1 研究室の紅一点
1 研究室の紅一点
富田直子
その人のことを初めて見た時のことを覚えている。
細身の体に無造作に白衣を着て、長い髪を後ろで一本に結び、いつも化粧っけのない顔でいた。
わたしが所属していた営業部や総務、経理の事務畑の女の子たちから見たら、その、長谷川さんの着るものや化粧にこだわらないスタイルは異様でした。暗黙の了解で、あれはないよねという空気が出来上がってた。
大手製薬会社の研究職の女子と事務職のわたし達。そこには壁があった。越えられない壁でした。
ただ、あれはないよねという暗黙の了解はあったものの、長谷川さんを敵視するような女子は社内にいませんでした。
理由は簡単で、長谷川さんのようなキャリアなんて、事務職のわたしたちには全く興味も関心もないもので、反対に、わたしたちが目をつけている社内の独身の男子には長谷川さんは全く興味も関心もない。
利害が一致していた。だから、女の子たちに敵視されることはなかった。長谷川さんとわたし達は住み分けができていた。お互いの領域を脅かすことなんてなかった。
そんな風に、長谷川さんはわたし達に興味がないし、わたし達は長谷川さんに興味がありませんでした。
わたし達、いえ、わたし以外の人達。
わたしは違うんです。わたしは、長谷川さんのことを気にしていました。
研究室の紅一点
真っ直ぐ伸びた背筋。無造作に束ねられた髪。
女らしさを感じさせない地味な服を着て、でも、彼女は堂々としていました。
大手の研究職、エリート男性の合間にいて、堂々と自分の意見を言っていた。2本の足で立っていた。わたしには、化粧っけはなくても長谷川さんの方がずっと輝いているように思ってた。あのころ。
長谷川さんにわたしは憧れていた。
子供の頃から母に厳しく、1人で生きていけるようになれと言われ続けてきた。だけど、大学は母の思うようなところに行けず、就職でも苦労した。狙ったような総合職にはつけなくて、でも、大手には入社した。呑気に働いてきたわけでもない。だけど、まだ自分を許せないというか、認められないというか……。ずっともやもやとしたものを抱えていた。
そんな自分に勇気をくれたのは、飾り気のない長谷川さんの凛とした白衣姿だったんです。
わたしもやっぱり頑張りたいと。
誰かの奥さんになって一生頭の上がらない生活をするのではなくて、自分の舵は自分で握りたい。だから、ありったけの勇気を出してその頃補佐についていた営業職の男性に相談したんです。自分も社内の試験を受けて、MRを目指したいと。
「冗談でしょ?」
今でもあの、馬鹿にして薄く笑った男の顔を覚えている。その時、自分のデスクから椅子をくるりと回して、立っているわたしを下から見上げている男の顔も、その周りのオフィスの背景までくっきりと覚えているんです。
「確かに、富田さんはしっかり仕事をする人だと思うけど、それはさ、決まりきったことをコツコツこなせばやれる仕事なわけ。営業はもっと別のスキル使うから」
「別のスキルって例えばなんですか?」
「色々あるけど、そのどれをとっても、君にはないものばかりだよ」
話を聞きながら、ガンガンと頭痛がし始めた。立っていられるのがやっとほどの。
「そんな突拍子もないこと考えてないで、君も他の子と同じようにいい人探すのに奔走しなよ。まだ、そっちの方が見込みあるって」
「……」
「こんなしんどい仕事、やめときな?女の人は素直にいうこと聞いていれば、一生食うには困らないんだからさ」
なんて言って、その場を外したのか覚えてない。仕事中でしたが、たまらなくなって屋上に駆け上がった。
やめてやりたいと思った。
隠れてたまに吸っていたタバコを取り出した。手が震えてました。
何もかも投げ出してやりたい。
大人しくニコニコヘラヘラと、馬鹿みたい。
こんな会社知るかとカッコよく退職届を叩きつけて、行けるところがあればいいのに。
でも、自分には片付く先の彼氏もないし、転職先も、これと言って目指したいこともない。
悔しい思いで空を眺めていた。
だけど、その悔しさをバネにして頑張るほど自分は強くなかった。
そっとまた、長谷川さんを思いました。長谷川さんが羨ましい。あの人なら、あの男を馬鹿にできるのに。偉くなって男を馬鹿にできるような女になれればいいのに。
***
辞めてやると思った会社で、でもカッとしてもその度に踏み切る勇気は自分にはなく、ああだこうだと言い訳を自分にしながら逃げる。そのうち、諾々と何かに流されるようになった。そして、わたしも他の子の真似をして結婚相手を探すようになった。社内では縁がなくて、外で友人に紹介してもらったりした。恋人がいた時期もありました。だけど、お互いに相手にそこまでの決定打もなく、結婚を意識するような年齢になった時に別れを切り出された。
「何がいけなかったのかな?今後の参考に教えて?」
喫茶店の片隅、窓際の明るい席で淡々とそう聞いた。見慣れた恋人の顔を見ながら。彼は、まるで一生懸命セールスでもするようにテーブルの上に身を乗り出して、そして自分の手を軽く合わせて言いました。
「いけなかったことがあったんじゃなくて、僕たち、合わないんだよ」
「合わない?」
「もっと一緒にいるだけで心地よくなるようなものなんだよ、きっと」
熱心に語る彼に、一体何を言っているのだろうとちょっと違和感を覚えました。そういう人じゃないと思ってたのだけれど。こういう夢見がちなことを言うような人では。
「君も幸せになってね」
「……はい」
別れ際に下手したら笑顔を見せそうな様子にさらに強い違和感を覚えた。
その違和感の理由、簡単でした。共通の知り合いづてに頼んでもないのに伝わってきた。彼に、新しい人ができたんです。だから、捨てられた。
「はっきりそう言えばいいのに」
電話で毒づくと、わたしにこのことについて知らせた相手は少し動揺した。
「でも、言えなかったんでしょ?」
「なんで?」
「優しさだよ」
優しさ?これが?
