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手を振るスフィアが、城門から敬礼を返す近衛兵のミハリたちが、一ヶ月ほどすごしたベイルブルグの城が、小さくなっていく。
ベイルブルグの海が、きらきら青く輝いて見えた。方向転換のために旋回すると、街から歓声と花吹雪が舞いあがる。軍港の城壁からは隊長に任命されたヒューゴたち北方師団が、雑な敬礼をしていた。
皆、女神の襲撃からベイルブルグを守ったジルとハディスを見送ってくれているのだ。
「守れてよかったですね、陛下」
「うん」
同じものを見ているハディスの答えは短い。でも、その目がジルがくすぐったくなるほど優しく細められていた。ハディスの肩にいるラーヴェも誇らしげだ。
だが照れくさいのか、すぐにふんとそっぽを向いた。
「これからだろ。さあ、我らが帝都、天空都市ラーエルムへご帰還だ!」
ハディスが手綱をとると、ぐん、と高度が増した。きゃあっとジルが歓声をあげる背後で、ぎゃあああとカミラとジークの悲鳴があがる。
「何!? まだ高くなるの、いやあああああ死ぬ、いやー!」
「叫ぶな暴れるな、うるせー!」
「あの、カミラとジークは……」
「大丈夫だ、ちゃんと竜は僕の言うことを聞く。鞍にくくりつけといたし、落ちても竜が拾いにいくよ」
「竜って賢いんですね!」
感動するジルのうしろから「落ちるってなんだ!?」とか「気絶したいぃ」とか色々聞こえるが、ハディスも竜も無視だ。竜の調子が出てきたのか機嫌がよくなったのか、どんどん速度があがり、山も川もあっという間に越えていく。
「すごいすごい、陛下! 速いです、すぐ着いちゃうんじゃないですか!?」
「さすがにそれは無理だよ。竜だって何時間も飛べるわけじゃない。ベイルブルグからラーエルムまで、ラーヴェ帝国を東西に横断するようなものだから、慣れていても二日はかかる。うしろのふたりのこともあるし、休憩を入れて三日ってところかな」
「三日も乗れるなんて嬉しいです!」
「だって。じゃあサービスしないとな?」
いたずらっぽく笑ったハディスの意をくんだのか、突然雲の中をつっきった竜がぐるんと一回転した。夢みたいだ。歓声をあげて、ジルははしゃぐ。
「楽しい?」
「すごく! それに竜に乗ってる陛下、すごくかっこいいです!」
間近にいるハディスは、かつて敵として相見えたどの竜騎士よりも、見事な綱さばきで竜を操っている。興奮のまま素直に告げたジルに、ハディスのほうが顔を赤くして視線を泳がせる。
「そ、そう?」
「はい! ずっとこうしてたいくらい! ――あ、でも陛下、無理しちゃだめですよ」
竜神ラーヴェの生まれ変わり、器だというハディスは、その身に宿す魔力が強すぎて体が弱い。ついでに心も弱い。
ちょっとしたことで動悸息切れを起こすし、油断するとすぐ倒れるのだ。それを知っているジルは、ハディスの顔色を確かめるように上を見る。
するとジルの髪に顔を埋めるようにして、ハディスが背後から抱きついてきた。
「大丈夫。喜んでる君を見ると、元気をもらえるから」
「そ、そうですか?」
「うん」
風も何もかも心地いいはずなのに、居心地が悪くなってジルは身じろぎする。
なお、うしろから悲鳴は聞こえなくなっていたので、気絶したのだろう。実際、休憩で地上におりたったとき、ジークとカミラはふたりそろって鞍の上でのびていた。
きゃあきゃあジルを喜ばせながら、竜での空の旅は一日目も二日目も、穏やかに続いた。
「へえ、君は七人きょうだいの真ん中なのか」
「はい、上に姉がふたり、兄がひとり。下に双子の弟がふたり、妹がひとりいます」
憧れの竜に乗れたのは嬉しいが、何よりも楽しかったのは、ハディスとふたりきりで話す時間がたくさんあることだった。
ベイルブルグでも時間はあったが、就寝時以外はまず誰かがいたし、ラーヴェもいた。だがラーヴェはジークとカミラをのせた竜を気にかけていて、飛行中は離れる時間がある。ひょっとしたら、ふたりきりになれるよう気遣われているのかもしれないが。
「陛下は?」
空の上という環境が開放感をもたらすのだろう。聞いてしまってから、我に返る。
ハディスは兄弟にもれず、家族仲がよくない――というか、権力争いをしているはずだ。だがハディスは気にした様子はなく、竜を飛ばしながら答える。
「今は、上は異母姉がひとり、ヴィッセル兄上と同い年生まれの異母兄のふたり。あとは下に異母妹がふたり、異母弟がひとり。昔はもっといたけど」
「……女神のせいで、大勢亡くなったんですよね」
「そう、七人か、それ以上だったかな。全員、僕の呪いで死んだってことになってる」
あっけらかんと言うハディスに、ジルは唇を引き結ぶ。
(大半は、女神の嫌がらせだろうが――ひょっとしたら、中には呪いをいいことに陛下のせいにした陰謀もあるんだろうな)
国の中枢とはそういうところである。
女神に時間を巻き戻される前、クレイトス王国の王太子の婚約者だったジルは、その手の話はいやというほど見聞きしてきた。クレイトスだとて内紛はあったのだ。ただ、クレイトス王国は兄妹の仲はよかっただけで――よすぎてジルは婚約破棄から冤罪の処刑にまで至ったわけだが。
(思い出すのやめよう。それより、陛下だ)
ジルが知る未来では、ハディスはこれから異母兄弟や実兄ヴィッセルを含むラーヴェ皇族を反乱や内乱で次々処刑してまわる。信頼する実兄と通じたクレイトス王国と開戦し、度重なる裏切りに疲れ果てて、非道の残虐帝に成り果てるのだ。
今、ジルの体を支えてくれるこの手も腕も背中も、こんなに優しくて温かいのに。
「僕は嫌われているから、君にも嫌がらせが向かうかもしれないけど――」
「わたしが守ってあげますからね、陛下!」
気合いを入れ直したジルに、ハディスがぱちくりとまばたいた。
ジルがハディスに求婚したのは、破綻するとわかっているジェラルド王太子との婚約から逃げるためだった。だが人生をやり直すにあたって、強いくせに可哀想で優しい男を救うと決めた。クレイトスとの開戦も回避して、今度こそ恋を成就させるのだ。
十歳と十九歳という年の差だとか、実はハディスが女神クレイトスに付け狙われていてハディスの花嫁になるということはすなわち女神を斃すことだとか、色々問題は山積みだが。
「全部折りますので!」
「う、うん? 折るって――うん、そうだな、君、女神、ばきって折ったな……」
「まかせてください! また折りますから!」
「お、折るのは女神だけにしておいたほうがよくないかな? 確かに僕は周囲から嫌われてるけど、ほら、ヴィッセル兄上とか優しいし。君とのことを応援してくれるかは、わからないけど……」
ハディスは実兄であるヴィッセルがいちばんの裏切り者だと知らない。
だから、ジルはにっこり笑う。
「陛下の味方は折りません」
敵なら折るが、という言葉を隠しておいた。
(それに確か、陛下に真っ先に刃向かうのは、陛下のきょうだいじゃなくて――)
「おい、もうそろそろラーエルムが見えるぞ」
横に追いついてきたラーヴェの声に、ジルは正面に目を凝らした。