2 Dragon nest
2 Dragon nest
僕がまだ今よりももっと無名で、非常勤講師をやりながら絵本を描いていた頃、妻と幼い娘と住んでいた街。あの街に僕は再び足を踏み入れることができないまま、あっという間に月日が経った。娘は今では制服を着て朝から台所に立ち、朝の弱い僕を起こしながら部屋のカーテンを開ける。
「ほら、今日もいい天気」
寝ぼけ眼を開けて逆光の中に娘の姿を捉えると、それが不思議と妻に見える。血のつながりというのは不思議である。親子というのは月日が経てば経つほどに似てくるものだ。
自分が生まれ育った街を見に行きたいと言い出したのは娘だ。僕は最初、乗り気ではなかった。全然乗り気ではなかった。まるであの街に何かお化けでも住んでいるのを恐れているかのように、非常に複雑な気分であった。最も、街にいるのはもちろんお化けでもなんでもない。
もし娘が心優しく控えめな女性であれば、父親の複雑な表情を見てやっぱりいいとでもいうのではないだろうか。しかし、うちの娘ときたら、本人がその気になったらテコでも動かない。こういうところも母親に似た。
それで、自分の心の中で長い間封印した街へ、娘にせっつかれて僕は重い腰を上げた。君のいた街へ。それは、空気が冷たくて澄んだ冬のある日。娘は白いニットの帽子を取り出してきて、そして僕に温かなマフラーを巻いた。
「冬って晴れていてもどこか寂しくて悲しい気がする」
「絵本作家っぽい表現ね」
「どこが?」
「どこもが」
わかったようなわからないようなことを言われながら、電車に乗って出掛けてゆく。休日の空いた電車が好きだ。うんと空いていて、そして、温かな日が電車の中に斜めに差し込んできて、そして、欲を言うならばどこに向かっていて、今が午前なのか午後なのかそういうことがよくわからなくなるような、そんな電車が好きなんだ。
そんな電車に乗っていると忘れたいことをきっちりと忘れられる気がするから。
そんなふうな思いに沈んでいても、横でガチャガチャと娘がうるさくて、僕の思考は全て彼女に邪魔された。娘はとてもはしゃいでいた。僕は逆に憂鬱だった。
駅はあった。僕らが仲良く住んでいたその街のその駅は相変わらずそこにあった。
「なんかすっごいお洒落」
親子で街へ出てみると、しかし、街は様変わりしていた。
「こんな街だったっけ?」
「……うん」
「全然違う街みたい」
「それはお前、まだ子供だったし」
「小人として街を見てたから?」
「そうだな」
「でも、それだけ?」
「……」
それだけではないと思う。都心から程近く、快速が止まるようになったからか、街には開発の手が入り、美しくモダンに生まれ変わったように見えた。僕らはその街を特に目的もなくぶらぶらとした。自分たちが過ごしていたアパートは取り壊されてもうなかった。駅前の大衆的なスーパーと、それとは対照的なお金持ちの人がゆくスーパー。食品売り場で何種類も並べられたヨーグルト。よく知っている銘柄の他に、見たこともないヨーグルトが置いてあって、その値段にはちょっと目を見張った。なんだか冷え冷えとした店を抜けて次はどっちへ行こうかと立ち止まった時だった。
「ちょっと待って」
娘は、背負った鞄の肩紐を片手で握り、もう片方の手をひさしのようにかざしてぐるりと辺りを見渡す。まるで次どっちの方向へ飛んでいくのかを決めている孫悟空のように。それからぎゅっと父親の手を握ると、
「ね、こっち」
僕を引っ張る。僕は娘に引きずられながら、道をわたり通り一つ向こうへと歩みを進める。
「なんだ?」
「なんかこっちの方に来たことがある気がするの」
「小人の頃に?」
「そう小人の頃に」
変わってしまった街。どこにも君の面影がない。娘の繋いだ手の温かさを感じながら、僕は泣きそうになっていた。
怖かったんです。怖かった。この街に来るのが怖かった。それは、ここに住んでいた時、貧しくはあったけど本当に幸せでした。僕は無名で、でも若くて、そして、君がいた。若い僕と君がいた。貧しくても毎日が楽しくて、僕たちは小さな部屋に住み、毎日一生懸命それぞれ働いて、そして顔を合わせては、特に意味もないのに笑ってた。そのうち、娘が生まれて、小さな小さな手で、おもちゃみたいな小さな指で僕の手をちょっと信じられないくらいぎゅっと強く握って離さない。
