やり直し令嬢は竜帝陛下を攻略中
何か声が聞こえた、気がした。優しい指が、壊れ物に触れるみたいにジルの頬をなぞる。
よく知っている。大好きな夫のさわりかただ。別に壊れやしないのに、いつも手加減している――手加減していると知っているのは、そうでない力加減を知っているからだけど。
吐息が頬にかかる。口づけの気配にいささか緊張するけれど、その先も、実はよく知っているのだ。
どういう仕組みだかわからないけれど、ハディスの唇はいつもあまい。
でもその甘さは唇には落ちずに、額に押し当てられる――
「ここにまできてヘタレかお前は!」
飛び起きてから、ジルはぱちぱちまばたいて、自分が目を覚ましたことを知る。そしてきょろきょろ周囲を見回して、ばたりと再び横になった。
――夢だ。でも、この部屋は夢じゃない。
薄暗いのは夜になってしまったからなのかと考えたが、違う。窓がないからだ。明かりは、鉄格子の向こう入りこむ火の明かりだけ。階段が奥に見えるので、地下室かもしれない。
初めての場所だが、部屋の種類はわかった。牢獄である。
「――二度目かあ……」
言ってからまったく笑えないことに気づいた。だが、怒る気力もない。
違うとすれば、冷たい石造りではあるものの、きちんと絨毯も敷かれて、家具や水なども用意されていることか。ジルが寝ていた寝台も、粗末な木の造りではあるが、ちゃんと枕と分厚い下敷き、毛布が用意されていて、妙にふかふかである。
ひょっとして、さっきの夢も夢じゃなかったりするのか。
思い出して、ふざけるな、と改めて思う。
ふざけるな。ひとりで過去形で、完結させるな。でも。
――僕はラーヴェを助ける。何をしてでも。
そう言われてしまったら、なんにも返す言葉がない。
「ジル様? お目覚めですか」
「……っカサンドラ様!」
階段から静かにおりてきた影と声に、ジルは飛び起きた。
「今、何時――いえここ、どこですか!? ひょっとして竜妃宮!? わたし――」
人差し指を唇の前に立てられた。大人の動作に、ジルの逸る心もおさまる。
「今は夜です。クレイトスの会談が終わったからと、陛下が突然、転移で竜妃殿下を連れてこられました。竜妃殿下が眠っておられたのは数時間程度。ここは竜妃宮の地下です」
「……あの、ロルフが言っていた場所ですか。後宮とつながってる……?」
鉄格子の前までやってきたカサンドラが、静かに両膝をついて、持ってきた籠からポットを取り出す。石畳の床に不似合いな上品な茶器に、あたたかいハーブティーが注がれた。
目線でうながされ、ジルはおずおずと鉄格子越しに受け取る。
「取っ手の持ち方」
すかさず注意が飛んできた。慌てて、ジルは姿勢を伸ばす。カップの取っ手は右手でつまむように、だ。そうしないと――思い出して、カップごと床に置いた。
「……もう、いいんです。わたし、竜妃じゃなくなったので……」
カサンドラは置かれたカップを見たあと、静かに口を開いた。
「竜妃殿下は療養が必要と、説明をうけました」
「陛下から?」
そうやって誤魔化す気なのだろうか、ジルの不在を。
「はい。私ども竜妃宮の女官は、ジル様の面倒をみるようにと申しつけられております」
――カサンドラたちは、人質だ。ジルは奥歯を噛み締める。
鉄格子の扉に鍵こそかかっているが、ジルを閉じこめるなら絶対に必要になる魔力封じの結界ひとつ見当たらない。ハディスは手間も人手も魔力もかけず、ジルの動きを封じにかかっている。
それは、もう話し合わないというハディスの明確な拒絶でもあった。
「お食べになりますか」
カサンドラが今度はサンドイッチを籠から取り出す。ジルはゆるゆると首を横に振った。
「いらないです。……だってそれ、陛下のじゃない……」
見ればわかるのだ、もう。う、と情けない声が漏れそうになる。
「……たしかに私が作りましたが」
「へ、陛下のがいいです。陛下のじゃないと、嫌です……」
――どうして、こうなってしまったのだろう。とりあえずやってみようと、ハディスに従えばよかったのか。
両膝を抱き寄せて、ジルはうつむく。もう嫌だ。だって二回目だ。さすがに疲れた。なんでこう、自分の恋は優しくないのか。
「――情けない、泣き言を言えば夫が戻るとでも思うのですか!」
びっくりして涙が引っ込んだ。初めてカサンドラの怒鳴り声を聞いた。
「竜帝がろくでもないことなど、とっくにご存じのはずでしょう。何を今更。失望させないでくださいませ、竜妃殿下。あなたは皇妃とは違うと、散々申し上げました。それは皇妃と一緒ではいけないということです。そして竜帝はろくでもないのです!」
