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「金の指輪も見えぬ。大した魔力も見当たらん。――いや、どちらも封じられているのか……故に赤竜も混乱したのだな。だが今、ないことには変わらん」
朗々とした黒竜の低い声は聞こえているが、口の動きと合っていない。しゃべっているというよりは、伝えているのかもしれないとジルは思い直した。
「我を見てもうろたえぬ、その度胸は認めよう。だが裁定には至らぬ」
「あなたが助けてくださったのですか」
「許しもなく問いかけるか。まあよい。答えは然り。赤竜の申し出により、ここへ転移させた」
ゲオルグの赤竜のことだ、と思った。赤竜は人間並みに賢いと座学で習ったから、炎は転移を誤魔化すために吐いたのかもしれない。
いずれにせよ、礼儀を尽くさねばなるまい。竜の流儀は座学でも習っていないが、ジルは立ち上がり、胸に手を当て、一礼する。
「助けてくださって感謝します。――失礼ですが、お名前は、黒竜殿」
「黒竜でよい。今のこの世界に黒竜は我しかおらぬも同然」
わざわざ名前をつけて区別する相手がいない、ということか。さみしい気がしたが、色は竜にとって階級を示す絶対のものだ。黒竜と呼ばれるのは竜神と呼ばれるのと同じくらい名誉なことなのかもしれない。
「わたしは、ジルと申します。竜妃です」
「裁定にも至らぬと言った」
ずしんともう一度地響きが鳴り、一歩前に出た黒竜の紫の目が物騒に細められる。
「不幸なことだな、娘。竜妃ではない以上、生きて返すわけにはいかん」
「助けておいて?」
「少し死ぬ時間がずれただけだろう。――ここは竜の巣、ただの人間が足を踏み入れていい場所ではない!」
瞠目した瞬間、口から青い炎が一直線に放たれた。地面をえぐって進んでくるそれを、足裏に魔力を集中させてよける。が、そのまま方向転換して今度は壁を削りながらジルを追いかけてきた。
「ちょっとくらい話を聞きません!? 陛下が大変なんです!」
「それがどうした」
「竜帝ですよ!?」
「ならばなぜ今代に金目の黒竜が生まれぬ! なぜ卵が孵らぬのだ!」
初耳の情報に、走りながらジルは眉をひそめた。だが、背後の岩が炎で蒸発していく真っ最中に詳細を問いただす余裕はない。
「しかもこんな小娘が竜妃だと? 竜妃とは竜帝を守る盾、女神の愛をくじく唯一の者! 力なき者にはつとまらぬ!」
背後に回ると尻尾がものすごい勢いと質量で飛んできた。間一髪でそれをかがんでよけ、ジルは岩陰のひとつに身を隠す。
(色々聞きたいことはあるがどうする、逃げるか? 魔力もなしに無理だ。そもそも魔力があってもここが竜の巣なら、まともに発動するかどうか……くそ、何かないのか)
岩陰に隠れたまま周囲を見渡す。見えるのは岩と、届かない水の天井。地面には申し訳程度に転がっている石、それと薄い硝子のような破片は――竜の鱗だろうか。ちょうど足で何かふれたジルは、視線を落とす。
鱗かと思ったが、違った。卵の破片だ。触れると、少ないながらも魔力が吸い取られていく。――使えるかもしれない。
「そもそも、お前は竜帝を守れておらぬではないか!」
反響する黒竜の非難に、目の前で倒れたハディスの姿が思い浮かんだ。
「赤竜から多少事情は伝わっている。なぜ、竜帝を止めた。敵の首を斬り落とし、竜帝と共に逃げる算段をつけるべきだった」
エリンツィアを殺そうとしたハディスを止めたことを間違っていたとは思わない。だが、黒竜の批判はもっともだった。
ジルはあの瞬間、命がけで助けにきてくれたハディスの行動を無駄にしたのだ。
