこんな感覚があった。それは、わたしのこのぼんやりとした空っぽな感じは、この世界の中で誰にも話せず理解もされずに来たけれど、あるいは、兄には通じるのではないかと思っていた。いや、願っていた。
兄も父を奪われて生きてきたのだから、わたしとこの悲しさと寂しさを共有している、そんなふうに勝手に思い込んでいた。世界で兄だけが同じ一つの出来事から同様に傷ついているのだと。兄と出会い、熱に浮かされたようにそんなことばかり考えていた。
あの、兄が家に来て、そして同居をしていた短い期間に、自分の中でとある季節が過ぎた。それは一度過ぎて仕舞えば二度と元に戻ることはできない季節だった。人生を生きていれば、人には後戻りできない季節というものが訪れる。
***
「よろしくお願いします」
わたしが飯島に出会ったのは、そんな学生の時代を通り過ぎ、自分が新社会人になったばかりの頃である。
「せっかく大学を出たのに」
これはわたしの就職先が確定した時に母がつぶやいた言葉。
わたしの就職先では母を満足させることはできなかった。母はわたしに何かもっと有意義な仕事をしてもらいたかったのだ。アナウンサーとか、弁護士とか。しかし、わたしが就職した先は、大手百貨店だった。自分で言うのもなんだが容姿が買われたのだと思う。最初は外国物の高級化粧品の売り場に配属された。しかし、客相手にニコリとも笑わなかったためにあっという間に配属先を変えられた。それは家具売り場だった。飯島はその売り場の主任だった。
「問題児なすりつけられて災難でしたね。主任」
研修中にそう話しかけると、飯島は焦った。
「自分のことそんなふうに言うものではないですよ。上条さん」
初対面の印象はつまらない男だなと言うやつだ。
その売り場に置かれた輸入家具は全てが高級品で、売り場を訪れる客のほとんどが冷やかし客で、買う気もないくせにゾロゾロと歩いてくる。説明したって買わない奴らに説明する必要などないと思って、そうすると売り場ですべき仕事などほとんどない。なんでこんなつまらない仕事をしているのだろうと思いながら、来る日も来る日もフロアの片隅に突っ立っていた。
「上条さん、お客様の様子を見ていて、熱心に商品を見られているお客様がいたら、声をおかけして」
「説明したって買いませんよ。あの客」
「それでもいいから」
飯島はどこにでもいる真面目なサラリーマンだった。変わり映えのない毎日をせっせと生きる平凡な男だった。
「主任、頑張ったって、頑張らなくたって、給料が増えるとか何か変わるわけでもないのなら、頑張らないほうがいいんじゃないですか?」
とある日にずけずけとそういうことを言ってみた。
「上条さんは、若者らしいことを言うなぁ」
飯島は楽しそうに笑った。
「なんで怒んないんですか?そんなんだと馬鹿にされますよ」
「上条さんは、そういうことはしないでしょ」
「はぁ?」
「あなたは思ったことを直接言いますが、裏表のないわかりやすい人だと思います」
なんだか調子が狂う相手だった。
百貨店に就職して家具売り場で働きながら間もない頃、退勤して業務員用の通用口から店を出たところで、偶然古い知り合いの男に出会った。
「え、梨花?」
「……」
「なにお前、今、こんなとこで働いてんの?」
男は平日からひらひらとした格好で、仰々しく老舗百貨店を見上げた。学生の頃の知り合いで、こちらとしては再会したくない相手だった。男はヘラヘラと笑いながら言った。
「今日、今から暇じゃない?」
「あ、ごめん。ちょっと」
「じゃ、携帯教えてよ。変わってないの?番号」
自分は、なんだか強引にこられると、特にその相手が男だと、うまく断れない。男もわたしのそんな気質をよく覚えていて、さっさと携帯を取り出す。わたしの返事を待たずに呼び出し音を鳴らした。わたしのカバンの中で携帯が震え出す。
「あ、今も一緒なんだ。じゃ、今度改めて飲み行こうぜ。な、女の子の友達とか紹介してよ」
その日はそれで解放された。彼は学生時代と同じような髪や服装で、スーツをきてなかった。人伝に聞いたところ、起業した先輩というのがいて、その人と一緒に何かやってるのだと聞いた。昔から軽い男だった。きちんと就職しなかったと聞いて頷ける。今後付き合っていきたい相手でもなかった。
そんな男から電話が時々来るようになった。
「ね、俺のお世話になってる人にさ、梨花の写真見せたらすっごい気に入っちゃって、会いたいっていうんだよ。な、スッゲー金持ちなんだぜ。俺を助けると思って時間作ってよ」
「いや、困る」
「そんなこと言わないでさ。ね、メシ食うだけ。いいでしょ?」
昔、適当に生きていた頃の負の遺産だ。簡単に寝る女だと思われてるから、こんだけしつこくされる。本当にめんどくさい。
電話で断ったのに、とある日に店の出入り口で待ち伏せされてて、この時は流石に怖かった。
「なんでこんなしつこいの」
様子がおかしかった。目が泳いでいるというか、落ち着きがない。それだけに、彼がわたしを巻き込もうとしている、その物事に向かって少しゾッとした。
「お前、変わったな」
「変わったのは、お前だよ」
「もったいぶるなよ、お前、そんな女じゃないだろう?」
男と見境なく簡単に寝る女だった。男たちには重宝がられ、そして寝た後にぞんざいに扱われた。この目の前の男にも大切に扱われた覚えなどない。きっと何かの都合でその世話になっている人の機嫌を取らなければならなくて、だから、その男にわたしをあてがいたいのだろう。でも、そんなのこっちの知ったことじゃない。
「よくわかんないけど、わたし、知らないから」
「まぁまぁ、梨花ちゃん、そんなこと言わないでさ」
馴れ馴れしく肩を組まれた。その時、なんだか全てが面倒くさくなって、一瞬、おとなしくついてったほうが楽だろうかと思った。女というのは、一度肌を許した相手にはなんだか弱くなってしまう部分がある。弱くなるというか、緩くなってしまう。どうでも良くなってしまうのだ。
「君、何やってるんですか?」
するとそこに、場違いなヒーローが現れた。
「なに、おっさん」
男が冷めた声を出した。わたしが代わりに答えた。
「あー、上司」
「はぁ?」
飯島は男に見下ろされた。背の高い男だったのだ。それに対して飯島は、雨が降るかもしれないと思って持ってきたのだろうか、黒の折り畳み傘をはっしと抱えて、その多少柄の悪い私服の男に小柄なスーツ姿で立ち向かっていた。
なぜだろう?東京銘菓のひよこサブレを思い出した。ひよこサブレが戦おうとしているようなそんな感じだったのだ。
「俺ら、友達だから。別におしゃべりしてたわけで」
男が組んでた私の肩をぐいと引き寄せる。男性物のコロンの香りがする。その手から力づくで逃れた。
「いてて」
「友達とかじゃないし。今後電話かけてきても着拒するから」