こんなに幸せでいいんだろうかと、君と一緒に娘の眠るベッドを覗き込みながら思った。頭を思い切り何かでガンと殴られて、僕はバカになったんじゃないだろうか、僕はばかに……。本当に幸せな時、人はそれを信じられないものだし、それに、まるで殴られた後のように頭はぼうっとしているものだ。
「あ、あれだ!」
娘が澄んだ声で叫ぶ。指さす先には、コーヒー豆を中心に様々な輸入食材や雑貨を置く店があった。その途端に思い出した。鮮明な記憶。お腹の大きな君がボーダーのTシャツを着て、その上からノースリーブの濃紺のワンピースを着てて、スーパーの帰りにこの店による。
「これ、かわいいね」
その店の物を買うことは、実はあまりなかった。輸入品が多くて、あの頃の僕たちにとってはそれは贅沢品だったんです。でも、君は買わないものをゆっくりと見て回るのが好きだった。そして、僕たちはたっぷりと時間をかけて店の物を見た後で、欲しいものの中から吟味に吟味を加えて、一つか二つレジへ持っていく。
日本では見ないような派手な装飾のどこかの国のお醤油。ターバンを巻いた人とラクダが描かれたコーヒー。美しい色とりどりのコーヒーカップ。
「僕、子供の頃、アラビアンナイトが大好きで」
「また、その話?」
どうしてかこの異国情緒あふれる店にくると、アラビアンナイトを思い出してしまう僕。同じ話を興奮して繰り返すと、君は僕の方を見て、目元に皺を寄せて笑った。
妻の笑顔をまざまざと思い浮かべている最中に、娘に声をかけられた。
「お父さん?」
「お母さん、この店、本当に好きだったよね」
僕は怖かったんです。この街に来るのが。
この街が変わっていれば、あれから時が経ってしまったのだと否が応でも自覚させられてしまう。僕は僕の中の時を止めて、今でも何かの拍子に君がただいまと帰って来やしないかと思う、過去に生きている。動かない時計の針の横で、ただ、娘の時だけは止まらずにこの娘は大きくなった。
僕はそれすら、見てるようで見てこなかったと思う。僕と君の大事な娘が大きくなってゆくのをよく見て来たのかどうかすら怪しいんだ。
そして、この街が変わっていなければ、それもそれで怖い。
この街は変わっていなくて、ただ一つだけ足りない。君だけがいない。
娘が顔色を変えて立ち止まり動かなくなった僕の横でたたずみ、そして、握った手にぎゅっと力を込めた。ほとばしる激流のような感情は、一気に流れ出し、そして、少しずつ静まっていった。娘がずっと僕のそばで僕の横顔を眺めていた。
僕が落ち着いてきたと見てとると、娘はゆっくりと手を離し、そして、僕に背中を見せながら店へと入ってゆく。その様子が、やはり君と重なる。娘が棚から棚へと物珍しい顔で歩き回る様子を見ていると、過去と現在が交互に交差するような気がした。
「お父さん、これ、買う」
少し離れたところから、商品を掲げて、娘は笑顔で大きい声を出した。僕はゆっくりと娘に歩み寄った。
「なんだそれ」
「缶詰だよ」
「グレープフルーツの?」
「うん」
「グレープフルーツなんて缶詰で食べるのか?なんでそんなものが欲しいの?」
「だって綺麗じゃない」
「ああ」
納得した。確かにそのエメラルドグリーンと緑の英語と黄色いグレープフルーツの絵が爽やかで美しい。僕が素直に会計を済ますと、娘はご機嫌な声でこういった。
「やっぱりお父さんは絵本作家だね」
「なんで?」
「綺麗なものが好きでしょう?」
僕は答えずに笑った。レジのお姉さんもちょっと微笑んだようだった。その後、疲れちゃったというので、駅前のガラス張りの小洒落たカフェの一つに入った。
「こんなものは昔はなかったなぁ」
美しい現代建築の人工的な空間。一面のガラス張りの壁越しに街を眺めると、それはやはり僕が住んでいた街とは別の街のように思えた。娘は僕と向かい合って、熱心にプリンを食べていた。それは足の高い銀色の容器に入れられて、その黄色は濃くて、そして少しボソボソと硬そうで、カラメルの上にはどんと生クリームがのっていてなんだかレトロなのだけど、どうしようもなくうまそうに見えた。
