20
ぐったりした顔のジルを出迎えたのは、傾きかけた日を背に畑で収穫をしている夫だった。
ふらふらした足取りのジルに、ソテーまで気遣って道をよけてくれる。
「ただいま戻りました、陛下……」
「う、うん、おかえり。……ジークは?」
「持ち場が離れたので、別行動です」
畑に足を踏み入れたジルはそのまま倒れこむ勢いでハディスに抱きつく。ハディスは目をぱちぱちさせて受け止めてくれた。
お日様と土の、いいにおいがする。癒やされる香りを吸い込んで、吐き出した。
「へいか、すき……」
「……疲れてるんだな、わかった。おいしい夕飯を作るから」
ひょいっと抱きあげられたジルは、ぎゅうっとハディスの首に抱きつく。
エリンツィアに「見習いとはいえ小さな女の子を追いかけ回すな」と注意され、リステアードは渋々引き下がったが、座学の時間も常に一定の距離を保ったまま監視され続けた。ただ見られているだけだが、一挙一動から何か暴こうとするあの視線にひたすら疲れた。周囲からはひそひそ噂話をされるし当然のようにさけられるし、もう散々だ。帰りもつけられた。なんとかまいたが、明日からのことなど考えたくない。助けを求めてもジークは目をそらすし。
「今日のジークのご飯、陛下は作らなくていいですからね。わたしがもぎとったキャベツをそのまま出してやります……」
「? それならそれでいいけど。ほら、ジル」
唇に甘酸っぱい苺を押し当てられた。おいしい。
「へいか、もういっこ……」
「なんだ、今日は甘えただな?」
ぐったりハディスの首元に頭をあずけながら、畑から収穫される苺をもぐもぐ食べ続けて、ようやく気力が回復してきた。ゆっくり目を開いて、嘆息する。
「ほんと、今日は早く陛下のところに帰りたかったです」
「……そ、そういう不意打ちは、もう簡単にはきかないぞ? さすがに僕だって、慣れてきてるんだ。……そ、それに? ぼ、僕だってその、君に、あ、あい、会いた……」
「疲れると好きな人に会いたくなるってほんとなんですね」
しみじみ言っただけなのに、ハディスが心臓を押さえてよろめいた。
「大丈夫……慣れてきた、慣れて……きたっ……」
「……。魔力戻ってたら倒れてそうですよ、陛下」
「そんなことは……ある、かもしれないが」
視線をさまよわせるハディスの腕から、ジルは地面に飛び降りる。そして畑の畝に置かれたままの籠を取った。
「手伝います、わたし。そういえばカミラは?」
「はーい、いるわよここに。いちゃいちゃする前に気づいて、ジルちゃん」
家の軒先、畑を見渡せる位置にある木箱の上に座ったカミラが、胡乱に声をあげた。ジルがまばたく。
「ごめんなさい、気づきませんでした。陛下のことしか見えてなくて」
「ぅぐっ……!」
「陛下、頑張って踏みとどまって。ジルちゃんは陛下に突然襲いかかるのやめたげて」
「見つけたぞ、ハディス!!」
突如として響き渡った声に、ソテーが鳴き声をあげて逃げていく。カミラが矢をつがえ、ジルはハディスの前に躍り出て、低くつぶやいた。
「陛下、逃げる準備を」
「……いや。この声……」
ハディスの言葉を、がさっと動いた茂みが遮る。矢を放とうとしたカミラを、ハディスが片手で制した。
「陛下?」
「どこに隠れているかと思えば、こんな場所にいた、とは――……」
勢いよく足を踏み出して出てきた人物に、ジルは思わず声をあげてしまう。
「リステアード殿下!?」
まいたつもりだったが、諦めずに追いかけてきたらしい。だが、勢い込んできたわりにはリステアードはぽかんと口をあけて、その場から動かなかった。
「……何をしてるんだ、お前」
間の抜けた問いに、ハディスが真顔でさらに間の抜けた返しをする。
「野菜の収穫」
「……」
珍獣を見るような眼差しで、リステアードがハディスの格好を上から下まで見ていた。信じたくないという顔に、ジルは気の毒になってくる。
(わたしはもう見慣れちゃったけどな、陛下のエプロン姿……)
だが、忘れてはいけなかったのかもしれない。
彼はこのラーヴェ帝国の皇帝である、ということを。
顔面蒼白になったリステアードが顔を覆って、あえぐように呼吸を繰り返す。
「やさっ……やさ、いの……我が国の、皇帝、が……このっ……非常時、に……」
「えっと。……君もどう?」
おずおずと問いかけたハディスに、ぶちんとリステアードの血管が切れる音が響く。
「大概にしろこの馬鹿!! 反旗を翻す準備をしているとばかり思っていたのに、こんな」
「こんなって。ひとは食べ物がないと生きていけないのに」
「それ以前の問題だ! いいからこい、姉上のところに行くぞ!」
「え、嫌だ」
「嫌だ!? そんなことが許されるわけがないだろう!」
「ただいまーって……なんだなんだ。なんの騒ぎだ? っておい、あれ……」
とりあえず並んでハディスとリステアードの諍いを眺めていたジルとカミラのもとへ、ジークが目をぱちぱちさせながらやってくる。ジルはほんの少し目を細めて答えた。
「陛下のお迎えです。わたしがつけられちゃったみたいで……油断しました」
「……。ジルちゃん、あなたまさかわざとまかなかったの?」
「わざとじゃないです。でも、いずれ誰かに見つかるなら、あのひとがいいんじゃないかとは思ってました」
だから足が鈍ったのだろうと、ジルは苦笑する。
「皇子様なのに、兵も連れず、たったひとりで陛下をさがしてたんです。陛下の敵ではないと思います」
ジークは難しい顔で、嘆息する。
「……まあ、いつまでもこのままってわけにもいかんだろうしな」
「でも、ちょっとさみしいですね。わたし、仕事に行ってる間、陛下がおうちで待っててくれるの、嬉しかったので」
「ジルちゃん……」
「嫌だーーーーーーーーーーーーー!」
ハディスの絶叫がジルの感傷を切り裂いていった。
「僕は絶対、行かない! ここで毎日ご飯作ってお嫁さんの帰りを待つんだ! 普通の男の子になるんだ!」
「なぁにが普通の男の子だ、そんなものになれるわけがないだろう、この馬鹿が!」
「なんと言われても嫌だ、大体、帝都追い出したのはそっちじゃないか! まあ、どうしてもって言うなら戻ってもいいけど」
「追放された分際でえらそうに言えた立場か!? お前のそういうところが心底僕は気に食わない!」
「なら帰れ。どうしてもって言うなら、ここを帝都にする。僕が皇帝なんだから問題ない」
「ふざけるな!!」
「……お別れできるのか、この生活から?」
「まずは陛下を説得しなきゃねぇ」
ジークとカミラのしみじみとした感想に、ジルはがっくりと肩を落とす。そして夫を説得するために、足を踏み出した。