男が悪態をつきながら向こうの方へ消えていくまで、飯島は彼の折り畳み傘をはっしと握りしめていた。
「元彼かなんかですか?」
「そんなたいしたもんじゃないですよ」
わたしは笑った。
「主任、奢りますよ。飲みいきましょう」
「ええ、困ります」
「いいじゃないですか。一時間だけ」
久しぶりに愉快な気持ちだった。嫌がる上司を引きずって、銀座のネオンを通り過ぎ、駅近くの居酒屋に入る。
「上条さんみたいな子はもっとおしゃれな店に入るのじゃないの?」
「主任、若い子にいちいち、いろいろなイメージ持ちすぎですよ」
ポテトサラダに煮穴子の卵焼き、牛のロースト、いくらの土鍋ご飯が最高に美味しかった。焼酎を飲みながら、気持ちよく酔っ払った。
「変なとこ、見せちゃいましたね」
「ああ、いや」
「主任のような真面目に生きてきた人にはつかないような虫が、わたしみたいな女にはついちゃうんですよ」
その時、お店の喧騒の片隅で、カウンターに並んで座っている飯島がメガネ越しにずっとわたしをみていたのを覚えてる。その時わたしは多分昼の顔を捨てて娼婦のような顔で笑ってた。
「でも、上条さんは今、真面目に生きようとしてるんですよね?」
「どーかなー」
「でも、さっきは嫌がってましたよね」
「……」
その後、飯島はカウンターの上に載せられたサワーをぐいと飲んだ。
「ぼ、僕は、上条さんはそんないい加減に生きている人だとは思いません」
焼酎のグラスを片手に持ちながら、一瞬ポカンとした。
それは結局あの人の、愛の告白だったのだと今では思う。でも、もちろん当時の自分はそんなことは分からず、しばらくポカンとした。その後、笑った。
「主任、そんな、ガチガチに固まってわたしに気なんか使わなくていいですよ」
「ええ?」
「そんな、真面目に生きてて、疲れませんか?」
口では軽く流したけれど、でも、飯島のその言葉は嫌いではなかった。
その翌日のことだ。
「上条さん、ちょっといいですか?」
「はい」
昼の休憩に入ろうとしたところで、飯島にコソコソと声をかけられた。フロアの隅の非常階段の踊り場まで連れて行かれる。
「これ」
「え……」
まるで、バレンタインデーに女の子がチョコを渡すようにもじもじと、大の男が紙袋を出してきた。
「なんですか?」
「そ、その……」
青ざめた顔で、主任は続けた。
「弁当」
「お弁当?」
素っ頓狂な声が出た。
「ぼ、ぼく、お弁当作るのが趣味なんです」
「え、あの弁当って、主任が作ってたんですか?」
「はい」
主任がお昼にはいつもお弁当を持ってくるのは、一緒に働いている人たちの間では有名な話で、その彩りの良さを眺めては愛妻弁当なんて冷やかされていた。誰も、本人が作っているだなんて思ってない。
「今日は上条さんの分も作ったので、食べてください」
「……」
そして、それだけ言うとさっさとあっちへいってしまった。がたんと音がして非常階段のドアが閉まる。わたしは気づくと1人ポツンと紙袋を持って階段の踊り場にいた。
同僚の人たちに弁当を見られると、飯島に弁当をもらって食べていることがバレないだろうかと心配になって、わざわざ屋上に出ることにした。片隅に座ると膝の上でそのお弁当を開いた。
小さな箱の中に綺麗な世界が広がっていた。とても不思議な感じでした。しばらく食べずに弁当を眺めた。それは美しく整えられた坪庭のようだった。それを見ながらぼんやりと思った。
母はわたしを見ているようで、でも、わたしのことは本当は見ていなくて、わたしを通して何か別のものを見ている。父はわたしを拒絶はしないが、しかし、見ていない。
わたしにはいつも、何かが足りなかった。欲しいものがあった。わたしが欲しいものというのは、ルビーでもサファイアでもなくて、誰かがわたしのことを思って作ってくれるお弁当のようなものだったのかもしれない。セックスや肌の温もりなんかより、わたしの好物はなんだろうかと思いながら、お弁当を作ってくれるようなそんなものだったのかもしれない。
わたしの体を与えても、男たちはいつもそれを重宝したけれど、だけどすることさえしてしまえば、そのあとはぞんざいに扱われた。わたしが欲しいものはいつもそういうところにはなかった。体の中に男が入り込んできて、ぐちゃぐちゃに掻き回して抜け出ていく。その後に広がる空っぽな感じを嫌というほど味わった。わたしはもう、そんなものは欲しくない。
みんなの前で弁当箱を返すのも、なんだか憚られてぐずぐずと残り、人がまばらになった頃を見計らい弁当箱を返した。
「おいしかったです」
「お口に合いましたか?」
「びっくりしました。まさか主任が作ってたなんて」
「秘密にしてください。なんか恥ずかしいんで」
ぷ、くくくくくと笑った。飯島が少し嬉しそうにしてた。
「上条さん」
「はい」
「あなたはいい加減な人なんかじゃありません」
「……」
「食べるって大事なんです。丁寧に作って丁寧に食べていれば、人は自分を大切にできる」
「はい」
「上条さんはもっと自分を大切にしてください」
飯島が作ったお弁当を食べたあとだったからだろうか、この時、素直にこの言葉を聞くことができた。
飯島はいつからわたしを愛するようになったのだろう?彼と会わなくなってから、わたしにはわりとたっぷり時間があって、それで、いろんなことを考えた。飯島のことも考えた。きっと真面目なあの人は、わたしと2人で飲んだあの最初の夜も、そして、お弁当を作ってきた次の日も、自分としては世話好きな上司として、行動していたんだと思う。行動しているつもりだったんだと思う。
だけど、そもそも彼は、上司としての行動範囲をかなり早い段階で逸脱してしまっていたと思う。飯島は本当にわたしを愛してたんだろうか。それについてもずいぶん考えた。
それはよくわからない。わからないなりに感じるのは、愛というのは、本当は人を温めるものであって傷つけるものではないと思うのだ。飯島がわたしを愛したことで、彼の奥さんと娘を傷つけているのだから、なんだかこれは愛ではないような気がする。
あの坪庭のように美しいお弁当をもらってから、自分もまた感化されて、お弁当を作るようになった。それもまた不思議な世界だった。
簡単に言えば、弁当を中心に毎日が回るのだ。つまりは、毎日、冷蔵庫に今何があるかを考え、お弁当に何を作るか考えている。どこで何を買うか考えていて、そして、お弁当を作って余ったものを夕食や朝食に食べている。
小さなスペースに色とりどりのものをみっちりと詰める。その時、確かに何かが満たされた。
「主任の気持ちがわかるような気がします」
「何?」
「お弁当を作るのって楽しい」
そういうと、仕事用とは違う笑顔で、飯島は笑った。友達同士のように、わたしたちはお弁当の写真をお互いに送り合った。