二度も主張された。
「あなたが今考えるべきは、ろくでもない男をろくでもないとなじることではありません。なんとかすることです!」
「ろ、ろくでもないろくでもないって、そんなに言わないでくださいよ、わたしの夫を!」
「ですが実際、ろくでもないでしょう」
「いいところだってたくさんあるんです! 今は――」
大事な育て親を、ラーヴェを助けるために、ジルに背を向けた。後先も考えず、そもそも後先などいらないと切り捨てて。
(そんなわけ、ないのに)
――でも、ジルは引き止められない。
ラーヴェを助けるな、なんて、言えない……。
「……わたし、思いつかないんです。陛下をしあわせにする方法……」
もう一度両膝の間に顔を埋める。ややあって、カサンドラがつぶやく。
「今でもお好きなのですね、陛下が」
「……でなきゃ、こんなに悩んでません」
「そうですわよね」
くすりとカサンドラが笑った。ジルは顔をあげて、両膝の上に顎を乗せる。
「馬鹿にしてます?」
「もし、陛下をしあわせにする他の方法があるなら、竜妃殿下は動かれますか」
「そりゃ、動きますよ。わからないから、こうして膝を抱えてるんです」
「――ではこちらを、竜妃殿下」
カサンドラが鉄格子の間から、折りたたんだ紙を差し入れた。
「本当は、脱走の相談をされたらというお話だったのですが。どうせ早いか遅いかで、結果は同じでしょう」
手帳か何かを破った切れ端に、流暢な文字が並んでいる。
――一三一〇年末 ベイルブルグの無理心中。スフィア・デ・ベイル死亡。アーベル・デ・ベイル処刑。
目を、見開いた。
「これ、どうして」
「ソテー様が、持っておられました」
あ、とジルは息を思い出したみたいにつぶやく。どうして忘れていたのだろう。
ジルにはわからないことがわかる人間が、世の中にはたくさんいる。
「巷で噂になっている、悪い夢をまとめたもののようですが――」
「ソテーはどこに!?」
鉄格子をつかんだジルに、カサンドラが目を見開いたあと、微笑む。
「いかれるのですね」
うなずこうとして、我に返った。もし自分がここから逃げ出したら、責めを負うのはカサンドラたち竜妃宮の人間だ。
(今の陛下なら、やりかねない……!)
ジルの逡巡を見透かしたように、カサンドラが鉄格子をつかむジルの手に、手を重ねる。
「いってくださいませ、ジル様。今なら警備も甘いです」
「でも、そんなことしたらあなたたちがどうなるか」
「竜帝はろくでもないと申し上げたでしょう。あなたが逃げる算段をしていると気づけば、今度は他の手を打ってきます。でも、今は動けると思っていない。なめているのです、あなたの恋心を。自分ばかりが愛していると思って」
カサンドラが艶のある笑みを浮かべる。
「そもそも、竜妃宮の主を閉じこめるのに女官を使う時点で、私たちもなめられています。いいですか、殿方の思うがままになってはなりません。そして相手がこちらをなめてかかっているときこそ好機です。隙を突いて、主導権を握るのです」
まるでいつもの後宮の授業だ。それでも決断できないジルに、カサンドラが目を細める。
「ジル様は、戦場をご存じですよね。囮になる兵を、愚かだと笑いますか」
「……尊敬します。わたしの、誇りです」
「でしたらその栄誉を、私たちに。あなたの足手まといになりたい者など、おりません」
カサンドラは目を閉じ、つなぎ合ったジルの手に頬をよせる。
「そして必ず、戻ってきてくださいませ。あれは、いい男になりますよ」
ろくでもないと散々言っておきながら――ジルは笑って、カサンドラの額に口づけた。目をまるくしてから笑うカサンドラは、まるで少女のように愛らしい。
「いってらっしゃいませ」
「はい。あっこれ食べていきます!」
置きっぱなしだったサンドイッチを手づかみして、そのままひとくちで食べた。
「おいひいです!」
「……。戻ってきたら妃としての再教育が必要そうですね」
「よろひくおねはひひまふ! ――本当は、まだ自信、ないですけど」
もう一度紙片を見て、ポケットに突っ込む。これはロルフの字だ。
「思い出しましたよ。どうしてわたし、ここにいるのか。また失敗するかもしれませんけど」
「失敗してもいいのですよ」
立ち上がったジルを見あげる格好で、カサンドラが優美に笑む。
「傷つかない恋など、物足りないでしょう」
カサンドラが言うと説得力がある。
離れてくれと言い、ジルは鍵がかかっている鉄格子の扉の前でばきばき拳を鳴らす。その左手にもう、竜妃の指輪はない。
だからなんだ。
「あんの馬鹿夫がーーーーーーーーー!!」
