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第1話

 カッターの刃先を左手首に突き立てて、力を込めて縦方向に滑らせると、皮膚がすーっと切れ、一瞬後、うっすらと血が滲み出してきた。私はその様子を、まるで他人事のように眺めていた。

 はっと気がつき、自分の行為を認識する。またやってしまった。

 するりと右手からカッターが抜け落ちて、フローリングの床の上で2、3度跳ね上がる。乾いた音を立てて室内を転がり、部屋の隅で止まる。

 薄暗い部屋の中、ぼんやりと手首の切れ目を眺めていた。

 滲みはやがて一本の線となり、みるみる血が溢れ出してくる。血は二の腕を流れるように伝い、やがて肘にまで到達すると、ぽたぽたと床に滴り落ちていく。

 真っ暗な部屋のカーテンの隙間から覗く月明かりが血を黒く染めている。

 救急箱からウェットティッシュを取り出し、傷口に沿わせて血を拭う。相当深く切ってしまったようで、血はなかなか止まらない。

 ドス黒く染まったウェットティッシュを手首から離すと、傷口があらわとなった。手首から内肘まで二の腕を横断するようにパックリと口を拡げている。奇妙な生物のようにも見えた。

 特大サイズの絆創膏を二重に貼り付け、その上から縛るように包帯を巻きつけていく。右手と口とを器用に使い、包帯を左手首にぐるぐる巻きつける。血はようやく止まった。

 中折れ式の携帯電話を親指で開け、リダイヤルする。スリーコールの後、相手は出た。

「また、やっちゃった」

 躊躇いがちにそう呟くと、受話器の向こうからは若干の戸惑いと、諦めの混じったような軽い溜め息が漏れ伝わってきた。

「今、家だな。すぐに行くから、そのままじっとしているんだ」

 うん、と小さく返事をして携帯の電源を切る。これで大丈夫だ。彼はすぐにきてくれる。

 ガラステーブルの上に携帯を置く。背の低い透明なガラステーブルの上には、円形の銀のペン立てと、その隣には青革の手帳が置かれている。

 青革の手帳を手にとり、右手で捲る。

 10月の欄を手繰り、チェックの入っている日を指折り数えていく。ひどい自己嫌悪に陥ってしまった。今月はまだ半ばを過ぎたところというのに、裕也にコールをしたのはすでに3回目だ。厄介な女と思われているだろう。携帯のディスプレイはデジタル表記で3:05と表示されていた。

 午前4時前、アパートの前に車が止まった。鉄階段を上る靴音、開錠音、やや荒っぽくドアが開く。

「紗枝、僕だ」

 玄関で靴を脱ぎ、声の主は手探りで壁際の電気スイッチを探っている。パッと明かりがついた。あまりの眩しさに、私は手で顔を覆った。

 指の隙間からそっと覗くと、ドアの前で佇んでいる高橋裕也の姿が見えた。濃紺のジーパンにV字のタートルネック、肩にはリュックを掛けている。階段を駆けてきたのか、息を弾ませている。彼の視線が手首の包帯に注がれていることに気付き、あわてて腰の後ろに両手を隠す。そして私は視線を床に落とす。

「傷、大丈夫か」

 裕也は心配そうに私の前まで来て、背中に隠した私の腕を掴み、引っ張り出す。蚕の繭のような左腕があらわれた。

「深さは?」

「ちょっと深い、と思う」

 裕也は私の手首から包帯を剥ぎ取り、特大の絆創膏をゆっくりとはがしていった。傷口が粘着剤で引っ張られて、熱い痛みを感じる。自分で切っているときは痛くないのに、不思議だ。

 剥き出しにされた傷口を覗き込むと、裕也は深い溜め息をついた。悲しそうな目で私を見つめてくる。

「これが、ちょっとか?」

 明るい部屋で改めて眺めた傷口は、予想外に深かった。手首から肘にかけて真一文字に筋の入った腕は、いっそ神秘的ですらある。

 裕也は傷口に消毒液を塗り、慣れた手つきで絆創膏と包帯を巻きつけていく。ここ数ヶ月で彼の治療術は格段に上達している。私が腕を切り、携帯でSOSを出すたびに彼は駆けつけ、治療をする。上手くなるのも当然だ。

 包帯の先を伸縮性の留め金で固定して、赤十字の救急箱を閉じると、応急処置は終了した。

「ありがとう。コーヒー飲む?」

 失言。裕也の非難じみた視線が突き刺さる。彼は片手で長い前髪をかきあげると、真正面から私を見据えて言った。

「いったい、どうしたんだ。何があった」

「わからない。気が付いたら、カッターで切ってた」

 嘘ではない。腕を切る瞬間は、薄靄に包まれたように現実感がなく、まるで夢の中の出来事のようであった。このような奇妙な感覚は今回に限ったことではない。腕を切る時、数回に1回は、ふっと意識が飛ぶようになる。

 実は夢ではないのだろうか? 腕を切った後、流れる血を見ながら何度そう思ったことだろう。というのも、私は刃物を握る夢を繰り返し何度も見ている。すべて同じ場面の夢だった。

 夢の中で私は、切っ先の細長い刃物を握っている。小刀だ。刃渡り15センチほどの小刀を持つ私の手は、べっとりと汗をかいており、刃先は小刻みに震えている。

 私は小刀を片手で握りながら、とても混乱しているようだった。なにか恐ろしいことが起きているようだが、それが何だかは判然としない。

 危険が目前にまで迫っている。私の内側から強い衝動が突き上げる。さあ決断の瞬間だ。

 小刀を振るえ! 

 本能の声に従い、握った小刀を力一杯突き刺した。ぐにゃりとした嫌な手応え。噴水のように激しく血が飛び散り、生温い血飛沫が勢いよく私の顔を叩きつける。私は激しい叫び声を上げた。

 絶叫とともに飛び起きる。

 はあはあと荒い息、心臓は激しく鼓動を打っている。きょろきょろと周囲を見渡し、そして自分の両手をまじまじと眺める。小刀を握ってない。ようやく夢であることを確信し、ほっと胸を撫で下ろす。しかし、手にはとても夢とは思えない、リアルな感覚が残っているのだった。

 私にとって夢と現実を隔てる皮膜は奇妙なほど薄く、そして曖昧だ。現実と夢とを取り違えるのは、さして珍しいことではない。

 

 裕也は部屋の隅のフローリングの床に落ちているカッターナイフを拾い上げ、親指で刃を引っ込めていく。チキチキチキチキ、不吉な擬音を響かせ細い刃が仕舞われていく。柄の部分だけになったカッターを、裕也はジーパンの尻ポケットに押し込めた。そして言う。

「今夜は泊まっていく。朝起きたら一緒に病院に行って、ちゃんと縫合してもらおう」

「ごめんなさい」

 何度謝罪をしてもしたりない。情けなくて涙がこぼれる。

 裕也は指で涙をぬぐい、そして抱き締めてくれた。このやさしさが、うれしくもあり怖くもある。裕也に見捨てられたら、はたしてひとりで生きていけるだろうか。想像するだけでパニックに陥ってしまう。

 精神科で処方された向精神薬を水で飲み下し、ベッドに横たわる。添い寝をしてくれている裕也の手をぎゅっと握り、目を瞑る。

 数分もそうしていると、やがて脳がじんわりと痺れたようになってきた。薬が効いてきたようだ。もっと効け、夢も現実も洗い流すほど強く。

 裕也の腕をしっかりと握りながら、不安定な眠りに落ちていった。

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