「何がそんなに楽しいの?」
同居している母が珍しく早く起きた朝に、弁当を作っているわたしに聞いてきた。
「あんた、彼氏でもできたの?」
「単純ね。そんなんじゃないわよ」
「男なんて、信じるものじゃないわよ」
朝から昼ドラっぽいセリフを吐くと、寝巻きのままでベランダの方へゆく。そのごつごつした背中。綺麗に晴れた空へ向かってタバコを吸ってその煙を吐いている。
こんな女にはなりたくないとその痩せた背中に向かって思うけど、きっとわたしは母のようになるだろうなとも思う。
お弁当を作り始めてから上向いていた気持ちが簡単に落ちた。
駅へと向かって朝から沈んだ気持ちで歩く。父は、母と離婚したのだが、離婚を決めた時に母を捨てて自分のところに来ないかと言った。一緒に住もうといった。本当はわたしは父と一緒に母から離れるべきだった。そんなの誰にも言われなくてもわかってた。母を好きなわけじゃない。愛してもいないと思う。ただ、それでも見捨てられない。
父にとうとう捨てられて、わたしにまで同時に捨てられたら、母はどれだけ寂しくて惨めだろうか。惨め、わたしは手に取るように母の気持ちがわかる。その孤独、絶望。どうしようもない人だけど、でも、のたれ死ねば良いと道端に捨てられるかといえば、それはできない。それが親というものだと思う。
「なんだか、元気がないですね」
お昼に1人で屋上でお弁当を食べていると、飯島が来た。
「主任、売り場は?」
「佐藤君が見てます」
「インフルじゃなかったんですか?」
「あれは多分仮病ですね」
「やだ……」
笑った。
「ちゃんと注意しました?」
「注意って?」
「お前、インフルって嘘だったんかって」
「彼ならいや昨日までインフルでしたって言いますよ」
「もう、そんなんじゃダメですよ、主任」
それから話すことがなくなった。わたしは1人で弁当を食べて、飯島はただ横にいた。なんでだろう?ふとポツリとどうでもいいことを飯島相手に話していた。
「本当はね」
「はい」
「小さい部屋でもいいから、家を出て一人暮らししたいんです」
「すればいいじゃないですか」
「でも母をほっとけないんですよ」
「優しいんですね」
「いや、どうかな」
空に飛行機雲ができている。それを眺めながら、ポツポツと言葉を繋ぐ。
「母を捨てたという罪悪感に追い回される勇気がないのかな。踏み切れないって感じです。愛じゃない」
「ハァ……」
会話はそこで一旦終わった。その後、今度はポツリと飯島が言った。
「僕の妻もそんな気持ちなのかなぁ」
「なんの話ですか?」
自分から家族の話を振っておいて、飯島から奥さんの話が出た時にはギョッとした。
「僕を愛しているのではなくて、僕をいよいよ捨てて、罪悪感に追い回されるのが嫌なんでしょうね」
「……」
何か合いの手を入れるべきなのだろうか。しかし、いうべき言葉はすぐには浮かばなかった。
「もうね、何年も口をきいてないんですよ」
「え、別居してるってことですか?」
「違うんです」
飯島は虚な目でわたしを見ながら言った。
「事務的な会話はするんです。必要最低限の会話」
「じゃあ、別に普通じゃないですか」
「いや、普通じゃないでしょう?」
「ああ……」
しまったと思う。我が家の両親が徹底して事務的な会話しかしていなかったので、夫婦とはそういうものだとどっかで思ってた。そうだ、普通ではないのだ。
「何に怒っているのか、何が気に入らないのか、考えても全然分からなくて」
「聞けばいいじゃないですか」
「別に何も怒ってなどいないって言うんです。そのうち聞けなくなりました」
「はぁ」
「それで、娘と2人でそれなりに楽しそうに生活してるんです。僕を除け者にして」
「……」
「疲れてしまったんですよ。いっそ、妻の方から離婚してくれと言ってくれないかなと思う毎日です」
「いや、待たずにご自身で言ったらどうですか?」
すると弱々しく笑った。
「そうですよねぇ。でも、踏ん切りがつかなくて」
わたしと飯島の間にざわざわとした何かが始まったのはこの時だったのだと思う。
自分はかつて、兄に、この自分の内にある漠とした虚なものを埋めてもらうことを望んでいた。わたしには自分のこの虚を埋めることに対する相手への条件があった。採用条件だ。
それは苦痛の共有である。
同じような苦しみや痛みを知っている人とでなければ、分かち合えないものがこの世にはある。そう埋めてもらいたかったのじゃない。分かち合いたかったのだ。
満たされて生きてきた人には分からないだろう。
こういうわたしたちの、こういう行為には繋がっている先などない。
最初からどこかに繋がっている道を目的地に向かって歩いてきている人に、わたしの気持ちなんてわかってたまるものか。苦しくて苦しくて、どこかに繋がっていくために何かを手に入れようなんてそんなまっすぐな考えなどとは全く関係なく、手に取りそれが毒かもしれないのに飲み干す人間の気持ちなんて、満たされて生きてきた人間には逆立ちしたって分からない。心が渇いてしょうがないのだ。
磁石が引かれ合うように、わたしたちは、苦痛の共有を始めることになる。
わたしたちは小さな部屋を借りた。それは、わたしたち2人の間では、母を捨てることのできないわたしが、ゆっくりと時間をかけて一人暮らしを始めるための部屋だった。
まるで結婚を予定している夫婦のように、あるいはまんま訳ありカップルのように、わたしたちは一緒にアパートを見て回った。
「こちらはね、ちょっと日当たりが悪くて……」
担当の男の人が、苦笑いしながらドアを開ける。
「この窓の外の木を切りましょうってオーナーさんにもう何回も言ったんですけどねぇ」
2階のその部屋は庭に面した窓いっぱいに青々とした木の葉が広がっていて、日も景色も遮っていた。
「まるで森の中にいるみたい」
「ですよねぇ」
緑に支配されている窓を、わたしはしかし気に入った。森の中に閉じ込められたような錯覚を覚えた。わたしは世界に忘れられたかった。誰にも見られていないと思えると不思議な安心感があったのだ。
その部屋を借りたいというと、不動産屋さんは驚いて、そして、瞬間ちらちらとわたしと飯島の顔を見比べたが、次の瞬間には満面の笑みで、我々を社有車の方へと誘い契約のために事務所へと車を回した。
わたしの名義で生まれて初めて部屋を借りた。
仕事が休みの時に、わたしは朝家を出て、まるで会社に通うようにわたしのその部屋へゆく。そして、たっぷり1人で過ごした後に、夜遅くに自分の家に帰るのである。その部屋の鍵を飯島も持っていて、やはりわたしと同じように仕事がない日に会社に通うように家を出て、たっぷりと1人で時間を過ごした後に家に帰る。百貨店の休みは基本バラバラなので、飯島とわたしが同じ日にそこを訪れることはなかった。
