13
しょんぼりして帰ってきたジルを出迎えたのは、甘酸っぱいにおいだった。ハディスが苺のジャムを鍋で煮詰めているのだ。
「あれ、早かったね。おかえり――ジル?」
鍋をかける火を止め、エプロンを着たハディスが首をかしげる。ジルがぶかぶかの軍服の上着だけを着ているからだろう。
戸口に立ったまま、ジルは唇を引き結んだ。今はハディスの顔が見られない。
「ただいま、帰りました……ちょっと騒ぎがあって、怪我をして。部屋で休みます」
「怪我? 見習いの実戦投入はまだ先だろう。まさか、訓練で君が怪我を?」
「かすり傷ですから、心配しないでください。手当てもしてもらったので」
ハディスの横をすり抜け、奥の部屋に入る。少しひとりになりたかった。ハディスと共用なうえ鍵もないので、無理かもしれないが、ちゃんと扉は閉めた。
背負った鞄を小さな木の丸テーブルに置き、ぼすんと固い寝台に身を投げ出す。埃は立たず、お日様のにおいがした。毎日ハディスが掃除をしてくれているからだ。
(わたし、役立たずだ)
不意にそんな弱音がこみあげてきて、そばにあるハディスぐまを急いで抱きしめた。
魔力を封じられただけでなく、ハディスにかばわれハディスの魔力まで奪った。竜騎士団に入って情報収集をはかろうとしたら、よりによって竜に敵意を向けられた。ローザはすぐにおとなしくなったが、敵意を向けたのはジルだけらしい。紫目の赤竜が敵視するのだ。他の竜からも敵視されている可能性が高い。
まだ何も言われていないが、竜に敵意を向けられる人間が竜騎士にはなれないだろう。竜騎士団にいられなくなってしまうかもしれない。そうしたら情報収集の手段は現状、なくなってしまう。
(魔力を封じられてても竜にはわかるってことか。でもわたし、竜妃なのにな……)
ふとジルの目に、左手が映る。その薬指に金色の指輪は光っていない。ラーヴェが見えなくなったのと同時に、見えなくなった。
(……魔力がないと、本当に少しも、陛下の役に立てない……)
ハディスがジルに望んだ条件は、十四歳未満、魔力の高い女の子。――幼女趣味疑惑を抱くだけだった条件が、今は別の意味で怖い。
こういうときは眠ってしまおう。そうすればまた元気になる。
魔力のない自分なんてハディスの足手まといなのでは、なんて思わなくなる。
「ジル、あけるよ」
扉が開く音が聞こえた。寝たふりをしてしまおうと、ジルはそのまま息を殺す。
「ジークから聞いた。……竜に、怪我をさせられたって」
静かに近づいてきたハディスはジルの狸寝入りなどそもそも気づいていないようで、寝台の脇に腰をおろす。
「今、ラーヴェと話し合って――うるさいな、話し合いだよ。ちゃんと僕は選択肢を与えてるじゃないか」
竜神に相談するなんて、ずるみたいだ。そんなふうに思ってしまうから、寝たふりをするに限る。
「しかも僕が選ぶんじゃない、選ぶのはジルだ。そういうわけで、ジル。つらいかもしれないけど聞いてほしい」
寝たふりだ、寝たふり。そう言い聞かせてジルはだんまりを決め込む。
「焼くか煮込むか蒸すか炙るかどれがいい?」
「なんの選択肢ですかそれ!?」
飛び起きたジルに、ハディスが薄く笑った。
「何って。君を傷つけた身の程知らずの赤竜の――うるさいラーヴェ、もう殺す絶対殺す必ず殺す、これは竜帝の決定だ。選べるのは調理方法と味付けだけだ」
「待ってください、竜って食べられるんですか!? いえ、食べていいんですか!?」
「いいに決まって――うるさいって言ってるだろうラーヴェ! 竜だって肉はついてる、だったら食べられるはずだ! ジルに傷をつけたんだぞ、おいしい一品料理になる以外、今生に救いなどない!」
そんな救いがあるか、というラーヴェの叫びが聞こえた気がして、ジルも慌てる。
「陛下! わ、わたし平気です! かすり傷だし、ちょっとびっくりしただけで!」
「だってジークがお弁当も食べなかったって言ってた! 全部その竜のせいじゃないか、僕の愛情たっぷりのお弁当! デザートまでついてるのに――黙れ僕は竜よりジルのほうが大事で可愛い! は? 竜帝に死ねって思われたら竜は死ぬかも? どうせお前が僕から竜をかばうんだろう、だったら僕はジルをかばうぞ!」