イライラとして何度も考えた。すみませんが、新しい好きな人ができました。君も幸せになってください。僕たち合わないんだよ。君も幸せになってください。二つ並べて、どちらの方がショックが大きいか、比べてみた。
よくわからなくて、どうでも良くなった。
ベッドに寝っ転がって天井を眺めた。
男の人の優しさってきっとこういうことなんだわ。
でも、そうやって守っているのって、本当は男の人自身なんじゃないかな?
わたしには何も無い。仕事ができるわけでもない。かといって幸せな結婚もできやしない。
重く不安がのしかかる。一生このまま1人で生きていく運命なのかな?わたし。
実家の母は時々思い出したように電話をかけてきては、ため息をつく。そして決まりきったセリフを言うようにこう言うんです。
「お前には期待してたんだけど」
その言葉を聞くたびに、心が凍る気がした。そして、もう一つ醜く歳をとるような気がしました。
そんなある日に、噂を聞いた。とても信じられない噂でした。
「ね、富田さん、知ってる」
「なにを?」
「上条さんが結婚しちゃうんだって、もうショック」
女子社員数名できゃあきゃあ騒いでいる。わたしは給湯室で頼まれたお茶を淹れながら適当に相槌を打つ。
「ああ、なんか付き合っている人がいるって話でしたものね」
「社外だって言ってたのに」
「え、社内だったの?」
これには驚いた。お茶を淹れる手が止まった。
上条さんは研究室で働いている若手の1人で、顔立ちが綺麗だし話しやすいから人気のある人だったんです。でも、誰が誘っても彼女がいるからと断られていた。社外の彼女がいるから。それは有名な話でした。
「誰だと思います?」
「わたしの知ってる人?」
「知ってるもなにも、同じ研究室の」
「ええっ」
わざわざ言う必要はない。だって、研究室には女性は1人しかいないから。
「長谷川さん?」
「そーなんですよ」
研究室の紅一点。いつも髪はボサボサ、服装にも化粧にも頓着しない長谷川さん。
「もう、なんでよりによって長谷川さん?って思っちゃいました」
「ちょっと、あんた、言い過ぎよ」
同僚の子が嗜めている。
「でもさ」
「なに?」
いつの間にか仕事そっちのけで女性みんなで集まってました。1人の子が声を落として話し出す。
「そう言われれば、なのよ」
「なにが?」
「長谷川さん。前と比べて雰囲気変わったじゃない」
「え、そう?」
「あんた、ほんっと、男しか見てないんだから」
バシッと叩かれて、叩かれたほうがヤダッと笑った。
「絶対、男できたなとは思ってた」
「え、そうなの?」
「そうよ。でも、それがまさか上条さんだとは思ってなかったけどさ」
そして、その噂を聞いてから、機会あるごとに長谷川さんを眺めた。
そう言われてみると、確かにいつの間にか長谷川さんは雰囲気が変わってた。
そうか、この人、こんな風に笑えば、ちゃんと女らしい人なんだ。女として周りの人が見てなかっただけ。でも、上条さんと結婚するという話が流れて、皆が彼女を研究者としてではなく、男の人との結婚を控えた女の人として眺める。すると今まで見えてなかったような長谷川さんの女の人としての部分が見えてきました。
そうか、長谷川さんって、ちゃんと女だったんだ。
失恋、ではないんです。別に女性を好きになるような人間じゃない。
それは、失恋ではなくて、失望だったのかもしれない。
なんだ、あなたも普通の女なんだ。男に頼ったりしない立派な人だと思ってたのに。
がっかりした。
勝手にだけど、長谷川さんのことを仲間のように思ってた。でも裏切られた。
その後、人並みに婚活もしてた。全然うまくいかなかったわけじゃないけど、そのうち嫌になってやめてしまった。そして、たいしてやりがいがあるわけじゃないけど待遇も悪くなく、楽にこなせる仕事にしがみついて、わたしは時間が経っていくことから目を背けて歳を重ねていった。
歳をとるごとに自分は夢を見なくなっていった。過去も振り返らない、そして、未来も想像しないそんな毎日を過ごしていた。周囲と自分との間に少し分厚い膜のようなものを張って、周りが言っていることを話半分に聞き流し、静かな日々を過ごしてたんです。
ある日、そんな自分に事件が起こった。
それは、本当いうと客観的に言えば、わたしの事件とは呼べないものでした。
なぜかといえば、わたしの身に起こったことではなかったからです。
だけれど、その他人事はわたしを結構揺さぶった。
長谷川さんが、もう長谷川さんではないけれど、紅一点の長谷川さんが仕事を辞めた。理由は、子供の面倒を見るためだったとか。
一体、なんなのだろうと思いました。
わたしが欲しくてたまらないものをあっさりと二つとも手にしていて、家庭と仕事、それに子供まで。そのうちの一つはあっさりと捨てた。
わたしには何もないのに。わたしと長谷川さんの違いってそんなにある?
