第3話
3分診療という私の甘い期待は儚くも打ち砕かれた。
40がらみの精神科医は、入室する私ににっこりと微笑みかけながら、横目で腕を見る。腕に巻かれた包帯を露骨に凝視し、細い眉毛をピクッと動かせる。分かりやすい仕草だ。しかし、精神科医としてこの癖はいただけない。
入室早々嫌な気分になってしまった。診察室のドアの横にある緑の籠にバッグを置き、黒い丸イスに腰を下ろす。咳払いをひとつすると、精神科医はようやく包帯から目をはずした。バツが悪そうにぎこちない笑みを浮かべて、定型の質問をする。
「今日はどうしましたか」
「実は薬をなくしてしまいましたので、ちょっと早めに処方してもらえないかと思いまして」
あらかじめ考えてきた返答をする。
昨晩の腕切りのことや、たった今整形外科で縫合してきたことを馬鹿正直に言うつもりはない。適当にお茶を濁して処方箋だけ貰えればいい。
精神科医はふんふんと小さく頷きながら、パソコンのキーボードを叩いている。「紛失」と打っているだろうか、もしかして「嘘」かもしれない。
そっと腰を上げて、液晶ディスプレイを覗き込もうとすると、じろりと睨まれてしまった。モニタを微妙な角度にずらされてしまう。
「前回の診察は、ちょうど一週間前でしたね。お薬、全部無くされたのですか?」
「はい。電車かバスに置き忘れたようです」
「また?」精神科医はマウスをスクロールさせながら呟く。「前回もそうだったよね」
しまった、心の中で舌打ちする。この会話は2ヶ月前とまったく同じだ。
2ヶ月前、本当に薬の袋を紛失してしまったことがある。
その日は朝一に精神科で薬を処方してもらった後、電車とバスを乗り継いでアパートに戻った。バッグを開けると、薬袋がない。慌ててバッグを逆さにして中身を総点検した。
財布はあった。ほっとする。現金とカードの一枚一枚も丁寧に調べたが、特に異常はない。MPプレイヤーも化粧品も、バッグに放り込んでいた、読みかけの『かもめのジョナサン』の文庫本も――後に全部読んだが名作だった――紛失物は薬以外なかった。
電車の座席に置き忘れたのだろうと、駅の案内書に電話を入れたが、そのようなものは届いてないと言われた。バス会社と薬剤所にも電話を入れたが、同様の返事だった。
薬が無いと困る。しかたなく、翌日の朝一に再来院した。
この精神科医は「もったいないことをしましたね」と笑顔で再処方してくれた。処方箋を貰うための嘘と思われ、嫌味のひとつも覚悟してたのだが、ほっとした。同時に、なんだ簡単じゃないか、と思ったのも事実だ。
この時の成功体験が頭のどこかに残っていたのだろう。無意識とは恐ろしい。
「すみません。乗り物、苦手なので」
咄嗟に口から出た。苦しい言い訳だが、これで押し通すしかない。
「乗り物が苦手、ね」
精神科医はぴくりと眉を動かせて、じろりと私を見据える。黒ぶち眼鏡の奥からは、疑り深そうな視線が注がれている。老練した刑事のような眼差しだった。
「具体的にはどういうことですか。人が怖い? 狭い所が怖い? パニックになる?」
「その、乗り物酔いが酷いんです」
「乗り物酔いねえ……それは大変だ。私も乗り物に酔うから、大変さはよく分かる。つまり、気分が悪くなって薬を2度も紛失した、と?」
額に脂汗が滲むのを感じた。 完全に疑われている。
すっかり動揺した私は、水飲み鳥の玩具のように何度もコクコクと頷く。こういう場合は無理に言い訳をしないほうがいい。
精神科医は商品の品定めでもするかのように、じろじろと私の顔を眺めまわしていたが、やがてふーっと息を吐いて、何事かを了解したようにゆっくりと大きく頷いた。回転イスを90度回し、机のパソコンに向き合う。
「わかりました。今回も先週と同じ薬を1ヶ月分処方しておきます。次は絶対に失くさないようにしてください」
そう言ってやや乱暴にキーボードを叩く。3度目は無いだろう。
すみませんでした、ともう一度謝罪して、私は罪人のような気持ちでイスを立った。まあまあまあまあと両手で大仰に制されてしまった。しかたなく再び腰を下ろす。最悪だ。
この1週間の行動や精神状態などを訊かれた。
私が話している最中にも精神科医は、腕の包帯をちらちら盗み見ては、ピクピクと眉を動かせている。鬱陶しいので、昨夜のことを自分から切り出そう思ったが、詰問調の態度に気が変わった。しらばっくれることにする。
のらりくらりと日々のどうでも良い世間話をする。
食欲は普通です。本も読みます。テレビもみます。夜はあまり眠れません。たまには散歩をしたりします。落ち葉がきれいな季節になりましたね。紅葉の天ぷら、おいしいですよ。老人ホームで孤独なお年寄り相手に話したら、どんなにか喜ばれるだろう。残念ながら、診療的にはまったく無意味な会話だ。いつかボランティア要因として、本当に老人ホームに訪問するのもいいかもしれない。
それにしても、今日の精神科医はやけにしつこい。腕時計に目を落とすと、イスに座ってからすでに15分が経過している。いつもならとっくに診察終了の時間だ。
この精神科医は昼間にテンションが上がる性質なのかもしれない。紅葉の天ぷらの作り方を話しながら、そんなことを考える。それとも軽い躁病の気があるとか。
事実、精神病的な精神科医は割と多い。
人間の精神に興味を持つ人間は精神を病んでいる、とは早口言葉のような文句だが、真実を突いていると思う。
精神がひん曲がっているから、ひん曲がりを矯正しようとして精神関係の本を読み始める。それが高じて、ある人は精神科医やカウンセラーになり、ある人は宗教家になり、ある人は残念ながら、精神の悩みに押し潰されて廃人となる。
現在私と話している男性は、その過程を経て精神科医を選択したのだろうか。
ぼんやりと考えているうちに、話は強引に腕に誘導されていった。
天ぷらの「て」から「手」、そして「そういえば、手の包帯はどうしたのですか?」と自由連想法のように訊いてくる。手ではなく正確には「腕」だが、素敵な手法なので見逃すことにする。
結局、昨夜の腕切りについて自白させられてしまった。紅葉の天ぷらはお気に召さなかったようだ。紅葉は眺めて楽しむのがいい。
説教と慰めの入り混じった話をたっぷり10分間も聞かされて、処方箋を渡されてようやく放免された頃には、ぐったりと疲れていた。一日の仕事を終えた後のような疲れ方だった。
外来を出て、裕也とともに階段を下りる。
カツカツカツカツ――パンプスの音が反響する。病院の廊下はなぜか靴音がよく響く。
刑務所では囚人が逃走した場合に備えて、共鳴する廊下が仕様になっていると聞いたことがある。都市伝説のひとつだろうと思う。
しかしその理屈は、そのまま病院に転化することができる。
仮に凶暴な精神病患者が逃走したとしても、これだけ靴音が響けば、精神病患者の位置を容易に把握することができる。囚人も精神病患者も扱いにくい存在であることに違いはない。
1階に併設された薬剤所の機械に処方箋を通し、数字の記載された紙片を受け取る。しばらく待っていると、専用テレビモニタに紙片の数字が映し出される。銀行と同じ方式だ。
窓口で紙片と引き換えに薬袋を受け取る。薬剤師による薬の説明を断り、薬代も支払わずにさっさと外に出る。裕也が払ってくれる訳ではもちろんない。現在の私はそういう身分なのだ。