不思議な関係だった。わたしたちは1人でその部屋にいながら、別の時間にいる相手のことを思いながら、時を過ごした。それはわたしたちだけの秘密の時間だった。そうやってわたしたちは自分たちの心の奥に潜む最も痛い部分を癒していた。傷ついていた獣が森の奥で休むように。
小さな冷蔵庫の中に時々飯島がわたしに物を残していることがある。ちょっと見たことのない変わったヨーグルトとか、飯島がこの部屋で作った料理とか……。わたしはそれを食べながら、飯島に他愛もないメッセージを送る。仕事の合間に返事が返ってくる。それは束の間の休息だった。わたしたちの魂の休息の日々。
百貨店の休みは基本バラバラなのだが、月に数日は全館休館の日がある。
特に約束をしてたわけではなく、でも、なんとなくこうはなるのだと思っていた。渡り鳥が季節が来ると決まって渡りをするような自然な様子で、わたしたちは同じ部屋に集まった。
飯島ははしゃいでいるというか、緊張しているというか、落ち着かない様子で、立ったり座ったりしていて、そして、突然帰ると言い出した。玄関で靴を履いている飯島を捕まえたのはわたしだ。
捕まえられてこちらを振り向いた男が、とても怯えているのがわかった。
暗くて深い淵のようなものの縁に立って、それを覗き込んでいるような目。
飯島がその時、何を恐れているのか、わたしにはちゃんとわかっていた。超がつくほどの真面目でつまらない男なのだ。
「やめときますか?」
冷静だったと思う。冷静なのだけれど、同時に、その時の自分は静かに完璧に狂っていた。そう、わたしと飯島は違う。わたしの奥の奥には、狂気が住んでいる。ずっと奥の方に広くて冷たい綺麗な花畑があって、わたしはそこに1人ぼっちのまま大人になるのをやめてしまった女の子を抱えている。
残酷なほどに冷たくて美しい蝶が、その時、羽ばたいた。
わたしはどうしてもこの、苦痛に追い詰められているが、ギリギリのところでまだ、わたしとは違うあちら側にいる男を引きずり込んでしまいたかった。
顔が見たかったんです。この真面目な男がどんな顔をしてわたしを抱くのか。
愛していたからか?
まさか。そんなんじゃない。
満たされながら生きてきた人にはわからないだろう。わたしには、自分の体を男に向かって開くことに対して、たいした抵抗感はないんです。ちっともないと言ってもいいかもしれない。
自分の手は少し冷たかったかもしれない。その指で、飯島の顔に触れた。
「なんで?」
「理由が必要ですか?」
必ず落ちると思ってた。でも、同時にわたしとしてはこの男が落ちなくても良かったんです。交渉ごとというのはいつも、別に必ずこれを取れなくとも構わないと思っている方に有利に動く。この男を落とすためには、少し触れた手を離し、そして、後ろに下がるだけで良かった。
追えば逃げて、逃げれば追う。
履きかけた靴を慌てて脱いで、逃げようと後ろへ下がったわたしを飯島が追いかける。ひよこサブレのような人も、この時はちゃんと男の顔をしていた。
森の中のような緑の影が差し掛かる昼間の部屋で、お互いに息を押し殺して、昼間にするセックスは、ありとあらゆる音を聞きながらしている気がする。いろいろな他人が立てている生活の音の中にひっそりと自分たちの立てる音を紛らわせて、そして全てを耳で聞きながら、会話はしない。
時折飯島の動きがぎこちなくなる。頭を何かで殴られたように正気を失っている彼が、騙されるのをやめてもう一度向こうへ戻ろうとしているのだと思う。わたしは自らの体を動かして、そのぎこちなさを埋める。まるで、精巧に組み立てられた機械仕掛けの仕組みに、油が足されて滑らかに澱みなく動き続けるように、何もかもを忘れてただの一連の細工にでもなったような気持ちで、お互いに果てるまで体を動かし続けた。
その後、寝っ転がって天井を眺めた。
日の光というのは時間によって色を変える。弱くて強くてまた弱い。少しずつ緑色の光の色が変わっていくのを眺めていた。
「なんで……」
その時、自分は飯島が横にいることを忘れていた。わたしは天井の光を見つめたままで口を開いた。
「こういう時につまらないことを言う人だとは思ってました」
「つまらないこと……」
「なんだっていいじゃないですか」
風が吹けば、葉のかげと光が同時に揺れる。
「みんな、一生懸命、セックスに意味を求めるけど、別にこんなことたいした意味なんてないんじゃないですか?気持ちよかったらそれでいいじゃない」
飯島は体を起こして、寝っ転がっているわたしをじっと見ていた。わたしは仰向けに寝ていた体を横に起こして、片手で頭を支えながら飯島と向き合った。
「最初っからわたしとしたかったんでしょう?」
その時、まるで泥棒に何かを盗られた人のような顔でわたしを見ながら、飯島はボソボソとこんなことを言った。
「僕はいつも、憧れの人に恋をする」
「話、噛み合ってませんよね?」
「僕の奥さんも、憧れの人だったんです」
「は……」
そして、あろうことか突然、こんな時にまた奥さんの話をし出した。呆れたが、でも、怒りはなかった。喉が渇いたので体を起こして下着とTシャツを着ると立ち上がり、冷蔵庫を開けてそこに入っていた弱炭酸のペットボトルを取り出して、立ったままそこでそのまま飲んだ。冷蔵庫がパタンと閉じるのを待って、飯島はまるで紙芝居でも読んでいるように彼の話を続ける。
「手に入るなんて思ってなかった。手に入れた時は天国のように幸せで」
「ハァ」
「だけど、何かが違うんです」
「……」
「手応えがないんですよ。一緒にいても遠い。踏み締めているその地面が砂のように心許ないんです。僕たちの結婚は」
心が渇いてどうしようもないんです。
それが毒なのかわからないものに手を伸ばして飲み干して、ほんのわずかな時間、乾きを忘れた時に、飯島はやはり奥さんの話をしていた。
わたしはペットボトルを持ったままで、飯島の隣にぺたんと座り込んだ。そして飯島の言葉の一部を繰り返した。
「踏み締めている地面が砂のように心許ない」
「……」
「その感じはなんとなくわたしも知っている」
「愛し、愛されたいだけなんですよ。本当はただそれだけ。でも、手を伸ばした先には砂のように簡単に崩れてしまうものしかないんです」
わたしはその時、飯島の言葉を聞きながら、父のことを思い出していました。わたしの中での父は触れられない、触れると崩れる砂像のような人だった。
「全然愛されていない、とは思えないから、諦めきれないの?」
「そうなんでしょうね」
結局は、惨めな男と惨めな女が、みんなに忘れ去られた世界の隅っこにいるように感じられる部屋で、こっそりと慰め合った。そういうことなんだと思う。わたし達の間に起ったことというのは。