頭は確かに彼女の方がいいんでしょう。それは認める。でも、顔やスタイルはさして違いがあるとは思えない。それなのになんで、彼女は二つも持っていて、しかもそれをあっさり一つ捨てるんだ?仕事を。
彼女が結婚をせず仕事だけしていたらこんなことは思わなかったと思うんです。でも、結婚をして子供を産んだから……。なんだか彼女のことを思うと落ち着かない気分になりました。
そして、そんなことがあってから半年ぐらい経った後でしょうか?
その長谷川さんの旦那である上条さんが、研究室から営業へ飛ばされてきた。
かつて、独身の時に女子社員に人気のあった上条さん。でも、営業へ飛ばされてきた上条さんはあの人気のあった上条さんとちょっと雰囲気が違いました。男の人って仕事がうまくいっている時と、いっていない時でこんなに雰囲気が変わるものなんだな。
部長が初日に上条さんのことを紹介している時に、そんなこと思いながら聞いていた。昔を知らない人が見たら、今の上条さんを素敵だとは思わないだろうと。ガラス張りの窓を背に部長と並んでスーツを着て立った上条さん。この前まで着ていた白衣をスーツに着直して、ぎこちない笑顔で所在なさげに立っていた。不安そうに。
「サポートは、富田君についてもらうから」
部長はそう言って、わたしの方を指差した。上条さんが顔を上げて、わたしを見た。わたしは軽く会釈をした。なんの因果か、わたしはかつての憧れの人の旦那と一緒に仕事をすることになった。
上条さんは新米営業でした。歳をとった一年生。
大学もいいところを出ていて、大手の製薬会社に研究職で入った。綺麗な顔しているし、外見でコンプレックス持ったこともないだろう。ずっと挫折らしい挫折を知らないできた人だったけど、でも、圧倒的な才能とか能力があったわけでもなく、それで弾き飛ばされた。
顔が綺麗な人が四苦八苦してるのって、普通の顔の人より惨めさというか哀れさが増すな。昔、みんなに騒がれてた時は、自分とは縁のない人だと遠くから眺めるだけだった。だけど、その上条さんが、わたしにあれやこれや教えてもらってお礼を言われる。そして、頼られる。なんだ。別にこの人、わたしと同じ人間だったんだなと。勝手に自分とは違う人間だって思ってたけど。
***
「上条さん、大丈夫ですか?最近毎日のように終電じゃないですか」
とある日、つい見かねて声をかけた。
「慣れない仕事だと、どこで手を抜いていいかわからなくて、緊張するし」
そう言ってあくびをした。いつも暗い硬い顔をしている人が、肩の力を抜いてあくびをしているとちょっと子供みたいでかわいかった。
「でも、流石に疲れました」
「たまには気を抜かないと。今日はもう、帰ったらどうですか?」
うーんとうなりながら迷っていた。
「じゃあ、気晴らしに食事に行きましょうよ。そんで、戻ってきたら?その方が効率がいいですよ」
そうすると、上条さんは腰を上げた。なんだか簡単だなと。昔、いろいろな女の子に誘われても、ああだこうだと断ってた人が、簡単だなと。そして、あの上条さんとわたしが2人で食事なんて、昔の自分が知ったら驚くだろうなと、そんな風に思いました。
よっぽどストレスが溜まっていたのか、ちょっとだけとお酒を飲んだら、上条さんはペラペラとプライベートの話をし始めた。それは長谷川さんの話でした。
「なんで、俺が残ったんだろうな。毎日家に帰ってエプロンつけてる奥さんを見ると、思っちゃうんですよ。エプロンなんか全然似合わないのに。あの人には」
そうか。優秀な奥様を持つと男の人も大変なんだなと思いました。
「じゃあ、何が似合うんですか?」
「白衣。研究用の」
「ああ、そうですね。長谷川さん、白衣似合ってたわ」
「あれ?知ってるの?」
「覚えてますよ。わたしが入社したときはまだ独身で、研究職の紅一点の人」
「ええ?そんな頃にもういるの?じゃあ、見た目より年上?」
調子にのってくると、この人、結構口うまいじゃない。
「気、使わないでいいですよ。わたし、行き遅れですから。上条さんや奥さんとあまり変わりませんよ」
上条さんはわたしを見ながら曖昧に笑って、お酒を飲んだ。それから頬杖をついて、飲み干した空っぽのグラスの底を眺めながら続けた。少し酔って気の緩んだ綺麗な横顔を、わたしは眺めました。居酒屋の片隅、会社よりもっと弱い灯の中に浮かび上がる横顔を。そこには、あのくっきりとした蛍光灯の下では生まれない親密な雰囲気があった。
「うちの奥さんはさー。きっと脱落した俺のこと見ながら思ってるんだよ。自分だったら、営業に飛ばされることなんてなかったのにってね」
その時、自分の中で何かがかちゃりと組み合わさった。
「上条さん、そんなふうに考えたらダメですよ」
「だめ?」
「職種にこだわりすぎです。前半で研究しているから、その経験生かして、誰にも負けないMRになればいいじゃないですか」
「誰にも負けない?」
