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中途半端に重ならない互いの手をそのままにして、ジルはさらに尋ねる。
「さっきの話から察するに、女神に助けてもらうんですよね」
「――そうなるよ。そのための政略結婚だし……君は嫌だろうけど」
「それはいいんです、いやよくないけどいいです。そうじゃなくて……ひょっとしなくても、女神の魔力を増強するんですよね」
なんのために、なんのために――おそろしく速く思考が回り出す。
女王は知っている。そしてロレンスは聞いている。神格を堕として消えてしまった竜神ラーヴェを、かつて、どうやって戻したのか。
「ひょっとして、ロレンスは……時間を戻すとか、そういう話をしませんでしたか」
「……そうだって言ったら?」
「駄目に決まってます!」
椅子を蹴って立ったはずみで、左手がハディスの手から逃れた。金色の指輪が、軌跡みたいに光る。
「ちゃんと説明してください。どんな手段でラーヴェ様を助けるつもりなのか」
「具体的には、これからだよ。まだわからないことも多いし」
「そんなわけないでしょう、ラーヴェ様が消えるかどうかの瀬戸際なんですよ! 具体的な策もなしに、陛下が女神の案に乗るわけがない!」
ロレンスはハディスを説得できるだけの、具体的な策を提示したはずだ。それはいったい、どんな。時間を戻すとしたら、どこまで。そもそも、どうやって。
「……時間を戻すって、簡単なことじゃないはずですよ。たとえ女神であっても」
神様は万能ではない。
一度、時間を六年前に巻き戻した女神が、人間のジルと戦える程度に弱ったように。
この時間を肯定したラーヴェが、消えかけているように。
ハディスが低く、笑った。下からのぞきこむように、金の瞳がふたつ、光る。
「やっぱり君は、てごわいなあ。だめかあ」
上手に逃げてしまった獲物を眺めるような目だった。顎を引き、ジルは両足を踏ん張る。
「……誤魔化さないでください。これから何をするんですか、陛下」
「アルカから魔力をもらう」
真っ先に脳裏をよぎったのは、紫色の外套を羽織って雪の中にいた少女の姿だった。仲間を取り戻すのだと、何度も何度も国境を振り返っていた。
「……他人の魔力を自分のものにする魔術を使うんですか」
「そう。ラーヴェ国内のアルカ信者も使う。クレイトス出身ほどの魔力はなくても、たしにはなるはずだ。幹部はまだまだ隠れてるだろうし……っていうか君と僕が逃がしたしね?」
でも今度は逃がさない、と今から虫を捕まえにいく子どもの顔でハディスは言う。ジルは拳を握った。
「……それは、ラーヴェ様のために人間を生け贄にするってことですよ」
「だめなの?」
「いいわけがないでしょう! 少なくとも、ラーヴェ様が許すわけがありません!」
「なんでジルにそんなこと、わかるの」
感情が消え失せた温度のない声に、ジルは口を閉ざした。
「ラーヴェでもないのに。僕にももう、なんにも、聞こえないのに――教えてよジル。どうやったらラーヴェは、許さないって僕に教えてくれるの?」
ねえ、と迫る瞳が、笑っているのに、泣いているみたいだった。見ていられないというのは卑怯だろう。でもこみ上げてくるものを隠せなくて、ジルは目をそらす。
「教えてよ、ジル。どうしたらラーヴェは、僕のところに戻ってきてくれるの」
「それ、は――」
「失礼する」
がしゃがしゃと突然騒がしい音がして、兵たちが入ってきた。身構えたジルを見据えてまっすぐ歩いてくるのは、ヴィッセルだ。
ハディスがうろんげにヴィッセルを見る。
「……ずいぶん用意がいいね、ヴィッセル兄上。まだ話してる最中だよ」
「竜妃の騎士どもが見当たらなくてね。竜妃殿下にお話をうかがいたい」
「……話をする空気ではなさそうですが」
ヴィッセルが率いてきた兵たちだけではない。建物の陰にも潜んでいる気配がある。完全に囲まれていた。どうして気づかなかったのかと舌打ちしたあとで、気づく。さっきから自分は勘が良すぎる――ハディスの結界だ。
ふたりきりで誰にも邪魔をされず、話せるように。それも嘘ではなかったのだろうけれど、取り囲む兵たちをジルから隠すためでもあったのだ。
「お話を願っているんですがね、こちらは」
「……ヴィッセル殿下、わたしはあなたと話してません。陛下と話してるんです」
「ハディスに、ラーヴェ様を諦めろと?」
返答に詰まったあとで、恐怖を殺すように拳を握り直した。
「……そうは言っていない」
「ではお答え願います、竜妃殿下。ラーヴェ様を助ける気があるのか、否か」
「その前に、お前は、これから陛下が何をするのかわかってクレイトスに賛同したのか!」
