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第6話

 日はすっかり落ちていた。月明かりがうっすらと薄暮の夜空を照らしている。

 蛍光灯が灯った通路を歩いて行き、加奈子の住んでいる201号室のブザーを押す。返事はない。ドアノブを回すが、鍵がかかっている。

「加奈子ー、わたし」

 と声をかけてもう2、3度ブザーを押す。留守なのだろうか。

 あきらめて帰ろうとすると、ドアの内側からかすかにドアの開く金属音が聴こえた。振り向いてもう一度ドアノブを回す。今度は開いた。

 ドアを開けた瞬間、この世のものとは思えないほど強烈な刺激臭が鼻を突いた。反射的に顔を背けて、思わず2、3歩も後ずさってしまった。何だこの臭いは……?

 パーカーの袖で鼻と口を隠し、もう一度恐る恐ると室内を覗き込む。真っ暗だ。カーテンを締め切っているのか、外からの明かりも射していない。玄関の横にはダンボールがうず高く積まれている。

「加奈子、どほにいるの?」

 指で鼻を摘んで異臭を避け、暗闇に向かって語りかける。口の中に湿気た生暖かい空気が入ってきて、気持ち悪い。もう少しで吐きそうだ。

「入るよお」

 鼻を摘んだまま玄関に足を踏み入れる。玄関には靴に混じってコアラのマーチの箱とジュースの空き缶が落ちていた。足で払い除けて進んでいく。嫌な予感がする。

 手探りで壁側の電気スイッチを押すと、電灯は2、3度弱々しく明滅してようやく点いた。

 ぎょっとした。玄関の先には、居間への通路を封鎖するようにしてダンボールの山が積み上げられていた。奥はまったく見えない。まるでバリケードのようだ。

 ダンボールの横書きを見ると、すべて食品名が記載されていた。「ポテトチップ」「明治チョコレート」「小倉あんぱん」「フルーツ缶詰」、美佐の言っていたネット通販で購入した食品だろうか。どれも調理せずに食べられる食品ばかりだった。

「完熟バナナ」のダンボール箱が3箱あるのには驚いた。ペットでゴリラを飼い始めたとは聞いていない。加奈子がゴリラ化したと考えるのが妥当だろう。

「ちょっとらに、このランボール。かなほ、ちょっとこっちきて!」

 声を張り上げたが返答はない。返事がないのが返事のようだ。路は自分で切り開けということか。

 やむなく私は、玄関の真正面にある「ポテトチップ」と「フルーツ缶詰」のダンボールを片側に寄せることにした。

 鼻つまみを外して口で息をしつつ、全体重を傾注して、床を擦るようにしてダンボール箱を移動させていく。口内が腐らないのを祈るのみだ。

 3段重ねのダンボール箱をなんとか壁際に押し退けることには成功したが、しかしその奥には「砂糖」「マーガリン」「山形食パン」のダンボール箱が誇らしげにそそり立っていた。がっくりきた。

 馬鹿らしい。なぜ私が片付けなければならないのだ。

 腹立ち紛れに「砂糖」のダンボールを蹴とばすと、「砂糖」のダンボールはふわりと風船のように浮いて、スローモーションで床に落ちて行った。空だ。

「マーガリン」「山形食パン」のダンボールも手で押すと、簡単に向こう側に倒れて行った。高カロリー3兄弟はすべて空だった。

 見晴らしが良くなった短い廊下には、ゴミと衣類で埋め尽くされていた。包装紙、プラスチック容器、リンゴの芯、蜜柑の皮、Tシャツ、靴下、おにぎり、紙くず、その他わけの分からない物体が混沌を形成している。ゴミの分別を推進しているNPOが見たら、気絶して口から泡を吹くだろう。

 ワンルームの一番奥に加奈子はいた。ゴミの山に囲まれて、カーテンの方を向いてちんまりと座っている。相当肉付きがよくなったようだ。背中がむちむちしているのが分かる。何かを食べているのか、両腕だけがせわしなく動いている。

「ねぇ、加奈子。いまわらひの部屋で、美佐とご飯を食べへるんらけど、あらたも一緒にろう?」

 玄関から加奈子の背中に話しかける。刺激臭で目がピリピリする。ゴーグルが欲しい。

 加奈子はお地蔵さんのようにまったく動かない。手だけが口元に往復運動している。

 加奈子の所に行こうと思ったが、廊下のゴミを見てすぐに諦めた。ゴキブリや腐ったバナナの皮でも踏んづけたら、一生浮かび上がれない気がする。

「心配事があるなら、わらひでよかったら聞くよ。らいじょうぶらから。れえ、おいれよ、かーなーこー、かーなーこっ!」

 チアガールのように加奈子の背中に声援を送る。声を出すたびに口内がバイ菌で冒されていくような気がして、憂鬱になる。虫歯か肺炎に罹ったらどうしよう……後生だから早く返事してほしい。

 祈りに近い私の心の叫びが通じたのか、お地蔵さんの腕はぴたりと止まった。携帯のバイブ機能のようにブルブルと肩を振わせている。なんだろう?