それからも時々、わたしが休みで、飯島が早く上がれる日、男はわたしの元を訪れた。飯島がセックスを求めてくれば、わたしはそれに応えた。二人には約束はなかった。あの部屋で夕刻になると、今日は来るのか来ないのかと思いながら過ごす。飯島が来なかった夜は、パチンと壁のスイッチを消して、ドアに鍵をかけて家へと向かう。
それは、信号が赤から青になるのを待つように、非常にこだわりのない感情だった。来てもいい、来なくてもいい。透明な気分でいた。少なくともわたしは、そういう透明な気分でいた。
とある日に、とある会話の一環として、行為が終わった後にこう聞いたことがある。
「最近奥さんとこういうことやってないんでしょ?」
「……」
「聞くまでもなかったか」
よく考えれば、会話すらしない夫婦がセックスするわけないか。
「どうしてそんなこと聞くの?」
「どうしてって」
わたしは飯島とのことをこんなふうに感じていた。うっすらとしたグレイの空から小雨が降っていて、コンビニの透明な傘を刺していて、その傘越しに信号が赤から青に変わるのを待っているような。そんな時の気分だった。いつまで続くのかとか、失ったらどうしようとか、全くそんなこだわりはなく、赤だから止まっていて、青になったら前に出る。何も考えずにいた。
「梨花さんは僕とどうなりたいの?」
飯島とわたしはどん底のような苦しいところにいるという点では、同じ人間だったのだけれど、生まれて育ってきた環境は全然違う。飯島がわたしと同じように、信号を待っているような平静さでこの部屋に来ているわけではなかったのだと、その時気がついた。
「つまらないことを言う人だと思ってました」
「僕は真面目に言っているのだけど」
「よく言いますね。こんだけ奥さんの話をしておいて」
飯島のような人にはわからないだろう。愛するから体を重ねて、体を重ねたら相手に愛を求めるとか、そういう仕組みとは全く別に動く人間なんてこの世に掃いて捨てるほどいる。セックスすることに意味などないのだ。冬の寒い日にマフラーを巻くようなことだ。時折来て、慰め合って誰にも話さないような話を聞いたり、その話に刺激されて自分のことを考えたりする。これは自分にとって不快ではなかったが、この関係には期限も約束もいらない。いつ終わってもいい。
つまりは結局、束縛の話だと思うのだが、わたしは男に体を開くことは平気でも、束縛を許すのは別なのだ。また、束縛するほど相手に執着するのには、相手を吟味するというか、飯島に自分が執着するのは、自分のプライドが許さない。
それは、テンポラリーなものだと捉えていた飯島との関係が、少しややこしくなってきたなと思い始めた頃、いつもと変わらないとある出勤日のことだった。
百貨店が業務を開始した直後、自分はいつものように高級家具売り場で、イタリアから輸入された革張りのソファーのそばにいた。その革は、ラクダの色だからキャメルとでもいうのか、そういう色のどでかいソファーで、値段も高いしどう考えても自宅用にはならないだろう。カッコつけたいホテルのラウンジとか、オフィスとかにどんと置けばよい。だから、一番目立つところにおいているが、これはもう何年も売れてないのだ。
最終的には売価を少し下げて、店舗で売るのは諦めてそういう業者に引き取ってもらう。いわば展示のためだけに仕入れた商品なのだが、これがまた手入れが面倒なのだ。業者に売り飛ばす時に革に乾燥のために細かくヒビが入り傷んでいたりすれば、びっくりするほど値段を下げられる。だから、始業前には毎日のように欠かさず保湿のためのコンディショナーを使って、手入れをするのが新入社員の役割なのだ。
こんな手入れの面倒な高いもの作って使うぐらいなら、頑丈で掃除しやすいプラスチックの方がマシだと今日も思いながら、重くて馬鹿でかい動かないキャメルに丁寧に保湿処理をした。自分の肌以上に手入れをしている気がしないでもない。
通常の始業前の手入れが終わり百貨店が下の大きな扉を開けて買い物客をちらほらと取り込み始めた時、最上階にある我々の売り場まで客が到達するのには少し時間があるし、わたしはフロアの端っこに立って、ガラス越しの街なみを見ていた。朝から少し休むというかサボるというか、ぼうっとしていた。すると後方から声をかけられた。
「上条梨花さんですか?」
変だと頭のどこかでは思ってたかもしれない。だって、生活の中でフルネームで呼ばれることってそんなにない。それに知らない声だった。だけど、人間ってやっぱり名前を呼ばれたらとりあえずは答えるじゃないですか。
「はい、わたしが上条ですが……」
振り向いたところにいたのは、綺麗な上品な女の人だった。趣味のいいワンピースを着て、真夏でもないのにつばのある帽子をかぶるのは、やはり最近は紫外線を気にする人も多いからな。そして、屋内でサングラスをかけているのにはちょっと違和感を感じた。
ドンっとすごい勢いでその上品な女の人が体当たりを喰らわしてきた。至近距離だし、まさかそんなことをするとは思ってなかったからまともに食らった。
「お客様、何を?」
どうしよう誰を呼ぼうかな、わたしに体当たりをしてきた彼女を半ば抱き抱えるようになりながら、(わたしのほうが背が高かった)周りを見渡した。少し離れたところに文房具と書籍売り場の主任がいるのが見えた。
わたしにぶつかっていた女の人がその体を引いて二、三歩下がった。それでわたしは隣の主任を呼ぼうとそちらに足を一歩出そうとして、床に崩れ落ちた。
どっかで誰かが叫んだような、男の人がわたしの名前を呼んだような、何が起きたのか正確にはよく覚えていない。次の瞬間、わたしは床に倒れたままで頭を回らし目を回らして気がついた。
百貨店の、毎日これでもかと磨き込まれて白く輝く床の上に真っ赤な血が広がっていく。すごい量の血だった。
周りが大騒ぎになって人があっちこっちから集まったり、あの綺麗な女の人がとり捕まったり、そういうことはなんとなくわかっていたけど、その時はもう体は動かせないし、知覚自体が一つずつ狭まり緊急停止に向けて動いているようで、聴覚、視覚、嗅覚、触覚、クローズしていく中でただ、わたしはその自分の体から流れている血を見ていた。
こんなに真っ赤なもの、見たことない。光沢のある床をどんどんと侵していく。
その後、意識を失う直前に最後に考えたことを妙にくっきりと覚えている。これがちょっと思い出すたびに今でもくすりと笑ってしまうのだが、
ああ、わたしのあの赤い血が、飛び散ってあのキャメルに染みでも作らなかったかと考えた。
***
冗談ではなくその後、自分は死にかけた。
夢と現を行ったり来たりして、後から聞けば目覚めてはまた昏睡するということを繰り返していたらしい。