「そうですよ。むしろ、どっちもできるのは能力あるからですよ」
すると上条さんの、修平さんの表情が驚くほどに明るくなった。
自分の言葉が男の人を笑顔にしたのは、初めてでした。それは、なんとも言えない経験だったんです。いや、笑顔にしたことは厳密に言えばあったと思います。きちんと仕事をしてきた。ありがとうと言われる時、やっぱり男性は笑顔を向けてきました。その笑顔も好きでした。
ただ、それとはやっぱり違った。
この日、初めて女として、男の人を笑顔にした。
あの時、特別仲がいいわけでもない同僚のわたしに、思わずポロッと弱いところを見せてしまった修平さんを見ていて、とても共感したんです。
ああ、なんだと……
この人、わたしと同じだ。
長谷川さんみたいな人が憧れで、でも、なれない。わたしと同じ。
長谷川さんはきっと修平さんやわたしのような人間の気持ちはわからない。
仕事はそりゃ、わたしより長谷川さんの方ができるけど、でも、長谷川さんには修平さんの気持ちはわからない。わたしはわかる。
長谷川さんには修平さんのこと励ますことはできない。修平さんは奥さんに今日言ったみたいなこと、言えないもの。でも、わたしはできる。
***
その日を境に、上条さんは変わりました。
そして、少しずつ本来の自分を取り戻していった。自信を取り戻した後の上条さんは、営業として優秀でした。一つのことに突き抜けてすごい才能があるわけではなくて、ただ、上条さんはどちらかといえばマルチに能力があるタイプの人だったのだと思います。営業向きでした。
一緒に仕事をするのが楽しかった。少しずつ成績を上げていく彼を支えるのは楽しかったです。
そして、いつしか思うようになった。
本当は修平さんには、長谷川さんのような人ではなくてわたしの方が合うんじゃないかって。修平さんももしかしたらそんな風に思ってるんじゃないか。そんな期待が心の奥の方に居座るようになった。そんな期待をしてしまいそうになるくらい、あの頃、修平さんはわたしに優しかったんです。嘘ではない。
「いつもありがとう。感謝してます」
地方の病院に出張して泊まりになった日、彼はわざわざ素敵なお店を予約してわたしを連れていってくれた。そんな風に大切に扱われたことがあまりない自分は、舞い上がってしまった。食事の後に、誘ってくれるんじゃないかと思ってしまった。2人っきりで美味しい物を食べて、お酒を飲んで酔っ払って。もしかしたらと思いながら、体の芯を熱くさせながら……。
でも、食事が終わってホテルの部屋の階までエレベーターで移動した後、彼は
「じゃあ、お疲れ様です」
とあっさり言って、自分の部屋へ戻ろうとする。がっかりしました。
このまま、ずっと何もいいこともないまま、わたしは1人で人生を終えていくのだろうか。
それなら……
傷ついたっていい。
何もないより、傷ついたっていい。恥をかいたって。
あの夜、どうしても修平さんが欲しかった。
前つきあっていた彼にこんな欲望を持ったことは一度もなかった。
でも、はっきりと感じてました。わたしは修平さんが欲しかった。一度でもいいから、抱いて欲しかったんです。
「自分の部屋に戻るんですか?」
気まぐれでもいいから抱いて欲しかった。自分の何もない人生に自分が心からいいなと思った男の人との思い出が欲しかったんです。
控えめにつけられたホテルの廊下のライトの中で、修平さんがゆっくり振り返った。
「わたしの部屋で飲みなおしません?」
自分の声が他人の声のように耳に届いた。本当に驚いた。自分がこんなことを言えるような女だなんて今の今まで知らなかった。
でも……
わたしみたいな女、待ってたって何も手に入らない。今までそうだった。
修平さんの顔が変わった。
職場でいつも見せている顔を捨てて、男の人の顔になった。
わたしはそこまでいうのがやっとで、そのまま馬鹿みたいに突っ立ってました。
「そんなに遅くならないなら」
「あ、じゃあ」
くるりと振り向いて、自分の部屋へと歩く。酔っ払っているせいか足がうまく動かない。部屋の前でカードキーを出そうとして、見つからなくて、ゴソゴソとハンドバッグの中をかき回しました。
「大丈夫?」
「あ、すみません」
体がカッと熱くなった。やっとカードキーが見つかってドアを開けた。
「冷蔵庫の中に、何かありましたよね」
部屋の中に入ってしゃがみ込んで冷蔵庫を開けて中を見る。修平さんの顔が見られませんでした。すると、いつの間にかわたしのすぐ後ろに修平さんがいて、しゃがみ込んでいるわたしを抱きしめた。男の人の香りがしました。すぐ耳元で落ち着いた低い声がした。
「こういうことだと思ってもいいのかな?」
「……」
「それとも僕の勘違い?」
わたしが振り返るとすぐ近くでふっと優しい顔で修平さんが笑った。
「本当にただもう少しお酒を飲みたいのだったら、申し訳ないけど僕は疲れているから自分の部屋に帰りたいな」