思い切り力を込めて下から拳を叩き込んだら、風圧で天井まで割れた。
本当になんの魔術もかけていないのだ。なめられたものだと、夜空をみあげてジルは笑う。
「じゃあカサンドラ様、行きますね!」
「……静かに壊すほうがよかったのでは……?」
「細かいことは気にしないでください、気分です! 前も鍵を壊して、出たので」
でも前とは違う。
「コ……コケェ……?」
おそるおそるというように、天井にあいた穴からソテーが顔を覗かせた。おっとジルは笑った。
「迎えか? まさか罠じゃないだろうな。罠なら焼き鳥だが」
ぶんぶんぶんと高速で首を横に振り、ソテーが翼で行き先を示す。案内してくれるようだ。
折れ曲がった鉄格子を踏みつけ、ジルはカサンドラに向き直った。
「あとはまかせます」
「おまかせください」
最後かもしれないと思った。でもそんな無粋なことは言わない。
選ぶということは、覚悟を決めるというのは、そういうことだ。
「ご武運を!」
後宮のお妃様に告げるには物騒かもしれないが、死地に向かう仲間に向ける笑顔で、ジルは地面を蹴る。
振り向いてはいけない。
覚悟をにぶらせてはいけない。
でないとまた、覚悟を決めた夫にひるんでしまう。
壁と建物を蹴りながら駆け上がっていく鶏とジルの姿を見つけた帝国兵が、警笛を鳴らす。
ハディスを、帝都を守るためだ。嬉しいような、切ないような気持ちで翔る。今、帝都にジルを止められるような人間はいない。ベイルブルグから、サウス将軍やフィンや、ハディスを守ろうとする帝国軍が、早く戻ってこれるといいのだが。
(ちゃんと陛下を、守ってくれよ)
「ジルおねえさま!」
跳び越えようとした南の大きなバルコニーに、小さな影が見えた。フリーダだ。迷って、ジルは尖塔につかまって動きを止める。
「フリーダ様、どうしてここに?」
「ジルおねえさまが療養って聞いて、わたしだけでもって……ハディスおにいさまが……」
ああ、本当にあの男はジルを封じにかかっているのだ。不安でゆれているフリーダの眼差しが、そう物語っている。
「ど、どこへいくの、おねえさま」
「ちょっと出かけます」
今日は風が強い。ジルの衣服も、フリーダのドレスも、しっかり立っていなければよろけてしまうほど強くはためいている。
「でも、カサンドラさまたちがしかられちゃう……」
けれど、フリーダだってか弱いだけの子どもではない。こちらをうかがう目が、ジルの思惑をさぐっている。
「承知のうえです。――フリーダ様は、わたしの味方になってくれませんか?」
あえて、ためすようにそう尋ねた。フリーダは目を見開き、ジルをじっと見あげて、一度目を閉じた。
「――わたしは、フリーダ・テオス・ラーヴェ。この国の皇女です、ジルさま」
笑顔が見事なほど、迷いがなかった。
「いってください、ジルさま。見逃すのは、これきりです」
「十分です。今まで、ありがとうございました。お元気で!」
ジルは尖塔の屋根を蹴った。
いつだったか飛び降りたことがあったな、と思い出す。
帝都を取り戻し、演説していたハディスの胸に飛び込んだときだった。まだあの頃はハディスの味方なんてリステアードとエリンツィアくらいだった。ほんとうに、ハディスの味方は増えた。
――大丈夫だ、ジルがいなくても。ハディスにはきょうだいがいる。一緒に戦った帝国軍がいる。たくさんの誰かがいる。ラーヴェは、正しい……。
目元を腕でぬぐったジルを、先行するソテーがわずかに振り返った。
「ゴミが入った。……お前は、いいのか。ラーヴェ様の血をもらって――」
今や、小さな魔法陣を足場にして、飛ぶように駆けている。
「……まあ、竜じゃないしな……」
「コケッ」
ひときわ高く鳴いたソテーが、帝都の壁を越え、南の方角に向け翼を広げて滑空した。行き先は、窪地になった森の中だ。
「ジルちゃん!」
「隊長!」
茂みをかきわけて出てきたカミラが、遠慮なく飛びついてきた。遅れて顔を出したジークも、いつになく疲れた顔で長い息を吐き出す。頭には葉がついていた。
「よかった、逃げられたのね。怪我してない?」
「お前たちこそ、よくここまで移動できたな? ベイルブルグにいたんだろう」
「色々とな。……そうだ隊長、なんか食ったか?」
「少し、カサンドラ様からもらった。それより、ロルフは」
「ここにおるぞお」
カミラたちが出てきた茂みの奥から声がした。状況のすりあわせはあとだ。ジルは歩きながら、先ほどポケットに突っ込んだ紙片を取り出した。
一三一一年春 ゲオルグ・テオス・ラーヴェ蜂起(偽帝騒乱)
同年春 ナターリエ・テオス・ラーヴェがクレイトスで行方不明(死亡?)