「それはうまいのか?」
「また始まった」
「なんだ?」
「お父さんっていっつも人のもの欲しがるんだから。自分で頼めばよかったでしょ?」
「しょうがないだろ?人が食べているのを見ると欲しくなるんだよ」
「……」
「一口だけちょうだい」
娘はムッとしたり怒ってるわけじゃない。ただ、僕を揶揄って遊んでいるだけだ。無表情を保とうとしているが、口元が微笑んでいる。
「大体、お金を出すのはお父さんなんだぞ」
「本当に嫌な言い方するね」
娘は笑いながら、とうとうプリンをよこした。僕は一口だけそれを食べた。それは確かに期待を裏切らないどっしりとした美味しさだった。
「もういらないの?」
「一口で十分だ」
味がみたかっただけだ。そこまで甘いものが好きなわけでもない。娘がまた熱心にプリンを食べる気配を感じながら、僕は娘から90度体を回転させて、人工的なガラスを通して見える青い空を眺めた。飛行機がとび、その後ろに飛行機雲が続いてゆく。
「わたしね」
「ん?」
それはなんでもない声音で始まったが、実はそれなりに大切な話だった。
「お母さんのこと、覚えていられないの」
「……」
「小さかったから、どうしても頑張ってもどんどん忘れちゃって……」
「うん」
「最近は一生懸命写真を見ながら、記憶と結びつけようと思ってたけど、それでもやっぱり曖昧になってゆくものなのね。わたしは覚えていたいのに。その気持ちと裏腹に記憶はいってしまう」
僕にはその娘の切迫した気持ちがよくわかる。娘と僕で比べれば、それはやはり僕の方が大人だから覚えていられる程度は全然上なのだけど、だけどその僕の記憶も風化してゆくのは免れないのだ。
「それが、今日、あの店に行ったら、お母さんの声がしたような気がした」
「え?」
「わたしの中に眠ってたけど、自分では思い出せなかった記憶が蘇った気がした。小人のわたしがお母さんの後ろから棚と棚の間を歩いてついてって、お母さんって呼んだらお母さんが振り返るの、なあにってそれからいうの。わたしは見上げてて、お母さんは上からわたしを見てて笑うの。これって、本当の記憶だよね?」
僕は空を見ていた視線を娘の方へと向けた。娘の前に置かれた銀の器の上のプリンはいつの間にかあらかた食べつくされ、娘は不安そうな目で僕を見ていた。この娘は時々、こんなふうに居場所をなくした人のような目で僕を見てきた。そして、今、僕もきっと娘と同じような目をしているのだろうと思う。
僕らは記憶の難民なのである。どうして人間は失いたくない記憶も一緒に少しずつ忘れてしまうのだろう。その時の香りや、その時の感情。起こった出来事、語られた一字一句。全てをそのまま残しておきたいのに。それらは時間と共に指と指の間からすり抜けていってしまう。
「それは本当の記憶だと思うよ」
僕はその時、半分くらい嘘をついた。よくわからないけれど、思い出を求める娘が断片的な情報をつなぎ合わせて、まるで本物のような映像を脳内に作り出すことだってあるだろう。でも、その想像の産物は娘の心を蝕むような類のものでもない。本物だということにして何が悪いと思う。
午後の光はある時間を過ぎると、黄昏れるのである。途端に僕は心に何かが入り込んできそうだと思う。活気のある夜が好きで、そして、物がくっきりと見える昼も好きだ。だけどどうにも夕方はいけない。もう少しいうと、昼の光にほんのわずかに夕方の光が混ざる、その始まりのときが僕はどうにも苦手なのだ。
「帰ろうか」
プリンを平らげた娘にそう声をかけて僕らはたち上がる。
ところが、どうしたことだろう。レジで会計を済まし、僕の苦手な光から逃げるように駅へと入り電車に逃げ込もうと思っていたのに、店の外に出て空気に触れた途端に脳の中で何かと何かがかつんとぶつかった。
「どうしたの?お父さん」
立ち止まって歩き出さない僕を不審に思って娘が言う。
「なんか……」