自分のものではないというのはわかってた。だから、一度だけだと思ってたんです。
そっと彼の方に顔を寄せると、男の人の手でもっと強く抱きしめられて、彼が唇を寄せてきた。夢見ているみたいだった。頭の先から足先までがじんと痺れた。
何も考えられなかった。
わたしにとってはそれは初めての経験でした。
男の人が初めてだったわけではないんです。ただ、触れられる前からずっと彼の指を待ち望んでいた。だから、触れられた途端にあっという間に自分が開くというかなんというか……。もう待てないのをでも口にも出せず、ただくるおしく高まっていく。
この人が誰のものだとか、こんなことして明日からどうするつもりなんだろうとか、会社で問題にならないだろうかとか、そんなもろもろのこと、本当に何もかも綺麗さっぱり考えられなくなった。自分が今どんな顔をしているかとか、その顔が修平さんにどんな風に見えてるんだろうとか、全然わからなくなって。
ただ、この人が欲しかったんです。
そうか、男の人が欲しいというのはこういうことなのか。何も知らなかったなと。
修平さんがわたしの中に入り込んできた時、わたしは吐息を吐きながら、手を伸ばして彼の裸の背中にしがみついた。その背骨をなぞった。女の人とは違うその男の人の体の厚みを感じながら、そして同時にわたしの中に入り込んで動き回っている感覚を感じていた。
その快楽と充足感は……、それは知らないものだったんです。それまでわたしが知っていたセックスは、興奮した男の人を受け入れて、自分もそれに合わせて興奮しているふりをしながら、最初から最後までどこか冷めたままで付き合うものだった。そういうものしか知らなかった。
知らないものだったから、だから、一度で済まそうと思ってた。
一度で済ませると思っていた。
***
その日のその行為はわたしの体の奥の方に何かを産みつけていったみたい。そして、どんどんと自分を違う自分へと変えてしまった。その夜が終わって、清潔な朝の光に自分を晒しても、夜の記憶が消えない。彼の吐息とあの感触。自分の奥の奥の方に残るあの感触。
「富田さん、すみません。資料、出してもらえるかな?」
「……」
「富田さん?」
「あ、すみません」
次の日、一日自分はぼうっとしていました。でも、修平さんは何も言わなかった。言葉にも態度にも何にも出さなかった。体を重ねた後、しばらく経つと自分の部屋に戻っていって、朝の席ではもういつも通りの彼でした。
東京へ戻る新幹線の中で、覚悟していた。このまま、何もなかったことになると。
修平さんは疲れていたのか隣の席で眠っていた。
この人、目を閉じると少し幼い顔になるんだな。
新幹線がトンネルに入る。窓が黒くなってその窓にもその少し幼い寝顔が映ってました。それを眺めた。
自分のものではないその寝顔を飽きもせずずっとみていた。
そして、その向こう側にその寝顔を所有している長谷川さんのことを思い浮かべてました。
もう二度と、この人のあんな吐息を聞くこともその腕に抱かれることもないのだなと思いながら。麻薬なんてやったこともない。もちろんクスリも。でも、もしかしたら、こういうものなのかもしれないな。
窓に映る寝顔を見ながら思う。
我慢ができない。
そんな欲望に抗いながら、でも、いわゆるそこら辺のバカな女と同じになるには、わたしにもまだ理性があったというかプライドがあったというか。そのことに触れない彼に合わせてわたしもそれに触れず、そして、相変わらず消えない欲望に対する渇望のようなものを押し込めながら、毎日を過ごしていました。
だから、また地方出張が入った時、特に何も考えてませんでした。これは本当です。
地方の病院の接待を終えて、先生たちが乗った車が走り去るのをお辞儀をして見送った。赤と黄色と車の後部ライトが滲みながら走り去っていくのをみるともなしにぼんやりと見ていると、横にいた修平さんがわたしの手を握りました。
驚いて横を見た。
なんでもないような目で彼がわたしを見た。
そして、握った手を握り返してわたしの指と指の間に自分の指を滑り込ませてくる。その指の感触を、彼の指の感触をわたしは覚えていて、指を絡められただけで、あの夜が蘇ってくる。
「今日はだめ?」
この数週間、ずっと一度もそんなそぶりを見せなかったくせに、突然ガラリと違った顔で、声で、態度で、甘えてくる。
「あれ一回で終わりじゃないの?」
「君が嫌なら無理にとは」
そう言ってするりと手を抜こうとするのを捕まえた。今、ここで、離したらこの人二度と誘ってはこないし、本当に何もかも無かったことになる。わたしの中には燻ったものがあった。その欲望に抗えるわけがなかった。麻薬のようなものでした。修平さんはわたしにとって麻薬のようなものでした。一度その味を知ってしまったら、抗えるわけがなかった。
奥さんは、いいんですか?
