表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
この作品には 〔ボーイズラブ要素〕が含まれています。
苦手な方はご注意ください。

ゆれながら

作者: 岸本 亨

 「ゆれながら」

                                  岸本 亨

 ゆらゆら、ゆらゆらと、身体を揺らしている。

美和子さんが、緑の芝生に立ち、早春の金色の陽光を浴びながら、身体を揺らしている。微笑みをうかべ、気持ちよさそうに、ゆらゆら、ゆらゆらと、全身を揺らしている。

「これね、「ゆる体操」っていうのよ。カラダを気持ちよくゆらして、全身をゆるめていくの」

 美和子さんは、純白のシルクブラウスに、たっぷりとした藍色の麻のパンツで包んだ身体を細やかに揺らしながらこちらを振り返ると、子供のような笑顔で言った。つられて揺れている白いブラウスのほのかな胸のふくらみが、ぼくには眩しかった。

 健康食品を販売しているぼくの職場に、上原美和子という女性が派遣されてきたのは、半年前のことだった。鉱物由来のミネラル水の取り扱いを始めてから急速に売り上げが伸び始めた会社のサポートスタッフとして採用されたのだ。アラフォーと自称する美和子さんは明るくテキパキとした女性だった。まるで男の子のように刈り上げたショートカット、歩き方も動作もキビキビしていて全体に颯爽とした印象だった。とりたてて美人というわけでもないけれど、笑顔が可愛らしく人当たりがよく、仕事の飲み込みも速いので、八人いるスタッフたちの中にたちまち溶け込んでいった。たまたま隣の席だったぼくは仕事も含めて言葉を交わす機会が多かった。身近に接する美和子さんはその一見テキパキした印象とは裏腹に、とても丁寧で落ち着いた大人の女性だった。顧客との電話でのやりとりを聞いていても、細やかな心遣いと相手の言い分をじっくり受け止めようという誠意が感じられ、結果、うまく話がまとまることが多かった。誰に対しても言葉遣いと物腰が丁寧な美和子さんの周囲には、いつも調和的な雰囲気があった。ぼくは、この十歳近く年上の新人女性に少しずつ惹かれていった。美和子さんも、ひと回り年下ながら先輩社員であるぼくに敬意と礼儀をもって接してくれた。仕事に関するぼくの話に真剣な表情で耳を傾けた。

「片岡さんは、とても説明がお上手ですね」

 ある時、ぼくがミネラル水の人体に及ぼす効果について説明した直後に、美和子さんがポツリとつぶやくように言った。

「とてもわかりやすいです。片岡さんご自身が内容をよく理解されていて、頭の中でマッピングができてらっしゃるので、それがこちらにヴィジュアルに伝わってくるんです。それにお話の組み立て方と言葉の選び方が的確。その能力、これからも有効に生かしていかれたらいいですね」

 そう言うと美和子さんは、ぼくの目をのぞきこむようにして優しく微笑んだ。

ぼくは嬉しかった。なんだか、小学生の男の子が大好きな女の先生に褒められたような心持ちだった。毎日接しているうちに、ぼくは美和子さんに聡明な大人の女性を感じていたのだ。

 ぼくと美和子さんは、会社の外でも時々会うようになった。

美和子さんは四十歳を少し過ぎた今、独身で離婚歴が一度あった。恋愛経験のいくつかももちろんあったに違いないが、二人でいるときにその話題に触れることはほとんど無かった。ぼくも独身だが、三十歳になった今まで、恋愛経験と呼べるものは皆無に近い。何回かデートらしきものは体験したが、恋愛にまで発展することはなかった。話がつまらない。同世代や少し年下の女性と話していて、内心そう感じることが多かった。ゲームや芸能人、占いなどの話題に合わせていくのは正直億劫だった。そんなことは、ぼくにとってどうでもいい話だった。

 美和子さんとの会話は面白く、そして楽しかった。話をしているうちに未知のゾーンに入り込んだり、連想、発想が湧いてきて、アタマが活性化していく感覚が何度もあった。幼い頃から本を読むのが大好きだったという美和子さんは、頭の中にたくさんの引き出しがあるようだった。

 「わたしね、変わってるってよく言われるんだけど、ジャズピアニストの山下洋輔の文章の大ファンなの」

「山下洋輔の文章、ですか?」

 あるときの会話の中で、ぼくにとってはまったく意外な名前が出て来た。

山下洋輔。有名なジャズピアニストで顔と名前は知っていたが、その文章を読んだことはなかった。

「そう、あの方はジャズ、音楽だけじゃなくて、もの凄い知性と才能の持ち主なのよ。特にその文章が素晴らしいの。昔、学生時代に彼のコンサートツアーの様子を書いたエッセイを初めて読んで、わたし、ぶっ飛んだ」