 ズーッと洟をひとつすすりあげた後、顔を天井に向け、おっ、おっ、おっ、とオットセイの咆哮のような嗚咽を挙げ始めた。まるで繁殖期の動物のようだ。

「さ、紗枝ちゃん、あたし……」

 震える声で、お地蔵さんが上半身だけ振り向いた。驚愕した。3週間前までやせっぽっちで可憐な少女のようだった加奈子が、

「か、過食が止まんないよー!」

 餌を食いながらぼろぼろと涙を流す、一頭の肥大したトドがそこにいた。


 泣きじゃくる加奈子を宥めすかして、どうにか私の部屋に連れ込むことに成功した。

 加奈子は大きな水色のナップサックを肩に担ぎ、ふうふうと息を弾ませながらテーブル前に腰を下ろす。腹が邪魔して床に座るのが難しいのか、2度も後方に転がってしまった。3度目にしてようやく胡坐を掻くことに成功した。

 秋だというのに額には玉の汗を掻いている。絞ったふきんで顔を拭かせる。美佐は呆れ顔だ。

「それで、どうして過食になったわけ? ちょっと前までは、ほとんど食べていなかったと思うけど」

 私は当然の質問をした。加奈子は質問に答える代わりに、ナップサックから取り出した徳用ポテトチップの袋を開けてバリボリ貪る。食べながら喋り始めた。

「最初に過食状態になったのは、2ヶ月くらい前だったかな。いつものように朝昼抜きで午後の授業を受けていたら、胃がじんわりと熱くなってきたの。それまでに何度もあったことだから、気にもとめていなかったんだけど、その日はいつもと違った。そのうち、胃がカッと燃えるように熱くなって、キューッと締め付けるようになったの。もう少しで叫び声を挙げるくらい痛かった。授業を抜け出して、そのままトイレに入り込んでゲーゲー吐いたわ。でも黄色っぽい胃液が出るだけで、全然気分は良くならなかった。とりあえず家に帰ろうと思って、トイレを出てキャンパスをふらふら歩いていたの。学生食堂の前を通りかかって、ピンときた。ああ、これは食欲なんだって。すっかり忘れてた、食欲の感覚」

 加奈子は、ふううっと一息ついて、持参した1、8リットルのダイエットコーラをペットボトルのままガブガブ飲んだ。豪快にゲップを吐いて再び語り始める。

「単に胃が空っぽだったから、お腹が痛くなったわけ。しかたないから、少しだけ食べようと思って、そのまま学食に入っていった。食堂の麺類コーナーでカロリーの低いザルそばを選んで、レジでお金を払って席に着いた。あたしの大学ってセルフサービス形式なの。お盆に食器を載せて、それをレジに持っていってお金を払うって形式。学生数が多いから、こうでもしないと捌き切れないのね、食堂のおばちゃんたち。ザルそば1枚180円なの、すごく安いでしょう。その代わり量もとっても少ないのよ。もったいないから1本1本ゆっくり噛んで食べていったっけ。急に胃に負担を掛けても危険だからね。絶食後の食事ってすごく重要なのよ。それまで空っぽだった胃にいきなり食べ物が入ったら、ショックで心臓麻痺になることもあるんだから。あたしまだ死にたくないもん」

「前置きが長い。簡潔に話しいや、簡潔に」

 美佐は苛々した口調で言うと、煙草に火を点けて溜息のような煙を吐いた。

「質問は、なんであんたが拒食から過食にチャンジしたかや。曲がりなりにも大学生なんやから、要点だけ押さえて簡潔に話してくれんか」

「ごめんなさい。ええと、つまり、ザルそばを食べた後、急に食欲が戻っちゃったみたいなの。食堂の棚に並んだお惣菜を見てたら、すごく食べたくなっちゃって。それで、セルフサービスの棚に戻って、お盆の上にいろいろと載せて……」

「食欲に火がついて、止まらんようになったんやな」

 美佐が口を挟む。加奈子はコクリと頷いた。あご周りの分厚い脂肪に阻まれ、頷く角度は浅い。

「それで、学生食堂ではどのくらい食べたのかしら?」

 怖いもの見たさで聞いてみた。加奈子は恥ずかしそうに「1万円分くらい」と呟いた。美佐は肩をすくめた。

「典型的なリバウンドやな。教科書に載せるくらい超典型的や。あんた、拒食期にはほとんど何も食べてなかったんやろ? だからその反動で、それだけリバウンドも凄まじいっちゅうことや。どや、まったく食欲をコントロールできんやろ?」

 美佐はテーブルに頬杖を突きながら、蔑むような目を加奈子に向けている。その視線に耐えかねたのか、加奈子のつぶらな瞳はみるみる潤み、やがてぽろぽろと涙が流れだした。満月のように膨れ上がった顔をくしゃくしゃにして、それでもポテトチップを手放そうとしない。飢え死に寸前の動物のように、ガツガツと徳用ポテチを食い散らす。通常の5倍量はある特大ポテチは、またたく間に加奈子の胃に収まってしまった。

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