頭の中でだけ、そう呟いた。でも、それは口にしなかった。
理由は……
彼を正気に戻したくなかったからです。
いつまで続くかわからない。約束なんてもちろんなくて。そういう相手に女が何度も体を開いたって得るものなんて何もないんです。
ただ、止められなかった。
何かと引き換えにわたしは修平さんに抱かれました。抱かれるたびに自分の中に自分では消化できない何かを積もらせながら。
修平さんは確かにあの時期、わたしに甘えていました。
長谷川さんではなくてわたしから、何かを得ていた。
現実を忘れて彼はわたしのところに遊びにくる。体を重ねて、そして、束の間の夢を見る。その夢の間、彼はもっと強くて元気になれたのだと思う。そして、帰っていく。わたしの元であの人は休んでいた。そのくらい、疲れていたのかもしれません。
でも、そのうち、彼は一時的な疲れを癒して、そして、夢から覚める。
その時に捨てられる。自分という男をわたしに刻みつけておきながら、この人はあっさりとやっぱりあの、長谷川さんのところに戻っていくのだろうな。
行為の後に彼は、さっぱりとした顔で去っていく。わたしにあの素敵な寝顔を見せてくれることはない。それが、この人が結局は自分のものではないのだということを表しているようでだんだん嫌になってくる。
そう。嫌なのは、後でした。その後。1人で残された時間。
満たされないんです。さっきまで男の腕の中にいて、そして、抱き合っていたというのに。
回を重ねれば重ねるほど、その後が切ない。
1人置いてかれて眠るその夜が、ゾッとするほどに孤独でした。
***
2人のそんな関係が数ヶ月続いた時のこと、会社に向かっている朝。電車を降りて、駅前からバスに乗り換える。たくさんの人にもみくちゃにされながらいつものようにバスに自分の体をねじ込んだ。
吊り革に捕まって立ちながらため息が出た。
なんだか朝からだるくて疲れていて……。
ふと、自分で自分の頬に触れる。
なんか微熱があるようだった。
おかしいな。風邪でも引いたかなと。
バスを降りて、外の空気を吸い直す。そしてゆっくり会社に向けて歩きながら最近の日々を思い出す。どこで風邪を引いたのかわからない。
風邪ではないのかしらと。
そして、はたと止まった。思い出した。
自分の生理のことです。遅れていた。忙しくてうっかりしていた。遅れていた。
会社について自分のデスクについてから、手帳を出して記録を確認した。毎月そんなにずれるほうではなかった。それが、2週間も遅れていた。
気もそぞろにその日の仕事をこなした。修平さんは普段通りの様子だった。
夜、薬局で買った検査薬を使った。
くっきりと線が一本浮かび上がった。
自分の部屋でそれを見た時のあの驚きを今でも忘れられない。
鳥肌がざわざわとたった。
トイレを出て、手を洗って、ぽすんとテレビの前のソファーに座った。
まさか妊娠するなんて……
音がない部屋が怖くて、寂しくてテレビをつけた。つけたけど見ることもせず。どこか遠いところでテレビはさまざまな陽気な音をかき鳴らしていた。
ほんの数十分だったのではないかと思う。
妊娠したと知ってから、ほんの数十分。
それが、自分を完全に違う人間にした。
これは、むしろチャンスなんじゃないかと思ったんです。
これは、わたしのピンチではなくてチャンスなんじゃないかって。
ただ指を咥えて見ていても、毎日を真面目に過ごして待っていても欲しいものなんて手に入れられない。わたしはそこで間違えたのだと思う。自分で手を伸ばさなければ欲しいものなんて手に入らないんだ。
子供を授かったのはきっと2人の運命だって、そう思った。
***
「子供ができました」
「え?」
「どうしましょうか?ただ、すみません。わたしも若くはないので」
とある喫茶店に修平さんを呼び出した。仕事帰りに。きっちりと向かい合ってそういうと、彼はポカンとしました。
「あなたがどうするにしても、産みます。産んで育てます」
何も言えずに驚いている彼の前で、わたしはゆっくりお茶を飲みました。他の席の客が談笑する声に耳を澄ませていた。そのくらい、不思議なくらい自分は落ち着いていました。
「急に言われても、ちょっと、わかりません。僕には奥さんも子供もいるし」
「どのくらいで答えが出るの?早めにしてほしい」
その時、修平さんの目には怯えた色があった。多くを語られなくてもわかりました。それは、奥さんと子供を失う怯えだった。どこかでわかってたんだと思うんです。だから、その怯えた目の色を見ても自分はそこまではショックを受けなかった。何も言えずに青ざめた顔をしている男の人を置いて、席を立って外へと出た。
賽は投げられた。
そんな言葉を思い出しながら、家へと向かう。彼は目が覚めただろう。そして、夢から覚めて自分の現実、家へと戻るだろう。そんなことはどこかでわかってた。
だけど、自分は修平さんが欲しかったんです。
自分1人では叶わないそんな夢も、今なら叶うかもしれない。
だって、わたしのお腹には今、彼の子供がいる。
しばらく待ちました。でも、修平さんから返事らしい返事はなかった。
わたしから連絡すると、無視するというようなことはなくて、でも、もう少し待って欲しいというようなことを言われた。だけど、待つつもりはなかった。
普通にやってたら手に入らないものが欲しかったんです。