「わたしは大丈夫ですから、落ち着いてください陛下。ラーヴェ様と喧嘩はしないで」
「ジルは僕が選んだお嫁さんだ、文句は言わせない! たとえお前でもだラーヴェ!」
どこで口を挟んだものかうかがっていたジルの頭が、一瞬真っ白になった。そのあとで羞恥がこみあげてくる。
(ああもう、自分が単純で嫌だ)
ハディス本人は自分が何を口走ったのかわかっていないらしく、ラーヴェとの言い争いに夢中になっている。
「竜妃の試練とかそんなもの知るか! 要は姑か舅だろうが、僕のお嫁さんをいじめるなら食材だ! 不満なら僕以外の器をさがしてみたらどうだ、この太めの蛇もどき――」
抱きつくと、何やらラーヴェと罵倒し合っていたハディスが止まった。両腕を広げて体当たりする勢いだったのに、びくともしない。魔力がなくて力がないせいだ。
でも今は力一杯抱きついても受け止めてくれる、この大きな体と力が頼もしかった。
「陛下」
「う、うん。何、ジル?」
「好き!」
顔をあげてまっすぐ目を見て訴える。
しばしの沈黙ののち、ぼんっとハディスの頭のてっぺんから湯気が出た。
「な、なに、なんで突然!?」
「大丈夫です、わたし! 仲良くはできなくても、殴ることはできます!」
何を弱気になっていたのだろうと、拳を振りあげてから、飛び降りた。
(人生やり直してるからって、全部うまくいくわけじゃない。当然だ。驕るな、わたし)
やるべきことを見失ってはいけない。ジルの目的は竜妃になることではない。
ハディスをしあわせにすることだ。竜妃の地位なんてその手段でしかない。
「竜騎士団をクビにならないよう、もうちょっと粘ってみますね。あ、おなかすいてきた。お弁当いただきます! 今日の晩ご飯はなんですか?」
「え……と、野菜とひき肉を詰めたパイ……」
「ほんとですか! 楽しみにしてますね」
「け、怪我は?」
「平気です。元気になりました! 陛下のおかげです」
両腕を持ちあげて握りこぶしを作ってみせると、ハディスが赤い顔のまま目線をうろうろ泳がせた。
「そ、そう? ならいいけど……あの、でも、さっきの」
「竜に関してならもう大丈夫ですよ。ひとつ、目標を決めました」
寝台の上に座っているハディスをジルは見あげる。黒い髪に、金色の綺麗な目。ジルの夫は世界中に見せびらかしたいほど美しい。
「金目の、黒竜がほしいです」
ハディスは顎に指を当てて、生真面目に考え出した。
「金目の黒竜か。僕もまだ見たことがないからな……どこにいる、ラーヴェ? 教えないって……食材は勘弁してやるから教え――そもそもなんで欲しいんだって、ラーヴェが」
「だって陛下と同じ色ですよ! 乗りたい!」
身を乗り出したジルを見おろすハディスの目には、ジルしか映っていない。
いつだってジルはそれが嬉しい。
「だから頑張ります。応援してくださいね、陛下!」
そうと決まれば落ちこんでなどいられない。素振りでもしながら、今後のことを考えよう。
お弁当を持ち直して、ジルは軽い足取りで寝室を出て行く。
寝台にひとり取り残されたハディスは、ジルの背中を呆然と見送った。
元気になったなら何よりだ、そう思うのだが。
「……僕と同じって。乗りたいって」
ばたんと寝台に倒れたハディスは真っ赤になった顔を両手で隠して悶える。
「……わかってるラーヴェ、そういう意味じゃないってわかってる! 笑うな、変な想像もしてないほんとに竜を食材にするぞ! ああもう、だめだ……竜って情緒がなさすぎる……」
頭の中でぎゃあぎゃあラーヴェが何か言っているが、心臓が落ち着くよう深呼吸しながらハディスは目を閉じる。
(だっておかしいだろう。竜妃だからそう簡単に竜が認めないとはいっても、あんな素敵な竜妃にときめかずにいられるなんて――ああでもよかった)
いつだって彼女は自分を失望させない。
喉の奥を鳴らして笑ったハディスは、金目の黒竜にのって空を翔るジルを夢想し、その凜々しさに思わず咽せた。