さっきの娘と同じだ。僕はキョロキョロと辺りを見渡した。
「たしかこっち……」
深い海の底に沈んだ沈没船が本当にゆっくりと浮き上がってくるような感じだった。
「なに?」
「昔……」
あの頃、妻は大きなお腹で、髪を上の方で結んでた。娘が生まれた後はそんな高いところで結ぶことはなくなった、あの髪型。そして、君は、僕とは違って朗らかで人と仲良くなるのが得意だった君は、名もない絵本作家で口下手な僕の作品が少しでも世に出るようにと、あの大きいお腹で街をあっちこっちと歩き回って……
「お母さんがお父さんのために……」
僕はゆっくりと歩き出した。そう、あれは、あの店は、線路のこっち側じゃなかった。あっち側。病院にお腹の子の定期検診に行った帰り道、君はいつもと違う道を通って、とあるカフェを見つけた。それは、小さなギャラリーを併設した趣のある素敵な店だった。
君は躊躇なくそこに入り込んだ。外壁を蔦に覆われたカフェの出入り口は、ガラス窓に白いペンキで飾り文字が美しく描かれていて、まるで魔法の家に入るような気がしたと言った。
「中に本当に魔女がいたのよ」
その時、君が心の底からおかしくてたまらないというふうに微笑みながら話したあの声音が耳に蘇る。あれから一体どのぐらい経ったんだったっけ?あれから何年だ?
「いや、もう流石にないかなぁ」
「なにが?」
「お母さんが昔お父さんのために……」
それは線路沿いだった。たしかそうだった。僕は踏切を渡って、線路の脇の道を当てずっぽうに歩く。
「何を探してるの?」
「うん」
見つからないだろうか?諦めかけた時、
「あ、かわいい」
京王線の線路の脇を慣れた様子で歩く黒い猫を見つけた。
ミャア
そしてその猫はふと立ち止まるとこちらを振り返り一声鳴いた。
「お父さん、知り合い?」
「何言ってるんだ、お前は」
娘にそう言いつつ、でも、その猫は本当に僕らの知り合いで、そして、僕らの道先案内人であるかのようにスタスタと歩き出した。
「ついていこう」
「ええ?」
記憶を求める旅に出て、そして、僕ら親子はその時、ちょっと酔っ払っていた。シャッキリとしている時なら何バカなことをしてるんだ、と思って頭をちょっとフルフルと左右に振って、踵を返して帰ってゆくところだ。でも、その時僕らはどうかしていた。その猫について行った。
猫はほっそりとした美しい毛並みの黒猫で、自由に外を歩いているのだから飼い猫とも言えないと思うが、かといって野良猫とも言えないだろう。そんな訳ありの猫は本当に僕らの水先案内人でもなったかのように時々チラチラとこちらを伺いながらスタスタと前をゆくのだ。
僕らは夢中で追った。しかし、本当にふとした一瞬で猫は消えた。
「え、うそ?さっきまでそこにいたのに」
娘は驚きに声を上げた。そして、その消えたあたりまで行った。僕の体中がぞくりとした。絡まる蔦、ガラス窓に踊る洒落た飾り文字。
「あった」
「え?」
Dragon nest
それが、妻が見つけたギャラリーを併設したカフェだった。中に入ると、年齢不詳の女性がいて、名前は確か……、妻はその人がまるで本当に魔女のようだと言って微笑んでいた。
「この店、まだやってるのかな」
「やってるんじゃない」
カラーン
ドアを開くと年季の入ったドアベルが鳴った。娘が先に次の僕がそのドアを潜る。
その時、風が吹いて壁の蔦を少し揺する。音と共に自分の中に古い記憶が蘇ってくる。
年齢不詳のその女性は、自分のことをジェーンだと言った。その顔にはそういえば少し日本離れした様子が見られるものの、大体において日本人であるので面食らう。妻はそれをそのまま受け入れたが、僕は妻からギャラリーの話を聞いて、後日、本人にお会いした時に直接尋ねた。
「なんでジェーンって言うんですか?」
ちょっとあなたと傍で妻が僕をなじる。あれは気持ちのいい午後だった。カウンターで美しいカップに入れられたコーヒーをご馳走になりながら、白髪の髪を緩くおさげに編んで、そして、花柄の少女のような服を着たジェーンさん、まさしく年齢不詳の女性に向かって僕は悪びれずに尋ねた。