そして、あの凛とした立ち姿を思い出した。長谷川さんのあの凛とした立ち姿。
長谷川さん、あなたは、わたしにはないものをいっぱい持ってる。
だから、その中からひとつ、わたしにください。
あなたは人から奪わなくても色々なものを手に入れることができる人だけど、
でも、わたしは違うの。
わたしにください。
1人で生きていくのはやなんです。
たいしたものを何も持たないままで1人で生きていくのはやなんです。
***
ピンポーン
はあいという声が遠くでして、パタパタと足音がする。
ファミリータイプの部屋が集まったマンションの午後。父親の帰りを待つ奥さんと子供たちのお城。病院に行くと行って早退けして、スーツ姿でとある部屋のチャイムを押した。
上条と書かれた部屋のチャイムを。
ガチャリと扉が開いて、長谷川さんが顔を出した。
ふわふわとした髪。落ち着いた顔立ち。
白衣姿の彼女からは程遠い、そこに、普通の主婦の長谷川さんがいました。平凡な主婦の。
「あの……」
「あ、どうも、こんにちは」
わたしはスーツのポケットから名刺を出した。
「富田と申します」
「あ、会社の?え、主人なら今、会社のはずですけど」
「いえ、今日は奥様に折り入ってお話がありまして」
「え、わたし?」
何も疑ってなどいない顔できょとんとわたしを見ている。
「お母さーん」
後ろから小さな男の子の声がした。
「はーい」
「おしっこー」
「はいはい、ちょっと待ってね。すみません、散らかってますけど、どうぞ」
慌ただしく客用のスリッパを出すと、男の子の声がした方へと行く。
「お客さん?」
「そうよ。後でご挨拶してね」
奥の方で上がる物音を聞きながら、玄関先で靴を脱ぎ、スリッパに足を通す。
修平さんの家をジロジロと眺めながら、リビングに入りました。
それは、幸せそうな普通の家庭だった。
座ったダイニングテーブルを眺めながら、そこに座って朝食を食べたり夕食を食べたりする修平さんを思い浮かべた。
「あの、すみません。お待たせして」
長谷川さんが戻ってきた。
「あの、今お茶を」
「あの、お構いなく。その、すぐ去りますので」
そういうと、長谷川さんは台所へ向かおうとしたのをやめて、わたしの目の前にストンと座った。
「お母さーん」
「樹、お母さん、お客さんが来てるの。隣のお部屋で遊んでいて」
家の床のあちこちにおもちゃが散乱していた。
「えー、やだー」
「いい子だから」
ちょっとしかめ面になったけど、床に落ちているおもちゃの飛行機を拾うと、ブーンと言いながら言われた通り隣の部屋へと消えた。長谷川さんは目を細めて、そっと口元を微笑ませて男の子を見ていました。
かつての紅一点は、本当に普通のお母さんになっていた。
「すみません。バタバタしてまして」
「いえ」
ちょこんとお辞儀をする。ため息が出た。
「わたしのこと、覚えてらっしゃいます?」
「え?」
「営業と研究だとちょっと接点もないですかね?わたしの方は覚えているんですが」
「ああ、すみません。あの……」
わたしの名刺を取り出して見ている。
「主人と同じ部署で働かれている方、ですか?」
「はい。富田直子です」
「今日はどういったご用件で?」
「お願いがあって参りました」
姿勢を正しました。
「お願いって?」
「わたしのお腹にご主人との、修平さんとの赤ちゃんがいるんです」
その言葉は、長谷川さんの時間を止めた。彼女は瞬きもせず、わたしを食い入るように見つめました。マンションのそばの公園で遊ぶ子どもたちの声が遠く聞こえた。ベランダに向けて開け放された窓から風が入って、薄いカーテンを揺らしていました。
「ご主人を譲っていただけませんか。この通りです」
両手を膝について、きっちりと頭を下げた。
「そんな……できません」
震えた声でそう呟いた。顔を上げると、長谷川さんの顔色が紙のように白くなっていた。
「そうですか」
わたしはこれ見よがしに自分のお腹を両手でさすりました。
「それなら、諦めるしかないですね。わたし、1人で育てるような裁量はありませんし……」
「あなたの言ってること、本当なの?」
「嘘じゃありません。ご主人に確かめてください」
「どうして?」
「1回目は……」
息を吸い込んでそれから、真っ直ぐに長谷川さんの目を覗き込んだ。
「わたしからです。でも、わたしのほうにはそれ以上の気持ちはありませんでした。2回目を誘ったのは修平さんですよ」
長谷川さんの目がカチンと冷たく尖ったのが見えた。
「慣れない営業に飛ばされて、参ってたんですよ。慰めてもらいたかったんですかね」
そして、そっと立ち上がった。
「この歳で初めて子供ができました。でも、1人で育てることはできないし、わたしはやっぱり1人で生きていくしかないんですよね。でも、あなたなら」
「……」
「選べますよね。長谷川さんは優秀な方だから、ご主人を許してやってくことも、1人で育てることも」
彼女は座っていて、わたしは立っていた。憧れの人を見下ろしながら言いました。
「あなたのような人が羨ましい。ねぇ、わたしに譲っていただけませんか?修平さんを」
紙のように白かった顔色が今度は赤くなってくる。背中を向けた。そのまま激しく怒っている女の人を置き去りにして、部屋を出た。長谷川さんはわたしを見送りに立たなかった。後ろの方で、男の子の声がした。
「お母さん、どうしたの?」
「……」
「ねぇ、お母さん」
後ろを振り返らずにドアをバタンと閉めました。