「裏切り者に同情でもしたか。その甘さで竜帝を守れるなどと、どうして言える!」
「……」
「現に女神の力で魔力を封じられている。なんという竜妃にあるまじき失態! ラーヴェ様はどこまで甘いのか!」
「――待て。今、なんて言った?」
聞き捨てならない情報に、隠れていた岩陰から一歩出る。
斜めに振り返った黒竜が、こちらに向き直った。
「ラーヴェ様は甘い、と言っている。竜妃が女神を封じて死に、理に負けたあの日。神格を落とし、竜帝と分離したあのときから」
「そこじゃない、そこも大事そうだが今聞きたいのはその前だ。……わたしが、女神に、魔力を封じられている?」
「そうだ」
思わず肩をつかんだ。もう傷痕は消えているが、傷口から体の中に入りこんだ魔術はまだとけない。それだけの魔術を組めるのはクレイトス王国。
そこまでわかっていたのに、どうして偽天剣の素材に今の今まで気づかなかったのか。
「あれはまさか――……女神の聖槍から作ったのか」
「竜帝の魔力を封じるにはそれしかあるまい」
静かに答えた黒竜は、今度は攻撃ではなく問いかけをした。
「――何を笑っている? 気でも触れたか」
「敵ながらあっぱれだと思ったんだ。女神だというのに、自分の身を削るその献身に」
「女神の愛を解するとでもいうなら、やはりお前は竜妃失格だ」
危険物でも見たように、黒竜の殺気と警戒が増した。まっすぐ黒竜と向き合って、ジルは答える。
「陛下を助けにいく。そこをどけ」
「竜の巣に入った人間は生きて帰さぬ。そして弱き者には従わぬ。それが理だ」
「理だかなんだかしらないが、わたしは竜妃だ。陛下の妻だ!」
「戯れ言を! 竜妃だというなら、我程度、あしらってみせよ!」
もう一度、地面をえぐりながら一直線の青い炎がくる。今の魔力をすべて足に行き渡らせて、ジルは壁を走って蹴った。きらめく水の天井すれすれに宙返りをし、黒竜の頭上をとる。
「理、理と屁理屈ばかり! 諭すばかりで、陛下を、竜神を助けようと思わないのか!?」
「愛を語るか。所詮、女神の僕か、クレイトスの魔女!」
「だから女神に勝てないんだよ、お前たちは!」
右の手のひらを前に突き出して、まっすぐ伸ばしたその腕に、さきほど手にした竜の卵の破片を思い切り突き刺した。
そうすれば、狙いどおり、ジルの右拳に魔力が奔る。
「なんっ――」
「命がけで向かってくる女と、すまし顔で何もしない竜! どっちが勝つかなんて、理も愛もなくわかりきってるだろう!」
竜の卵の欠片は、魔力を無効化する。ならば当然、魔力を出そうとすれば発動する魔術も無効化しようとする。
ばりんと腕に突き刺した破片がわれた。だが、ジルの魔力が再度封じられるには時間差がある。一撃だけでいい。
(何頭、竜を拳でぶん殴ってきたと思ってる!)
「食材になりたくなければ黙ってわたしに従え、黒竜!」
見開いた両眼の真ん中、眉間を思い切り右拳で殴りつけた。手加減なしの全力全開だ。ぐらりとかしいだ黒竜の巨躯が、そのままうしろに倒れた。
よろけながら地面に着地したジルは、血が流れる右腕と、力の抜けた右の手を見る。何度か握ろうとするが、うまく力が入らない。
(ああもう……陛下が見たら泣くじゃないか)
早く助けにいかないと。
そう思ってふと気づいた。黒竜が昏倒している岩壁に穴がぽっかりあいている。まさか外への出口だろうか。奥に光がある気がする。
多少おぼつかない足取りで進むと、すぐに勘違いに気づいた。見えていたのは、外の光ではない。
――そこにあるのは、ジルと同じくらいの大きさの、金色に光る卵だった。