3
なだらかな平原が海から流れ込む川で一度途切れ、今度は急な斜面に変わる。高木が並ぶ森が少しずつ消えていき、雲が流れる緑の残る高原が現れた。
高度のせいだろうか。空気が変わった。クレイトス王国の王都にも感じた、静謐さと神聖さだ。神の加護を一身に受けているような。
やがて、雲が霧のように晴れて、天の頂に広がる都市が見えた。
「あれが、帝都ラーエルム……」
ラーヴェ帝国の中枢。ラーヴェ帝国の最北部に位置するその都市は、高度もあって、空気が少し冷たい。
だが、青空にそびえ立つ帝都は、天空都市と呼ばれるにふさわしい威厳を兼ね備えていた。
雲が流れる高原と都市を仕切る城壁は断崖絶壁まで続いており、竜でも使わなければとても跳び越えられない高さだ。
その壁の向こう、斜め上から見おろす街並みは、整然として美しかった。白い歩道に中央に向かっていくつも伸びる階段。色鮮やかな屋根と煙突から、煙がいくつもあがっている。街の真ん中には、鐘楼がついた時計台がある。そのうしろ、さらに高い位置には、三つの尖塔を持つ白亜の城は天高く鎮座していた。
「あれが、……陛下のお城ですか」
「うん」
城壁へ向かう高原の道と平行に飛びながら、ハディスが頷く。その声は緊張しているようにも聞こえた。
そう、少なくとも今、あの街も城もハディスにとって居心地のいい家ではない。戦場だ。
ぎゅっとジルは、竜を操る綱を握るハディスの手に、手を重ねる。何も言わず、ハディスがジルの小さな手にさらに手を重ねる――そのときだった。
「!? 陛下、城壁の上……魔術障壁じゃないですか!?」
「ジル、口をとじて!」
クレイトスの城壁にもかけてある仕掛けだ。外壁の敵を討つためのものである。
城壁の上に幾何学模様をにじませた透明な壁が浮かびあがり、そのまま一直線に光線がいくつも放たれた。姿勢を低くした竜が、凝縮した魔力の熱線を紙一重でかわし、上空に旋回しながらよけて逃げる。
「何だ、なんで攻撃されてるんだ!?」
「ラーヴェ、そのふたりと竜を安全なところへ! 狙いは僕だ!」
「なんでよ、陛下ってばそんなんでも皇帝でしょ!?」
「陛下、わたし行きます! 陛下もジークたちと安全なところへ!」
「ジル!」
ハディスが慌てる声が聞こえたが、逃げ回っても埒があかない。鞍を蹴ったジルは、飛んでくる光線をよけて障壁へ向かってまっすぐ飛ぶ。ハディスの言うとおり、狙いはハディスらしい。正確にはハディスの乗っている竜だろうか。
(帝都から迎えによこされた竜ってそういうことか!)
敵だと識別する印でもしかけてあるのだろう。あの障壁から放たれる光線は、自動でハディスの乗る竜を狙っている。その証拠に、まっすぐ向かってくるジルには攻撃してこない。
腰にさげておいた長剣を抜き、その切っ先に魔力を集中させて、障壁に突き刺す。手応えがあった。ふやけるように、障壁がほどかれていく。
ほっとしたその瞬間、ざわっと背筋が粟立った。上だ。
「ジル!」
よけようとしたが、一歩遅かった。ふせごうとした長剣がなぎ払われ、右腕に熱と鋭い痛みが走る。その一瞬で、相手との力量を悟った――正確には、武器の力量と、そこにしかけられた罠を。
「陛下! だめです、魔力封じの武器です!」
そのままジルの右腕を切り落とそうとしたその剣を、間に割りこんだハディスが天剣で受け止める。だが勢いを受け流せず、ジルをかばうように抱いて体勢を崩したハディスの背中に、一撃が振り下ろされた。
「陛下!」
叫んだときには、ハディスごと地面に叩きつけられていた。
横向きに体が滑り、地面をえぐる。やっと止まってからジルは目を開いた。衝撃はあったが、痛みも怪我もなかった――ジルを抱きこんで、ハディスがかばってくれたのだ。
「陛下、陛下……! 大丈夫、ですか」
右腕は傷んだが、出血はないようだ。急いで起き上がったジルは息を呑んだ。
ハディスは肩から肩甲骨までざっくりと斬られていた。ジルの右腕と同じく、魔力で焼き切られているのか、血は流れていない。だが、地面に落ちたときに頭を打ったのか、起き上がったハディスのこめかみに一筋、血が流れた。
「陛下。わたしを、かばって」
「大した怪我じゃない。……ラーヴェ」
『わかってる』
天剣に転身した竜神ラーヴェの声が固い。だがそれ以上に、その天剣が薄くすけていくことに、ジルは慌てた。
「陛下、ラーヴェ様が……」
「よけたか。しかも、まだ魔力が使えるとは」
低い、しゃがれた声が上空から吐き捨てられた。
「この剣でもまだ魔力を封じきれぬとは、化け物め」
地面に落ちたハディスとジルを見おろしているのは、たったひとりだった。
年齢は五十すぎだろうか。白髪が交じった髪と髭が年齢を感じさせるが、伸びた姿勢と立派な体格はまだ十分に若々しい。
そして風になびくマントは、ラーヴェ皇族以外には許されない深紅だった。
「……叔父上」
ジルを片腕に抱いて、膝をついたまま、ハディスがつぶやく。素早くジルは記憶の片隅から情報を引っ張り出した。
(前皇帝の弟、ゲオルグ・テオス・ラーヴェ!)