同年秋 リステアード・テオス・ラーヴェ蜂起(ワルキューレ竜騎士の乱)
焚き火の前でホットワインを楽しんでいるらしいロルフの前に、紙片を突き出す。
「……覚えてたんだな、ロルフ」
「ベイルブルグから追い出されたときに、全部覚えているだけメモして、何度も何度も反芻しただけじゃよ。忘れないように」
それでも並大抵のことではないだろう。あれはもう、なかったことになったのだから。
――でも。
一三一二年年始 リステアード・テオス・ラーヴェ処刑
同年秋 マイナード・テオス・ラーヴェ、クレイトスで亡命政権樹立、宣戦布告
クレイトス王国軍、レールザッツ領に侵攻(ラーヴェ解放戦争)
同年冬 エリンツィア・テオス・ラーヴェ戦死
「ただ、現実味は一切ないのう。よくできた妄想と変わらん。じゃが、あの小僧も同じことしとるじゃろうからな――何よりお前は覚えとるんじゃろう。女王も」
「……そうだな」
うしろでカミラとジークが聞いている。近いうちにこのふたりにも、話さねばならなくなるだろう。
「そんな妄想を怖がるわたしは、間違ってると思うか」
「ふうむ。難しいところじゃな」
ロルフがワインのカップを置く。国境付近で天幕を張っていたときと同じものだ。お気に入りなのだろうか。
「儂にわかるとすれば、他の人間、竜帝本人にも許さなかったその妄想を、竜神はお前には許しとるっちゅうことじゃな。だから、いまだにお前から記憶が消えていない」
――頼むぞ。あれはきっと、願いだった。これから先への。
「何より、竜帝はよりによってお前を切り捨てた。反対するかもしれんっちゅうだけでな」
「……それだけラーヴェ様を助けたいんだ、陛下は」
「そうじゃな。だが、お前にできたんじゃ。他の人間には、もっとためらいなくやるじゃろう」
ひゅっと、息を呑んだ。恐れている未来を、つれてくる音だった。
「最初の一歩を踏み出した人間はあっという間に転がっていく。詐欺師だって最初の嘘は可愛いもんじゃ。大盗賊だって、最初は親や友人の財布から盗む。人殺しだって最初に殺すのは虫や動物じゃ。そうしてだんだん、慣れていく。アルカから魔力を奪う。その辺はまだ理解を得られるじゃろ。だがそれをやった人間は、次もできるようになる。お前を切り捨てた竜帝は、もう覚悟を決めとるはずじゃ」
いざとなれば、どこまでも竜神ラーヴェのために犠牲を広げる覚悟を。
「で? そういうお前は覚悟はできたか?」
ずっと背を向けていたロルフが、こちらを見た。
一三一三年 レールザッツ領ノイトラール領陥落、ノイトラールの大虐殺
一三一四年 帝都ラーエルム占拠、ヴィッセル・テオス・ラーヴェ処刑
一三一五年 ライカの大粛清、南国王の動乱
世界が終わりに近づいていく。たったひとり、最後まで立っているしかない男の手で。
紙片を握り締めていた。しわになるのもかまわずに。
「――次さえあれば、うまくやれると思ったんだ」
涙があふれた。ジルちゃん、とカミラが肩を抱いて支えてくれる。大丈夫、まだ今は失ってない。あのときみたいには、なっていない。カミラがいる、ジークがいる。
雪が前をふさいで、鐘の音が終わりを告げたりしていない。
「わたしに、できるかな」
しゃくりあげて尋ねるジルに、ロルフが目をまるくして首をかしげた。
「生きてる限り、今、そのときが、次じゃろ」
ジルは涙をぬぐわずに笑う。そのとおりだ。
「……陛下を止めるぞ。そして陛下とは違うやり方でラーヴェ様を助けられないか、さがす」
「もしそれが見つからなかったら?」
問いかけるロルフは容赦がない。でもジルは答えなければならない。
「そのときは」
答えたジルに、ロルフがハディスぐまを差し出した。それを抱き締めて、ジルは奥歯を噛み締める。
誰かを好きだったことを失敗のまま、終わらせたくなかった。
だから――次こそ終わらせて、たまるか。




