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「……ラーヴェ、笑ってないで出てこい……!」
かっと金色の両眼を見開いたハディスの肩の辺りから魔力のもやが立ちのぼった。
思わず身構えたジルの前で、白銀の魔力が白く輝く生き物へと形をとりはじめる。
(……竜……いや、蛇?)
正確には翼の生えた蛇、だろうか。不思議な形の生き物だった。
だが静かに開かれた金色の瞳が、白銀に輝く鱗が、しなやかな肢体が、溢れ出る魔力が、すべての者に膝をつかせるほど神々しいそれが――げらげらと笑い出した。
「ぎゃははははは! だから言っただろーこんな都合のいい話あり得ねぇって。それをお前は浮かれて真に受けて、この恋愛知能ゼロ皇帝が――ふぎゃっ!?」
ハディスは、神っぽかった生き物をべしっと床に投げ捨て椅子から立ちあがり、腰の剣を抜いて振りかざす。
「今日の夕食は焼き竜神の串刺しだ」
「おまっもう少し労れよ! 国境こえてやっと出てこれたっつうのに」
「言い残す言葉はそれだけだな?」
「あーうん、お前は頑張ったよ。紫水晶とかな、一生懸命考えたよな!」
ハディスは真っ赤になって、蛇のような動きで逃げ回る生き物を剣で突き刺そうとする。
「お前が口説けと言ったから……! 確実に逃がさないためには必要だと!」
「いやーでも悪くはなかっただろ、なあ嬢ちゃん。こいつ顔だけは絶品だし」
神々しさなど欠片もない光景に呆然としている間に、串刺しから逃げ回っていた生き物がするするとジルの足元からのぼってきた。ちょうど肩のあたりにちょこんとのって、ジルをじいっと見つめる。
「俺が聞こえてるし見えてるよな? たいしたもんだ、驚きもしねぇ。肝が据わってんなあ」
「じゅ、十分、驚いてますが……」
「謙遜するなって。ふつー悲鳴とかあげるだろ。脅えるとか、気絶するとか」
「……僕のあの圧に耐えられるんだ、これくらい当然だろう。何よりこれだけ魔力を持っていたらこんな怪奇現象くらい、日常茶飯事に違いない」
ジルが間に入ったことで冷静になったのか、ハディスが剣をおさめる。
「怪奇現象!? 竜神を怪奇現象扱いかよ!? これだから最近の人間は」
「あの、竜神なんですか。……竜神ラーヴェ?」
また騒ぎが起こる前に、思い切って聞いてみた。ハディスがふっと嘲笑する。
「どう見ても蛇だが、そうらしいよ」
「誰が蛇だ、俺は竜だ! 竜神ラーヴェ様だ!」
そう言われても、翼のはえた蛇にしか見えない。
(お、おとぎ話じゃなかったのか……あの伝説……)
ここプラティ大陸の成り立ちは、愛と大地の女神クレイトスと、理と天空の竜神ラーヴェの戦いから語られる。その神の力をわけ与えられた眷属が、クレイトス王族とラーヴェ皇族だと言われているのだ。神話から建国まで、人間を巻きこんで千年に及ぶ争いを、それぞれの国の子ども達は聞いて育つ。
クレイトス王国は女神の加護として魔術大国の側面を持ち、大半の国民が大なり小なり魔力を持つのが当然で、強い魔力を持つ者もよく誕生する。一方、ラーヴェ帝国は魔力の強い者よりも竜が生まれる。他にも大地の実りの差異など細かい違いがあるので、ジルも神の存在をまるっきり嘘だと思っていたわけではない。
だが建国から千年、まさかまだ神が存在するとは思わなかった。
ジルの鎖骨周りをぐるりとまわり、ラーヴェが頭の上にのる。
「俺が見えて、しゃべれる。んー条件はぴったりなんだよなー。年齢は……ハディス、お前十九だっけ。このお嬢ちゃんは?」
「十歳だそうだ。九歳差だから、珍しくもない。常識の範囲内だ」
「はい!?」
思わず叫んだジルに、両腕を組んだハディスが振り返って眉をひそめた。
「常識だろう。僕の母は十六の時、四十の父と娶せられた」
「で、でもわたしはまだ十歳でして……お、お世継ぎの問題とか!」
「……世継ぎ」
口の中で繰り返して思案したハディスが、いきなりかっと頬を赤く染めた。
「ま、まだ出会ったばかりで……た、確かに大事な話だがそんな、昼間から……!」