わたしには勝算があったんです。ずっと離れたところから、長谷川さんを眺めてきた。あの凛とした姿。彼女のような高潔な人が、自分を裏切った男を許して生きていくような道を選ぶわけがないと、そういう勝算があった。
しばらくすると、修平さんから電話がかかってきた。
「君は一体、何をしたの?」
初めて聞いたこんなに硬くて冷たい声。別人のようでした。彼の声を聞きながら、窓の外を眺めていた。灰色の雲を。
「あなたが、はっきりしないからよ」
「だからって、土足で踏み込んでいいところじゃないよ。僕の家は」
「どうなったの?わたし、知らないの。結末を」
「出てった。2人とも。帰ってこないし、会ってもらえない」
「ふうん」
東京の空の上に垂れ込める灰色のえんえんと続く雲を見ていた。どこにも空の見えない光景をぼんやりと見てました。
「どうするの?これから」
「わからない」
「ふうん」
「彼女次第だよ。翔子さん次第」
「ふうん」
努めて興味のないふうな声を出しました。電話はそっけなく切れた。それから、彼は職場でわたしをできるだけ避け、それでもやりとりをしなければならない時は、目を合わさないようになった。
わたしには勝算がありました。
長谷川さんは高潔な人です。自分を裏切った男を許すわけがない。彼女は生きていこうと思えば、自分で生活ができる人ですから。もう一つ、今はまだ取り返しがつくと思っている修平さん。うまくいかないとなった時、わたしに対してそこまで非情になれる人ではない。
ギリギリまで待とうと思ってた。
ギリギリまで待ってうまくいかなかったら、それはしょうがない。子供を堕ろそうと思ってた。そして、何もかも捨ててどっか別の場所へ行ってしまおうと思ってました。
人生というのは不思議なものです。
その時まで、わたしの人生、わたしの思い通りになったことなんてひとつもなかった。それなのに、今回のことだけはことごとくわたしの思う通りになりました。
長谷川さんはやはり、頑なに修平さんを許さなかった。
その結果を知った時、手を叩いて笑い出しそうになりました。やっぱり、やあっぱり。おかしい。あはははは。仕事だって、あっさり捨てた。男だって、あっさり捨てるんだ。
なんだって簡単に手に入れる人は、だから、ダメなのよ。
そして、修平さんも、わたしの読みの通りだった。非情にはなり切れない人でした。
「責任を取ります」
あの人が、わたしのものになる。わたし、勝ったんだわ。人生で初めて勝った。しかも、長谷川さんみたいな人に。本当に信じられなかった。
修平さんはわたしを憎んでいました。かつてわたしのところへ通ってきては甘えていった男の人はもうどこにもいなかった。ひとつ屋根の下でまるで敵同士のようにして一緒に暮らし始めた。
わたしは平気でした。そのうち諦めるだろうと思ってたから。わたしを憎むのは、長谷川さんとまだどうにかできると、心のどこかで諦め切れてない、希望を持っているからです。でも、それは毎日、失望に変わるでしょう。そして、一緒に暮らしている人間を憎み続けるのにも限界がある。憎むというのには、それ相応のエネルギーがいるんです。
そして、何より、子供です。わたしたちの子供。
諦め切れずに懊悩すること、わたしを憎み続けること、どちらも疲れる行為です。疲れ果てた頃に、わたしたちの子供が生まれた。女の子でした。
本当に生まれた時から綺麗な子だった。梨花は。
わたしなんかより、修平さんに似たんです。綺麗な顔立ちの赤ちゃんでした。
いつも氷のように冷たくわたしを見続けてきた修平さんも、梨花にその目を向けることはできなかった。めちゃくちゃな始まり方をしたわたしたちをギリギリでつなげたもの、それは、梨花でした。
疲れたようなでも少しホッとしたような顔で梨花を抱いている修平さんを眺めながら思った。きっと、この人も、そのうち折れる。諦めてわたしたちと生きてゆくだろう。初産で疲れた体をベッドに横たえて、明るい病室で小さな小さな梨花をそっと抱いている修平さんの姿を見ながら、そこに希望の糸を繋いでた。
わたしにはひとつ誤算がありました。
それは……
主人のことです。
主人は確かにそのうち、長谷川さんのことを諦めたようです。そして、積極的にわたしを憎むこともなくなった。だけど、頑なになりました。
心を開かないのです。
心を決してわたしに渡さないのです。
喜びも怒りも、哀しみも楽しみも。いつもどこか一歩離れた姿勢でいる。一緒に暮らしているのに、ぶつかってこない。本当のところはどう思っているのかわからない。ただ、いいとか悪いとか、どっちでもいいとか、どうでもいいとか。温度のない顔で、声で、言ってくるのです。
時が経てば経つほど頑なな石にでもなるようにわたしに心を預けない。
わからなかった。男の人を手に入れるということが、どういうものなのか、修平さんを手にする前にはわかっていなかった。一緒にいれば満たされるのだろうと思っていたんです。自分が心からいいなと思う男の人と一緒にいれば。手に入るのだと思ってた。
そばにいても心が通わない。心を通わせたい相手に心を開いてもらえない。
その苦しみ。そんなものが待っているなんて、それは、わたしの誤算でした。
わたしが、自分なりに工夫を凝らして手に入れられたもの、それは、彼の眠っている顔だけだった。素敵な寝顔。
2022.03.29