その時、長い夢のようなものを見ていた。それは不思議な夢だった。あれは鷹なのか、それとも鷲なのか、はたまた鳶だったのか。よくわからない。自分が滑空する鳥になって悠々と空を飛んでいるのだ。どこまでも。
それと同時に、そういう空のようなところから自分の生まれてきてから今までに起こったことを同時に俯瞰している。多数の複数の事象を同時に俯瞰しているのだ。
それで、ジグソーパズルが一気に完成するような経験をした。
死に向かうその短い時間の間にわたしの意識が超次元に加速して、完成など程遠かったわたしという人間の一つの画を完成させた。
そして、とある日に目覚めた。
清潔な空間の中で、たくさんの器具がわたしにつけられていて、廊下の明かりがぼんやりと入り込み、部屋は暗かった。小さな電子音が規則正しく耳に届く。体がずっしりと重い。頭がこれでもかとぼんやりとして、一体、痛いのか重いのかよくわからない。そんな状態で、わたしは普段の何倍もの時間をかけて、自分の身に何が起きたのかについて思い出してみる。
一体、誰が自分を刺したのか。
しばらく自分が自分の知らないところで、犯罪組織というかなんというか、そういうものに巻き込まれていたのかという可能性についていちいち検討してみた。ちょっと前にしつこくしてきたあの男の関係者とか?しかし、呼び出されてそれに応じたわけでもないし。
そして、病院のベッドの中ですぐに疲れてしまった。その後、ああ、死ななかったんだなわたしと思った。
考えるまでもない。多分あれは飯島の奥さんなのだ。最初っからわかってたけど、それを考えたくなくてありもしない可能性を考えてみただけ。自分の知らない訳のわからない犯罪組織など存在しない、それよりシンプルに結論は、あれが飯島の自慢の奥さんだったのだろう。
何より驚いたのは、奥さんが刺すほどにわたしを恨んだというか、飯島をほっとけなかったことである。どうでもいい男だったからその存在を100%に近く無視していたのではなかったのか?また、自分の置かれてしまったややこしい状況についても理解した。自分だけじゃない。一番ややこしいことになってしまったのは、飯島の奥さんであり飯島だろう。
その後、もう一度、ああ、わたし死ななかったんだなと思った。
別に死にたかったわけじゃない。ただ、ややこしいことになってしまったので、これはことによると死んだほうが楽だったのではないかと思ってしまったということだ。
ここまで考えて気を取り直してナースコールというのだろうか?ボタンを押そうと手を伸ばす。ここで目覚めて初めて体を動かした訳だが、その体が鉛のように重い。宇宙に飛び出て、重力の異なる新しい星にいるみたいだ。
ボタンを押すと、看護師が飛んできた。そのうち当直中で仮眠をしていたかもしれない若い医師が来て一通りのことを確認する。その後、どうしようもなくだるくなってまた眠った。次に起きた時には明るくなっていて、傍に父と母が座っていた。
「お父さん」
「あ、起きたか」
先生を呼んでくるといって、父が部屋を出ていく。アイボリーや薄いピンクが基調の落ち着いた色調の病室から出ていく父の背中をしばらく見ていた。わたしの体に色々とついてた器具は少し減っていた。
「お母さん」
病院のようなまともな空間の中に母を置き、昼の光の中で眺めてみると、母の疲労というかなんというかがそのままくっきりと現れていた。母が前よりも小さくなったように見えた。
「ごめんなさい」
「あんた一体、何をしたの?」
それから突然、何かに憑かれたように母は捲し立て始めた。その滝のようにほとばしる会話にわたしは分け入った。
「それはつまり、わたしが妻子ある人に手を出したことをなじってるわけ?」
自分の顔が醜く歪むのがわかった。きっと今自分は、とても複雑な笑顔をしているのだろうと思う。熟年の俳優でも、再現するのが難しいような笑顔。
「他の人に言われるのなら素直に聞くけど、あなたにだけは言われたくない」
自分の声が最後で少しだけ震えた。
大きな音を立てて母が立ち上がり、わたしを冷たい目で一瞥するのと、父が医師や看護師を連れて戻ってきたのが同時だった。母の剣幕に看護師がびくりとしたのが目の端に映った。母がそれらの人々の横をするりと通って出ていく。難しい顔でその様子を眺めていた父がわたしの方へと近寄ってくる。
「お父さん」
「なんだ?」
この日の父はいつもよりも、なんというのだろう?瞳にわたしに対する愛情を湛えていた。父はずっと、その瞳と心に複雑な愛情を湛えていた。何もなかったわけじゃない。でも、それはとても遠かった。とてもとても遠かったんです。
「生まれてきてごめんなさい」
そう言った途端に、溢れるように涙が出てきた。後から後から出てきて、お医者さんたちはそれを医学的にどう捉えたのか知らない。小声で看護師に指示を出しながら、わたしの脈をとったり、バイタルというのだろうか、生命に関わる数値を確認したりする。複数の人たちにされるままになりながら、わたしは泣いていた。無防備に幼児のように。
昏睡の間見ていた不思議な夢の中で、わたしが辿り着いた答えはそれだった。意識の中で言語化されていなかった、わたしの父への延々と続いてきた気持ち。
これだけは伝えたかった。
今更、わたしが生きるとか死ぬとかいう問題じゃないのだと思う。
わたしが生まれてきたことが問題だった。父は、わたしが生まれてこなければ、誰を傷つけることもなく、また自分を傷つけることもなく生きていけたのだから。
「ごめんなさい、ごめんなさい……」
「梨花……」
「お父さん、ごめんなさい……」
父も泣きながらわたしのベッドに腰を下ろして、泣いているわたしを抱きしめた。
その時、わたしは悲しかったのか?いや、泣いてはいたけれど、悲しくはなかった。ずっと、ずっと長い間、霧の中を歩き続けてきて、その霧がやっと晴れたような気持ちだったんです。一体何が自分の中で問題となっているのかが、どうしても言葉にできなかった。それがどんなに残酷な真実であったとしても、わたしはそれを知りたかった。
わたしは母をずっと許せなかった。許せなかったけど、でも、心の底から憎んだり見捨てることもできなかった。そして同時にずっと、父に罪悪感を抱えて生きてたんです。愛情と共に罪悪感を。
その後は色々な、ややこしいことが待っていた。
わたしが目覚めてから数日後、容態が落ち着くのを待って、刑事がやってきて色々聞かれた。自分が犯した所謂、婚外恋愛というのだろうか、こちらの罪は民事の範疇であり、しかし、刺傷については刑事となる。まるで市役所の職員のような地味な男の刑事がやってきて、わたしの傍らに座り小型のノートを開いた。
「あの、わたしが訴えないということなら、問題にならずに終わりますか?」
取り調べ、ではないのか、参考聴取?なんでもいいが、その合間に聞いてみた。