うろうろ視線を泳がせている姿がひたすら初々しい。
さながら初めて閨に引きずり込まれた乙女のような反応に、ジルのほうが死にたくなってきた。
「き、君はまだ幼い。大人ぶらなくていいんだ。もっと話をしたり一緒にお茶を飲んだり、手紙のやり取りをしたりお互いをわかりあう時間を取ってからだ、そういうことは……!」
「……あの、失礼ですが外見と中身が合ってなさすぎませんか……どうしてそんな育ち方をしてしまったんですか」
「うーん。やっぱ本を読ませただけだと偏るなー」
ラーヴェを見ると、てへっと舌を出された。製造物責任者は竜神だ。
頭を抱えたくなっていると、ふとハディスの視線が落ちた。
「外見と中身が違う、か……つまり僕は、君の期待外れだった、ということだろうか」
「え」
「……本当に、求婚は嘘だったんだな」
それは良心に突き刺さる、悲哀に満ちた声だった。
だがほだされるわけにもいかない。ジルはおそるおそる言い返す。
「むしろ本気にしてはいけないことでは……?」
「そうだな……いや、わかっていた。十四歳未満で、尋常ではない魔力を持っていて、僕みたいな呪われた皇帝を好いてくれる女の子なんて、そう都合よく現れるはずがない……そうか、僕はだまされたのか……なんて間抜けな皇帝だ……」
哀愁を帯びた睫が震え、翳りを帯びる。金色の瞳からは今にも涙が溢れそうだ。
ものすごい罪悪感がこみあげてきた。あーあとラーヴェがジルの頭の上でつぶやく。
「落ち込ませた。軽々しくこいつに求婚なんてするからだぞ、お嬢ちゃん。責任とれよー」
「わ、わたしのせいでしょうか!?」
「そうに決まってんだろ。こいつは馬鹿だから弱いんだよ、心も体も」
「ラーヴェ、彼女を責めるな。悪いのは僕だ。確かに、十歳の子どもの求婚を真に受けるなんて愚かだった。どんなに強がってみたところで、僕にそんなしあわせがやってくるはずがないんだ……」
テーブルに手をついて、ハディスが憂いに染まった金色の瞳で自嘲する。
「浮かれてしまったんだ。一生かけてしあわせにするなんて言われたのは、初めてで」
言った。確かに言った。
「いや……いいんだ、ひとときのいい夢を見させてもらった。そう思えば」
「……その……わたしこそ、子どもだからと甘えて軽率なことをしてしまい……」
「この借りはいずれなんらかの形で返そう。君の名前は忘れない」
やや焦点のあっていない目でハディスが微笑む。
「サーヴェル辺境領だな。……決して、忘れない。決してだ」
「それはどういう意味ですか!?」
「今なら大事にはならないだろう。君はちゃんと、クレイトスに帰すよ」
金色の瞳が物騒に光って見えるのは、絶対に気のせいではない。このままでは故郷がラーヴェ皇帝に目をつけられてしまう。しかも、肝心なことを思い出した。
ここでそうですかと戻ったら、待っているのはジェラルドだ。
「でも本当に、嬉しかった」
はっと顔をあげた。ハディスは驚くほど澄んだ瞳で微笑む。
「ありがとう」
――ジルが求婚に頷いたとき、ジェラルドはこんなに喜んでくれただろうか。
そしてこれから先、こんなに喜んでくれるひとがいるだろうか。
(せ、責任は取ると決意して求婚したんだろう、ジル・サーヴェル……!)
どんなに言い訳しても、自分は裏切れない。何より自分が利用するために求婚し、いらなくなったら捨てる――それは、自分がジェラルドにされたことと同じではないか。
この皇帝は悪くない。たぶん、悪くない。きっと、悪くない。おそらく、悪くない。
――ひとり残らず殺せ。
(ろ、六年後の話だ……! 今はまだまともに見えるし、時間はある。そう、愛は戦争というじゃないか。幼女趣味だの闇落ちだの、だからどうした。どこかのシスコンと違ってまだ疑惑だ。わたし自ら今から更生作戦を立てて攻略すればいい、ような、気が、しないでも、ないような……!)
「残りのケーキはお土産に持って帰るといい」
よし、いい男だ。
「前言撤回します! わたしでよければ結婚してください、皇帝陛下」
がしゃんとハディスが持っていたカップを落とした。