第5話
警笛のようなブザーの音で目が覚めた。
裕也に車で送ってもらった後、いつのまにか眠り込んでしまっていたようだ。
眠い目を擦りながら時計を見る。午後5時をまわったところだ。窓の隙間からは夕焼けの朱が差し込んでいる。日没が近い。
掌で頬を叩きながら玄関に行き、魚眼レンズに目を当てる。栗色の髪にシックなスーツを身に纏った女性――榎本美佐が立っていた。
ドアを開けると、美佐子が「はぁい」と笑顔を向けてきた。私も「はぁい」と返す。彼女との挨拶はいつもこれだ。
「ピザと缶ビール。夕飯まだやろ。一緒に食べん?」
美佐は両手に持ったピザの箱を掲げると、にっかり微笑んだ。
「助かった。ちょうど夕食の準備をしようと思ってたところ。上がって」
「お邪魔するよ」
美佐は赤いハイヒールを脱ぐと、スリッパに履き替えて室内に入っていく。ガラステーブルの上にピザの箱と、スーパーの袋から取り出した缶ビールも置く。長方形の群青色の箱を取り出し、開ける。
箱の中身は万能包丁だった。
「買物行ってないから、材料あまりないわよ。実はさっきまで寝ていた」
「かまわんかまわん。何もないところから作り出すのが、本当の料理や」
そう言って美佐は、高級そうな薄桃色のスーツの上を脱ぎハンガーラックに掛けた。冷蔵庫から適当に食材を見つくろと、開襟シャツを腕まくりして、持参した万能包丁で食材をリズミカルに刻む。フライパンを振るい、大皿に盛る。
「ほい一品目。酢豚に見えるけどちゃうで、鶏肉で作ったから酢鶏や。こっちのほうが安うて美味くてヘルシーや」
笑いながらフライパンを洗い、2品目を作り始める。
「すごいわ。これならいつでも家庭の主婦になれるわね」
私は美佐の隣で大鍋でパスタを茹でる。包丁は握らない。
「そうやな。料理は苦やないし。あとはわたしの趣味を認めてくれるかどうかや」
美佐は苦笑した後、ちょっと寂しげな顔を覗かせた。趣味という言葉で装飾してはいるが、内実はそう簡単なものではない。彼女の趣味を手放しで認める男性は、あまりいないだろう。
茹で上がったパスタの上に、市販のカルボナーラソースを注いで出来上がり。包丁を一切握らない料理といえばこの程度のものだ。
酢鶏とカルボナーラ・スパゲッティをリビングのガラステーブルに運ぶ。美佐がコップと出汁巻き卵と持って来た。
美佐は座布団に座るとグラスにビールを注いだ。
「久しぶりに食欲がでてきてな。なんか知らんけど、猛烈にピザを食いとうなったんや。ほら、ピザって一人では量が多すぎるやろ? 紗枝がいてくれてほんま助かるわ」
関西弁で口早に喋ると、グラスに発泡酒を注いでうまそうに飲んだ。
「私こそ、助かる。一人だったら適当なもので済ませることが多いから」
独り者の寂しさやな、と美佐は笑いながらピーラーで切ったピザをほうばった。私も8等分になったピザの一片を食べる。バジル風味でおいしい。冷めかけているところが惜しい。
包丁どころか、台所にはぺティナイフ一本置かれていない。料理が嫌いというわけではない。ましてや尖端恐怖症でもない。発作的に自傷行為を起こさないための措置である。
台所の包丁で腕を切ったのは、今から半年前のことだ。
夏前とは思えないくらい蒸し暑い日だった。数日降り続いた長雨が上がり、湿度は異様なまでに上昇していた。
昼食を作っていた。あろうことかビーフストロガノフに挑戦していた。
本を片手に、慣れない手つきでトマトを湯剥きし、ざく切りする。
初めて作る料理なので当然手際は悪く、ひどく時間がかかる。睡眠不足と蒸し風呂のような湿度のせいもあり、かなりイライラしていた。こんなことなら冷やし中華にでもすればよかった、遅々として進まない料理を前にうんざりしていた。
フライパンで玉ねぎ、マッシュルーム、エリンギ、ローリエをよく炒め、トマトを加え炒め、煮こみ鍋にあける。スープにワインを加え、塩コショウで味を調えながら煮込んでいく。
熱気で頭がぼーっとする。木製のしゃもじで深鍋を混ぜながら、ふっと意識が飛び、よろける。はっと気が付き、反射的に深鍋の柄の部分を掴んだ。深鍋は重心を失い、重い音を立てて床に落ちた。ビーフストロガノフは床一面に飛び散った。
カッと頭に血が昇った。
やばい、瞬間的にそう思ったが、自制することはできなかった。まな板の包丁を握り上げ、鋭く左腕に振り下ろした。血液が噴水のように空高く飛び散った。大量に噴出す血でパニックに陥った私は、あろうことか119に電話してしまった。救急車で整形外科に搬送された。縫合後、精神科へ回された。
それ以後、台所には包丁を置いていない。
「太田さんは来ないの?」
私は甘辛い酢豚を食べながら尋ねた。201号室に住む太田加奈子は、美佐と連れ立ってこの部屋に来ることが多かった。
美佐はスパゲティをフォークでくるくる巻きつけながら、首を横に振った。
「あかん。あいつは今、過食中や」
「嘘? この前会った時、40キロを切ったってよろこんでたけど」
「それは2ヶ月前の話やろ。今は70キロ超えていると思う」
そういえば、しばらく加奈子とは会っていなかった。
「突然、キレてしまったみたいやな。理由はわからんけど。一度こうなったら、日数かけんとどうしようもない」
キレた、とは無茶食いを始めた、という意味だろう。
太田加奈子は21歳の女子大生。大学進学のため18歳で地方から出てきたが、その頃から摂食障害の症状に悩まされている。定期的に拒食と過食を繰り返し、そのたびに太ったり痩せたりしていた。現在はどうやら過食期のようだ。
「外に出るのが億劫なんか、ネットで食いもん買い漁ってアパートに届けさせてるみたい。そんで、一日中食べとる。……心配になったから、3日前に部屋覗いてみたんやけど、部屋、凄いことになっとるで。食べ物のダンボール箱が積み重ねられていて、床は一面包装紙やら食べもんのカスなんかで一杯や。うわー、と思いながら爪先立ちで部屋に足踏み入れたんやけどな、ゴミの中からガサゴソと不吉な音がするんや。なんやろうと思って目を凝らしたら、ゴキブリや。巨大なゴキブリが3、4匹も動きまわっとった。叫び声あげそうになったわ。しゃあないから玄関ごしに加奈子と話したんやけど、まともに会話に応じようとせん。虚ろな目で見つめられて、なんか寒気がしたわ」
美佐は両手で肩を抱えてブルッと震えた。眉を険しくひそめ、悪い記憶を追い払うように発泡酒を飲み干した。
「でも、過食中なら食べることはできるわけでしょう?」
「ちゅうか、食べるだけや。食べる専門。食べる家畜。食べる以外に興味のない人間掃除機。部屋のゴミも食べたらええのに」
言い過ぎだ。私は出汁巻き卵を口に放り込み、黒のパーカーを羽織った。玄関へ向かう。
「ちょっと、どこ行くん?」
「加奈子を呼んで来る。一人で可哀想だから」
やめとき、という美佐の声を後にして私は外に出た。