「親告罪というのは軽症の場合で、上条さんのような重症の場合は適用されません」
「は?」
ノートを開いて色々とメモしていた刑事はその手を止めて言い直した。
「上条さんがたとえ訴えなくても、社会秩序を逸脱した行為は刑事罰の対象となります」
「ああ、そうですか……」
それからまたしばらく細かく色々と聞かれる。主に飯島といつどこで会ったのか、その時、性行為をしたのかどうか等のつまらない話だ。本当にげんなりした。
「あの、執行猶予でしたっけ?ああいうのはつくんですかね?」
まるでロボットのように淡々としかし非常にプライベートなことをずけずけと聞いてきた刑事は、ため息をついた。初めてこのロボットが人間らしく見えた。
「それは裁判で争われる点ですので、我々にはなんとも言えません」
「でも、刑事さんはわたしよりは詳しいでしょう?」
ここでもう一度ロボットはため息をついた。
「裁判では、被害者が厳罰を望んでいるかどうか」
「望んでいません」
「あとは、上条さんに後遺症が残るかどうかの被害の程度」
「ああ……」
「それから殺意」
「殺意……」
「どのように思い立って犯行に至ったのか」
「はぁ……」
殺意、殺意なんて言葉が自分の生活の中で使用される日が来るとは思わなかった。殺意。その時、自分の体の傷が疼いた。
「わたし、一歩間違ってたら殺されてたんですかねぇ」
「そうですね」
「……」
そう言われてもいまいち実感がなかった。でも、よく考えたらそういうことだった。わたしは殺されるところだった。そこで突然ロボ刑事は眼鏡を外した。
「正直……」
「はい」
それから、こめかみを少し指で押した。
「上条さんは死にかけたのですよ。どうしてそんなに軽いのですか?」
「……」
その時、また傷が疼き、そして、自分の心臓の鼓動と、身体中を巡る血液の音が聞こえた気がした。
「いや、そんな大した意味が、飯島さんとの関係にあったわけではなく」
「はい」
「つまりは、飯島さんとの関係がわたしにとっては軽かったのにこんなことになっちゃってびっくりしています」
「……」
ここでまたロボ刑事はすちゃっと眼鏡をかけた。
「こんなことをわたしの立場で言うべきではないのかもしれませんが」
「はい」
「たとえば、たとえばですよ。上条さんも厳罰を望まれていないし、執行猶予が認められて、飯島が刑に服さなかったとする」
「はい」
「もう一度あなたを刺しに来たらどうするんですか?」
「……」
何も言えなかった。
「もう少しご自身のことを中心に考えられたらどうですか。確かにあなたにも悪い点はあったのかもしれない。だが、それは命を差し出さねばならないほどの悪だったのでしょうか」
***
あの、日常生活から突然切り離されて、ただ治療のためだけに入院していた日々、体の軋みのようなものと日々付き合いながら、それと並行して色々なことを考えた。
会社はやめてしまった。もともと思い入れのない仕事だったし、こんな大事件を起こしてしまったからには、さっさとやめてしまったほうが厄介ごとが一つ片付くと思ったからだ。会社の人と顔を合わしながら処理するのが嫌だったので、兄に間に入ってもらった。
飯島の奥さんの裁判には、自分も原告として招致されることが決まっている。これが気が重かった。なんというか、奥さんの罪が裁かれるというより、自分の罪が裁かれるような気がしていた。ある意味ではそうなんだろう。
わたしにとっては、なんでもないことだった。しかし、わたしのその軽いというかいい加減な生き方に人を巻き込めば、時に自分でも思ってもみなかったようなところまで、出来事というのは転がっていく。
どうしてそんなふうに、人生というのはできあがっているのだろうか。
わたしは、体の軋みに耳を傾ける一方で、奥さんがわたしに抱いた殺意について想像してみた。病院の中庭で、入院患者の服を着て、ベンチの背もたれにどさりと体を預けて空を見ていた。お互いに追いかけっこをしているような雲を眺めながら飯島の奥さんに思いを馳せた。
結局、奥さんは飯島を愛していたのだろうか?
少なくとも無関心ではなかったのだろう。
彼女に対するピースが少なすぎて、十分な答えが見つからない。
見つからないのだけどそれは、暴力的な独占欲のようなものだったんじゃないか。
自分のものを奪われたことに激怒したのではないか。そんな気がする。よくわからない。
自分のものを奪われたからといって、新品の万能包丁を準備して、業務開始直後に真っ直ぐ階を上がり、躊躇せずに人を刺す人間の思考回路がわからない。あのロボット刑事が言ったように、こういう人は執行猶予がついて自由であるならもう一度、仕留め損ねた相手を襲いに来るのではないか。
そう思ってみてもいまいち、恐怖というか、悔しさというか、そういう感情が湧いてこない。
「あなた、そんなに若いのにどこが悪いの?」
物思いに耽っていると突然、話しかけてきた人がいた。そちらを見ると、自分と同じように入院患者の服を着て、長い真っ白な髪をおさげに編んだ老婆がいた。
「もしかして、不治の病?」
ぶっと笑ってしまった。
「あらごめんなさい。美人な人は不治の病って思い込んでて」
「いや、そんなんじゃないです。ちょっと事故っていうか」
「ああ、そうなの」
歳をとると、人は図々しくなるのだろうか。しかし、不思議とその図々しさが気にならない変わった人だった。
「そういうわたしは不治の病なのよ」
「え?」
「癌なのよ。もう、この歳だし、お医者さんに手術なんかしないでゆっくり死ねばって言われてる」
「は?」
こちらが目を丸くしていると、老婆は楽しそうに笑った。
「やあねぇ、もうこのくらいの歳になると、癌なんてなかなか大きくならないのよ。だから治療するのとしないのはあんま変わんないの。苦しいの嫌いだから、全部やめちゃった」
「はぁ」
「ね、あなたはどこが悪いの?」
「どこがというと……」
「わたしね、ジェーンっていうの」
「ジェーン?」
突然、外国人の名前を言われてつくづくとその顔を見る。そういえば、少し外国人を思わせるような顔立ちかも……
「本名じゃないわよ。もっとつまらない地味な本名があるわ」
「……」
一瞬黙った後に、大笑いした。
「イタタ」
「やあね、笑いすぎよ。大丈夫?」
「はい」
冗談ではなく、本気で傷口が開くかと思った。内臓にも少なからず損傷があるのだ。こんなに笑ってはならない。
「ね、あなたのような美人が、どんな事故を起こしたの?」
「それを聞いてどうするんですか?」
「暇なのよ」
あまりに素直すぎる返答に気が抜けて、また、自分自身もゆるい人間なので、本来話してはならないことを不用意に話してみた。
「殺されかけたんですよ」
「え、冗談でしょ?」
「それが本当なんですって」
「ええ?」
