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六人だけの会議室はがらんとして、ずっと肌寒かった。かちりかちりと規則正しく柱時計の秒針が進むたび、時間が凍っていくように感じる。
「以上が、クレイトス側からの和平の――いえ、協力の条件です」
最初から最後まで、交渉役のロレンスは手元の水差しを取らずひとりで説明しきった。女王は一度も口を動かさず、お人形のようにハディスの正面の席に腰をおろしているだけだ。目を合わせない、顔も見ない、話さないというお嫁さんの言いつけは今のところ守れている。
「……それは、本当の話なのか。根拠は」
途中から額に手を当てて苦い顔で話を聞いていたリステアードが、唸るように尋ねる。本音か建て前か、ロレンスはわずかに眉をよせた。
「女神を信じていたくしかないですね。俺の提案も、女神の説明を前提にしたものなので」
「……状況と照らし合わせると、筋は通っている。クレイトス側に都合のいい虚言だと片づけるわけにもいかなさそうだね」
溜め息まじりに言ったマイナードを、不愉快そうにヴィッセルがにらみつけた。
「女神クレイトスの立派な信者におなりのようだ」
「だって説明が本当なら、クレイトス側にあまり益のない提案だろう? 言い方は悪いけれど、女神の、竜神を救いたいというわがままを叶えるための交渉のようなものだ」
「女神のご機嫌は大事でしょう、クレイトスではね」
「じゃあ、お前は女神の説明を否定できる根拠を示せるのかい?」
「示せる。竜帝の決断だ」
マイナードがまばたいたあと、こちらを見るのがわかった。ハディスの右隣にいるリステアードは目を閉じて見ないようにしている。左隣にいるヴィッセルは、穏やかに正面を見据えたままだ。皆、ハディスの決断を見守っている。
「こちらからお話しすべきことはこれですべてです」
立ちっぱなしだったロレンスが座った。きっと座面は冷えていることだろう。
「譲歩はあり得ません。あとはあなた方がこちらを信じて協力するか、こちらを信じずに協力を拒むかだけです」
「……確認だ。拒めば、ラーヴェ様はどうなる」
リステアードの口調は冷静だ。ロレンスは苦笑いを浮かべる。
「魔術ごと持ち帰りますよ、女神が」
「戦争を続けるということか」
「結果的に、そうなるでしょうね。ただ逆に聞きたいんですが、あれを手元に置いてあなたたちはいったいどうするんです? まさか帝都に飾るおつもりで?」
「ラーヴェ様は見世物ではない」
「なら余計、どうすべきかは明白ですよね。竜神ラーヴェを救う気があるなら」
ロレンスが手を伸ばして、水差しをたぐり寄せた。
「俺はラーヴェ帝国の持ち出しも最小限ですむ提案をしたつもりです。それもこれも、竜神を助けるためですよ」
「助けたあとは?」
「リステアード。その話をすれば交渉が成立しない」
ヴィッセルにたしなめられ、リステアードが溜め息を吐いた。ロレンスが水をひとくち飲んで、にこりと笑う。
「そのとおり。今までの話はすべて、竜神を助けるまでの話です。そのあとはそのあと、また別にしましょう」
「……そのあとにも響く条件を出しておいてよく言う」
「サーヴェル家の当主が言ってましたがね。結婚したら、離婚できるらしいですよ」
ああ言いそうだなと、ハディスは頬杖をついたまま思った。娘さんをくださいとお願いしたのはそんなに昔ではないはずなのに、光景がずいぶん色あせている。
「形式的なもので、中身まで求めません。女王陛下も了解されています」
「あなたはそれで――というのは、いつだったか、聞いたことがあったな」
リステアードは苦笑いと一緒に疑問を引っ込めた。マイナードが片手を小さくあげる。
「質問、いいかな。そもそもこういう話に、竜神ラーヴェ様の許可は必要ないのかい?」
「過去の記録には見当たりません。王女シシリアの前例もあります。そのあたり、こちらも細心の注意を払ってます――竜神の神格をこれ以上、堕とさないように。あるいはこれ以上、問題を大きくしないように。会談の条件だってそうでしょう」
リステアードが、口角をあげる。
「竜妃を出席させないことは、そちらのお気遣いだったわけか」
「必要なら我々は退出して、皆さんでお話していただいてもかまいません」
「ハディス」
突然、ヴィッセルの声が柔らかくなった。甘やかすような、けれど逃がさない響き。
「お前がしたいようになさい。私はそれを叶えるよ。……リステアード」
次はハディスを通りこして、リステアードの視線がヴィッセルに向かう。
「相談が必要なら、お前がしてこい」
「ハディスの決断を聞く権利は僕にもある、ヴィッセル兄上。ひとりで勝手に決めるな」
意外だったのか、ヴィッセルが目を瞠った。マイナードが苦笑い気味に目を伏せる。
「そうだね、竜帝も女王もひとことも話していない。当事者の話を聞かずに進められないだろう。……まあ女王陛下は、この話を持ち出した側だ。反対はないと思うが」
ゆっくり、女王が目を開いた。
「どうされますか、ハディスさま。あなたは竜神ラーヴェを、見捨てますか?」
耳をふさぐのはできなかったな、と思う。それくらいは許してくれるだろうか。だから懺悔のような声色になった。
「……ジルからは僕が話すよ」
ヴィッセルが視線だけハディスによこす。
「あちらの条件を呑む、ということか。いいんだね?」
「少なくとも、女神の言っていることに嘘はない」
女王が弾かれたように顔をあげる。その手に持っている黒槍も、びっくりして飛び跳ねたように見えた。
『信じて、くれるの……?』
小さな小さな、まるで被害者みたいな声。不愉快すぎて、笑ってしまう。
「手間がはぶけてよかったよ。さすがに女神を脅しつけるのは面倒だったから」
フェイリスが目を細め黒槍が震えたが、知ったことではない。
「基本方針はそっちの提案のままでいい。問題あれば適宜修正をかける。じゃあ兄上、あとはまかせるよ。書面とかあるでしょ」
「ありがとうございます、竜帝」
再度立ち上がったロレンスが、こちらに手を差し出した。
「これからはお互い、協力者です。表面だけでも仲良くお願いしますよ」
「協力?」
口角を持ち上げて笑ったあと、背を向けた。女神とその器は見ないという、約束だから。
「もし、ラーヴェが消えてみろ。死ぬのはお前らだ」
立ち上がり、ハディスはそのまま踵を返す。誰も引き止めなかった。
ジルが待っているはずだ、ラーヴェの前で。
早くたどり着きたい。でも足取りは重く、駆け出したりはできない。なのに遠回りもできずに、まっすぐに向かう。
(ほんとに好きなんだよ、ジル)
言い訳みたいに繰り返す。繰り返しながら、たどり着く。
「あれっ陛下!?」
真っ先に駆けてくる小さな影。遠慮がちに、でも触れてくれる温かい手。
きらきら、そのうしろにいる、育て親。
「終わったんですか、会談? 早かったですね」
「うん」
「どうでしたか。何を言ってきたんです、クレイトスは」
「長くなるから、お茶しながら話そう。実は苺のケーキ、用意してあるんだ」
「陛下の誕生日ケーキですね!」
目を輝かせたジルが、急ごうとばかりに手を引く。ハディスは苦笑いで引きずられていく素振りで、わずかにうしろを振り返った。
今日は誕生日だ。今日くらい、育て親だって守ってくれるだろう――ハディスを愛することは、できなくても。