「ぶっ飛んだ?」

いつもの美和子さんらしからぬ表現に少し驚いた。

「そう。言葉の感覚が鋭くて、文章のリズム感が素晴らしいの。あの人、ジャズピアノの演奏中に盛り上がってくると、鍵盤に肘打ちを連打することで有名なんだけど、文章でも同じことやるのよ。突然言葉が飛躍して、秩序や常識の世界から飛び出してハチャメチャやるの。私初めて読んだ時ビックリして、なんだか自分が身体ごと自由な宇宙に放り出されたような気がしたわ。それがまたスッゴイ快感だったの」

まるで歌うようにそう言うと、美和子さんはウットリと虚空を見つめた。

 これは、美和子さんのたくさんの引き出しの中のほんの一つだった。

美和子さんは自然をこよなく愛していた。青い空。輝く太陽。澄んだ空気。緑の樹木。美しい花々。透明な水。生い茂る草。びっしり繁茂する苔。広がる海。そんな自然のアイテムをこよなく愛した。二人で待ち合わせてよく出かけたのは、調布の深大寺界隈だった。ここは美和子さんのお気に入りのスポットだった。なかでも、深沙大王堂の裏手にある緑深い原生林の残る一帯がとりわけお気に入りだった。出店が立ち並ぶ華やかな深大寺山門周辺とは打って変わって、この辺りは人が少なく、深い緑に覆われた湧水池があった。

この日も、ぼくと美和子さんは並んで歩きながら、人で賑わう参道を抜けると、深沙堂水源湧水池に到着した。そこは人気(ひとけ)がなく、緑と水の世界がひろがっていた。

「このあたりに来ると、自然に呼吸が深くなるような気がするでしょう?」

水源から流れ出る湧水を見つめながら、美和子さんが少し得意げに言った。

「信州を出て、東京に住むようになって、初めてここに来たときは嬉しかった。なんだか生き返ったような気がしたわ。ああ、東京にもこんな場所あるんだぁって思ったら、カラダの力が抜けてホッとした」

美和子さんは少し目を細めるようにしてつぶやいた。いつも職場でキビキビと立ち回っている美和子さんとは別の女性(ひと)がそこに居た。その周りには静かな空間が広がっている。水の音だけが聞こえていた。突然ぼくは、職場の美和子さんも、こうして静かに水辺に佇む美和子さんも、どちらも好きだと強く思った。そして、女性に対して素直にこんな気持ちを抱くのは生まれて初めてのことだと気がついた。人が人を好きになる。男が女を好きになる。その女性(ひと)の姿を見ていたいと思う。その女性(ひと)の声を聴いていたいと思う。できればずっと一緒に居たいと思う。できれば、その細い肩を静かに抱きしめたいと思う。そして、その女性(ひと)と一つになりたいと思う。それは、恋とか愛とかいう言葉とは関係ない、自分の内奥からのごく自然な欲求だった。細胞の願いのようなものだった。

ぼくは、生まれて初めて、一人の女性を全身全霊で求めている自分を発見した。

 ゆらゆらと身体を揺らしている美和子さんを、ぼくは傍らで見つめている。水源から移動して来た神代植物公園の芝生広場。早春の陽光が降りそそぐ澄んだ空気の中で、気持ちよさそうに、嬉しそうに身体を揺らす美和子さんは、まるで空から舞い降りた天女のようだった。そうだ。ぼくにとって美和子さんは、まさに天から舞い降りてきて、ぼくに人として一番大切な気持ちを湧き起こさせてくれた女神さまなのだ。

(ゆずる)さんもやってみない?ゆる体操」

身体を揺らしながら美和子さんはやわらかな笑顔でぼくを誘ってきた。「ゆる体操」。聞いたことはあったがやるのは初めてだ。ぼくは美和子さんと並んで立った。

「コツはね、とにかくカラダの力を抜くこと。そうして自分の全身の細胞がふわーとゆるんで、周りの空気と溶け合っていくようなイメージでやるとイイ感じよ」

ぼくは美和子さんの教える通りにやってみた。はじめはぎこちなかったが、やっているうちにカラダの奥からそこはかとなく快適感のようなものが湧いてくるのを感じた。ぼくと美和子さんは並んで揺れていた。陽光が降りそそぎ、大気も揺れている。揺れながら、ぼくは、これからこの美和子さんと一緒に生きていこうと心に決めた。


評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