わたしはポツポツと事件のあらましを語った。なんのことはない。二人とも暇だったのだ。ジェーンさんは緩和ケアのために抗がん剤治療を受けていて、入退院を繰り返す日々の中での入院中だった。医療行為を受ける以外は、体の軋みに耳を傾けつつ時間を潰す以外にすることがない。
「普通なら刃物を持ち出して躊躇うというか立ち尽くす瞬間があると思うんですけど」
「うん」
「奥さんはわたしが気づく間もなく一気に刺してきたんです。手に何か持ってるなんて気づく間もなく次の瞬間に」
「うん」
「お医者さんに言われました。相手が、まぁ、どこを刺すのかわからない人だから場所がずれたので助かったって。深さも相当あったみたいで」
「あら」
その時、ジェーンさんはそっとわたしの片手に手をのせた。
「大丈夫?怖かったでしょう」
「それが……」
病院の庭木の香りを肺に吸い込みながら、自分の心の中を点検するように見渡してみる。
「正直、まだ、本当にそんなことがあったって信じられないっていうか」
「あら」
「死に至るほどの鋭い傷っていうんですか?痛みを感じないんですよ。わたし、本当に刺されたのに気づいてなくて歩こうとして崩れちゃったんで。本当に一瞬で」
「うん」
風がどこからか吹いてきてわたしたちの髪を揺らした。
「でも、わたしもその裁判に出なきゃいけないみたいで、それがすごい憂鬱です」
「そうなの?」
「多分、わたしが何をどう言うかによって、奥さんの罪の重さが決まっていくんですよね。それがすごい憂鬱です」
「あなた、自分を刺した相手に対して悪かったなと思ってるの?」
「ううん、なんていうのかな」
わたしは軽く目を瞑った。
「自分は、自分自身は適当に生きてる人間なんですけど、そこにちゃんと生きてる人間を巻き込んで楽しむまでには腐ってないというか……」
そう、だから、あの日、あの時、わたしはやっぱり間違ったのだと思う。
「こんなことになると思ってなかったので、なんだか気が重いんです」
その時、老女は、カラスが木の上で鋭く警告を発するような、そんな強い声で鳴いた。
「ねえ、あなた、そんなことじゃこの先、生きていけないわよ」
「え?」
「あなたが巻き込んだんじゃない。あなたが巻き込まれたのよ」
「……」
「だって、そうじゃない。死にかけたのはあなたなのよ」
刑事と同じようなことを、ジェーンさんも言った。
「不思議な子ねぇ。ほっとけないわ。困ったわぁ。わたしもう、死にかけてるのに」
「……」
「あなた、顔だけじゃなくて、心も綺麗なのね」
「心が綺麗?」
「純粋なのよ。純粋すぎるの」
年寄りっぽく断定されて、ポカンとしてしまい、言い返せなかった。わたしのどこをどう取れば純粋だというのだ。
「もっと自分を大切に生きないと」
「だって、別にそんな一生懸命生きたいとか思ってないし」
「だから、人に奪われるのよ。ちゃんと自分で自分の大切なものは握ってないと。世の中には人から奪うのが上手な人たちがいっぱいいるのよ。奪われっぱなしでいいの?」
奪われっぱなし、という言葉が耳に残った。
「奪われっぱなし?」
「そうよ。あなた、人に奪われて、それに気づいていないのよ」
人間にはどうして、生まれながらに奪われて生きていく人と、たくさんのものを与えられて生きていく人がいるのか。そして、わたしはどうしてそこに怒りを覚えることができないのか。わたしには怒りはない。ただ悲しみしかなかった。
「じゃあ、どうすればいいんですか?」
それが、人生のどん底もどん底、死にかけた直後のわたしとジェーンさんの出会いだった。
あの日のことについて、ジェーンさんはその後もよく口にした。彼女は人生の大半を彼女の直感のままに生きてきた人なのだが、中庭で見かけたわたしが気になってしかたなかったのだと。わたしと自分の間には何かがあるなとわかってて声をかけたのだと言っていた。そういう人なのだ。
あの頃、あの、父に生まれてきてごめんなさいと告げた日から、自分はなんというか、非常に清々しいというかすっきりとしたところにいた。いうならば、自分の虚しさの正体を突き止めて、正真正銘の空っぽな人間になってたんです。
死にたかったわけじゃない。正確にいえばこういうことです。つまり、生きようと思うのと同様に死のうというのには、エネルギーがいるということです。そんな元気、自分にはないんですよ。あえていうならば、エネルギーを使わないで死ねるのなら、死んでも別に良かったってことです。
だから、奥さんに刺されても死ななかったことを、わかりやすくいえば自分は喜んではなかった。それは死ねなかったではなく、しかし、死ななかっただった。別に死んでも良かったけど、死ななかったなということです。
多分、表面的には自分は、自分のそういう異常な部分は他の人には見えないのでしょう。だけど、話しているとあらわれてしまう。だから、ロボット刑事にもジェーンさんにも指摘されてしまったわけです。
わたしにはその時、飯島の奥さんの裁判に関わらなくてはならないという試練があった。わたしのような生きようと思っていないあやふやな人間にとってそれは相当な重荷だった。自分の動向が、他人の人生のかなり根幹の部分に影響してしまう。そしてそれにより影響を受けるのは相手だけではなくて自分でもある。裁判というのは椅子取りゲームのような側面がある。わたしが座れば、相手が座れず、相手が座れば、わたしが座れない。
座れない状態をジェーンさんは奪われていると言ったわけで、でも、じゃあ、どうすればいいのかわからない。奥さんのわたしに対する殺意をわたしはそれでも、認められないというか、はねのけられずにいた。
変な話、そのややこしさが、非常に緩やかにわたしに、いわゆる、死のうというエネルギーを将来的に与えたかもしれない。もしもわたしがあの日あの時、ジェーンさんに会ってなかったら、今ではそう思うのです。ジェーンさんに会ってなかったら、わたしはゆるやかに死のうとしたかもしれない。
もう一度、思い出の中のあの中庭に戻る。彼女はそのシワだらけの手で、わたしの手をぎゅっと握った。
「人間は自分で思っている以上に強いのよ」
「わたしが強いんですか?」
「一生懸命生きようとしないのは、自分自身に対する最大の侮辱です。自分で自分に失礼だと思いなさい」
「なんかの宗教の言葉ですか?」
「やあね、わたしが考えたのよ」
人はなぜ、奪われて生まれつくものと、与えられて生まれつくものとに分かれて生まれてくるのか。生まれながらに奪われて生まれついたものは、どうやって生きていけばいいのか。
それでも、生きていかねばならないとわたしに教えた人は、それはジェーンさんだった。死にゆく人からリレーのバトンのようなものを受けて、それでわたしは今も生きているのです。
2025.05.05