「そりゃ、あんた、サザンの稲村ジェーンが好きだからさ」
「ええっ?」
3人で笑った。ジェーンさんは本当に謎めいていて、変わっていて、いい人だった。名もない僕のために、ギャラリーで小さな絵本展、いわば個展を開いてくれた恩人だった。妻を失い、失意のうちにこの街を去り、忘れていたジェーンさんのこと。
「にゃあ」
「あ、あの猫」
カフェの中に入ると、店内から庭へと続く開かれたドアから先ほどの黒猫が入ってくる。
「はい」
猫の声と僕らの声に呼応して奥から人が出てくる。女の人の声だった。なぜだろう、その時、ジェーンさんがあの頃のままの年齢不詳の様子で出てくるような気がした。冷静に考えたら幼女だった娘がこんなに大きくなっても、あの頃のままでジェーンさんがここにいるだなんてことがないのはわかっただろうに。あまりにも店があの頃と同じような佇まいでいたために、錯覚したのだろう。
「いらっしゃいませ」
「あ……」
しかし、奥から出てきたのはふんわりとしたモヘアのセーターにロングスカートを履いたショートカットの若い女性。
「にゃあ」
「あ、マアサ、またどこかに出かけていたの?」
「にゃあ」
「いやよ、帰ってこないのは」
そういうと女性は猫が入ってきた開きっぱなしのドアを閉じた。薄いグリーンの木の扉がきいと鳴る。
「あの」
「あ、すみません」
「ジェーンさんはいらっしゃらないのですか?」
「あ……」
彼女は僕の方を見て、少し驚いた顔をした。
「店主のお知り合いでしたか」
「知り合いといってもずいぶん昔の話なのです」
「そうですか。あの、店主は他界しまして……」
「ああ……」
マアサは僕らを無視して慣れた様子で石の敷かれた床をスタスタと歩き、店の奥の方へと消えていった。娘は僕の傍で、僕らの様子を交互に見ている。
「娘さんですか?」
ジェーンさんに娘はいなかったと思う。独身だったのだ。娘がいるという話を聞いたことはない。しかし、女性はきっぱりと言った。
「いえ、違います」
その澄んだ目の色に少し引き込まれそうになった。僕は自分が絵を描いているせいか、時々人の顔を必要以上に眺めてしまう時がある。ふと、またその癖が出たと我に返った。
「すいません。つい、立ち入ったことを」
慌ててそう言った。
その後、娘と僕はなんだか成り行きで、先ほどコーヒーを飲んだばかりだったのに、手作りのスコーンと紅茶をいただき、その店の片隅にしばし佇んだ。石畳の床。日本の家屋としては少し高い天井。店のあちこちに置かれたアンティークのものたち。振り子時計や、鏡。古い造りの家具や飾られた美しい食器。
「なんか、別の時代の別の国に来たみたい」
「そうだね」
窓から見える冬枯れた庭を見ながら、娘と特に何を話すわけでもなくぼんやりとした。そして時々、カウンターの向こうに立つ女性の方を盗み見た。テーブルの前に座る娘が少し目を吊り上げる。
「お父さん」
「ん?」
「何をちらちら見てるの?」
「いや……」
娘があからさまにため息をつきながら、かちゃりと手に持ったカップをソーサーの上に戻す。
「そりゃ、綺麗な人だから見たい気持ちもわかるけど、みっともないからやめて」
「そういうことじゃないんだよ」
「じゃ、どういうことなのよ」
本人に聞こえないように小声でやり取りをする。
「どっかで会ったことがあるような気がして」
「何をいってるのよ」
娘には全く相手にされなかったが、それは嘘ではなかった。なんか会ったことがあるような気がする。ただ、確証はなく、それに今日は懐かしい街に来て、眠っていた記憶を色々呼び覚ましたので、そのために自分の脳が誤作動をしているのかもしれない。そう思った。
僕たちはしばらくして立ち上がり、お礼を言ってお金を払う。その時代錯誤な店にはやはりそれなりに人を惹きつける何かがあるらしく、僕らが出る頃には入れ違いに何人かの客が来る。店を出て、通りに出て僕らはいつもの毎日へ戻る、はずだった。
しかし、いくつかの事象が重なって、僕らは遠くはない未来に再会することになる。この時の僕はまだ、それについて知らない。
2025.02.16