「クレイトスとアルカ退治でしょう? 何か問題が?」
「もし魔力がたらなかったら?」
ヴィッセルは肩をすくめた。
「そのときはそのとき考えるしかありませんね」
「そんないい加減な……っ」
「ではどうしろというんです、竜妃殿下。あなたのお綺麗事を待っている時間はないんです。ラーヴェ様はもう長くはもたない」
息を呑んで、ハディスを見る。ハディスはもう、ジルを見ていなかった。ぼんやりと、大広間の方角を見ている。そのハディスをちらりと見て、ヴィッセルが前に出る。
「さあ、どうします竜妃殿下。あなたはハディスの力になる覚悟があるのか」
「……っリステアード殿下は!? リステアード殿下はなんて言ってるんですか」
「僕ならここにいる、ジル嬢」
回廊のほうから歩いてきたリステアードに、ジルはほっとする。
リステアードは眉根を周囲を見回し、嘆息した。
「やり方が性急すぎる、いくらなんでも」
「私と竜妃の相性が悪いことなど今更だ。――それで、竜妃の騎士たちは?」
なんの話だ。訝しむジルを置いて、リステアードが淡々と答える。
「会談が始まった直後に、ベイルブルグを出たのを見た門番がいる。……馬でな」
ちらとリステアードにこちらをうかがわれ、ジルは慌てた。
「わ、わたしは何も知りませんし、指示も出してません!」
「それもそれで問題だが。――今、追わせている。そう遠くにはいっていないはずだ、エリンツィア姉上も追跡に出てくれた。すぐに捕縛できるだろう」
捕縛。目を見開くジルから、リステアードは視線をそらさなかった。
「……リステアード殿下は、陛下が何をするか、わかってるんですか」
「ああ」
「どうして止めないんですか!」
「では君は、ラーヴェ様を助けるなと?」
また答えに詰まってしまった。
ヴィッセルとリステアードはハディスを守るように立っている。ラーヴェが言っていたことを思い出した。もうハディスには、たくさんの誰かがいる。
ジルだって、ヴィッセルとリステアードと同じ、その誰かのはずなのに。
何が間違っているんだろう。間違っているのは自分だろうか。わからない。ヴィッセルとリステアードを間違っていると、言えない。
「どうする、ジル嬢。いや、竜妃殿下」
優しい、でも厳しい目で、リステアードも問いかける。ジルは思わず首を横に振って、あとずさった。わからない、決められない。
「……っ他に、ないんですか。だってこんなの絶対、駄目です。陛下が――」
よぎるのは、かつての光景だ。赤黒く燃える空、血が染みこんだ大地。人が焼ける臭いの中で、彼はただひとり、立っている。
ラーヴェが全部夢にしてくれたのに、ジルが囚われすぎているだけなのか。
でもこの先向かう未来がそれとは違うなんて、誰が保証してくれるだろう。
「もういい」
――こんなに冷たい声を聞いたのは初めてで、ジルは凍り付いてしまった。
「もういいよ」
夢から覚めたみたいにハディスがゆっくり椅子から立ち上がり、テーブルの上に並んだものを見て、嘲笑う。
「一緒にいてくれるなら、苺のケーキだってなんだって、作ってあげたのにな」
何を言われるかわかってしまった。既視感がある。でもあのときとは違う。
あのときは、ハディスは何も相談してくれなかった。ちゃんと話し合えば、解決する行き違いだった。
でも、今回は?
「……君は反対する気がしてた。わかってた。だから、納得もしてるんだ。僕が好きな君ならそうするって」
ハディスは決めている。ためしているのではなく。
「ごめんね。でも、君を野放しにもできない」
その瞳には、憎しみも諦めもない。ただ、覚悟だけがある。
「僕はラーヴェを助ける。何をしてでも」
ジルだってラーヴェを助けたい。でも、どんな方法でも、受け入れるのか。問われたら、その答えは――
「ほんとうに、君が好きだったよ」
ハディスがこちらに向けて手をかざした。白銀の魔力が何を狙っているか気づいて、ジルは左手を右手で握り込み、隠す。
竜神ラーヴェの祝福。ハディスの妻である証。ハディスを守る力。
「返してもらう。ラーヴェの神格を堕とす可能性は、残さない」
いつだって竜帝は竜妃を愛しては、同じ理を違えるから。
ジルを愛してるから、もう間違えないために。
「さようなら、紫水晶の目をしたお嬢さん。最期まで、そばにいてほしかった」
「――勝手にぜんぶっ過去形にするな!」
勝手にこぼれる涙が嫌だ。黄金の指輪しか支えにするものがないみたいに、身を縮める自分が嫌だ。
だって、ハディスを裏切ったとすれば、なんの答えも出せない自分だから。
――頼むぞ。
指輪が、黄金の粒になって消える。もうジルにその資格はないよと、教えるように。