ジルが知る歴史どおりならば、ハディスの治世に真っ先に反旗を翻した人物。ラーデルという特別な領地を治めていた彼は、ハディスの手で焼き払われたベイルブルグの惨状を糾弾し、ベイル侯爵家への苛烈な粛清に脅える諸侯をとりまとめ、ハディスを偽帝だと断じて挙兵する。
のちに、ラーデル公の偽帝争乱と呼ばれたラーヴェ帝国の内紛――。
(でも挙兵はもっと先のはずだし、今の陛下はベイルブルグを救った! ベイル侯爵家への粛清もない。陛下を糾弾する理由は表立ってはないはずなのに――)
「そのまま帰ってこず、姿を消せば、見逃すことも考えてやったものを」
「……叔父上、その剣は?」
「天剣だ。本物のな」
片頬をあげて答えたゲオルグにハディスは眉ひとつ動かさなかった。
「お前の持っているそれは、偽物だ。そうだろう?」
「……」
「お前が竜帝だといわれ、皇帝の地位にいられるのは、天剣があるからだ。それも、お前がたくらんだ皇太子の連続死に脅えた兄上が、偽物を本物だと勝手に思い込んだからだろう」
「陛下は本物の竜帝で、この天剣はまぎれもなく――っ」
立ちあがろうとしたジルを、ハディスがゲオルグから隠すように抱きこむ。そしてささやいた。
「逃げるぞ、ラーヴェ。まだいけるな」
『一回なら』
「逃げるって、陛下」
「傷から魔力封じの魔術が侵蝕してきている。君もだろう。このままだと、ふたりとも魔力が使えなくなる」
ジルは指先まで魔力を集中させてみる。だがハディスの指摘通り、いつものような力が入らない。
「転移はあと一回が限界だ。しかも大した距離は飛べない。でも今なら、護衛のふたりも荷物もあわせて転移させられる。戦うよりも逃げることに残りの魔力を使うべきだ」
そう言ってハディスが右手に持った天剣に目を落とす。それを見たジルは、頷き返した。
魔力の高い人間にのみ見えるラーヴェの姿。だが転身し、天剣の姿をとれば誰にだって見えるはずなのに――その神器が、薄く薄く消えかかっている。
ハディスの内にある、魔力が封じられていくせいだ。
「既にふれを出した。お前は偽帝。ラーヴェ皇帝を騙る、まがい物だ。断じて、竜帝などではない!」
ゲオルグが手を挙げる。それが合図に、城壁の向こうから竜騎士が、あいた城門から軍旗を掲げた軍が雪崩を打ったように出てきた。
再び城壁の上の魔術障壁が光り出す。自動修復機能があるらしい。それらが放った一斉攻撃を、ハディスが半分消えた天剣でなぎ払う。
まとめて吹き飛ばされたゲオルグが舌打ちし、剣をかまえる。
「まだ魔力が使えるのか! だがもう長くはもつまい」
「ジル、つかまって」
「はい!」
「ラーヴェ!」
叫んだハディスに答えるように、ジルとハディスの体が一瞬浮く。同時に、どこか魔力の渦に呑みこまれるように体が引っ張られる。
ハディスの魔力が不安定なせいだろうか。ぐるぐると悪酔いしそうな揺さぶりをかけられて、気持ち悪い。それでも必死にハディスにつかまって、耐える。
『嬢ちゃん、俺はしばらく動けない』
ラーヴェの声が聞こえたが、歯を食いしばったままでは何も答えられない。
『ハディスを頼む』
竜神の声がそれきり、遠くなっていく。
はっと目を開くとそこは、夕暮れ間近の静かな森の中。
ところどころ崩れた石垣にかこまれ、うらぶれた一軒家の前に、ジル達は倒れていた。