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読み上げられたラーヴェ帝国からの書状には、会談場所はベイルブルグと指定されていた。眉をひそめる貴族はいたが、当の女神がにこにこしているので、誰もが口を閉ざしている。
そして和平会談の条件がすべて読み上げられたところで、また口論が始まった。
「もうひとり、誰が女王に随伴するかが問題ですな」
「それはやはり、サーヴェル家では? 護衛に最適でしょう」
「サーヴェル家はこの会議に出席もしていません! 役に立ちませんよ、ここは我らがヘルバウンド家に女王の護衛をおまかせください」
「ねえ、あなた」
再び始まった議論をどこ吹く風で聞き流していたマイナードは、すぐそばで聞こえた鈴のような声に反応が遅れた。
周囲が静まり返る中で顔をあげると、横から女神が自分を覗きこんでいる。息が止まるかと思ったが、動揺をこらえて、どうにか唇を動かす。
「……私、ですか?」
「そう。あなた、ラーヴェ皇族なんでしょう? 帰りたくない?」
「帰る……というのは、ラーヴェ帝国に?」
「そう! あなたが会談についてきたらいいと思うの。あの子だって喜ぶかも」
あの子――まさか、ハディスのことか。どうにかまわっている頭で考える。
「それに、あなたなら竜神をやっつけてくださいなんて言わないでしょう? あの、船を出して逃げた奴らみたいに」
クレイトス、と女王がしかめ面で声をあげる。どうも、女王も想定外の人選らしい。様子をうかがっていた隣のアゼル公爵が、幼子に言い聞かせるようにクレイトスに声をかける。
「彼は味方ではありませんよ。ラーヴェ帝国の皇位継承権を持っていますし……」
「え、皇帝になりたいってこと? ――お前、あの子とおにいさまを帝都から追い出した連中の、生き残りか」
ふっと愛らしかった女神から、一切の表情がなくなった。
「どうなの」
光を失った底のないふたつの青の瞳に覗きこまれ、深海に叩き落とされたような圧迫感と冷えを感じる――同時に、今まで忘れていたわけでもないのに、唐突に理解した。
こいつは、こうやってマイナードのきょうだいたちを、アルノルトを殺したのだ。
「どうなの」
繰り返し尋ねられ、マイナードは乾ききってしまった唇をどうにか動かす。
「……弟と竜神ラーヴェ様が帝都より追放された際、私は何もできぬ子どもでした。ですが、言い訳にはなりません。あれはラーヴェ皇族としてあるまじき行いだった」
ふっと女神の表情に色が戻った。自分は花だったと思い出したように。
「もし叶うなら、弟と竜神ラーヴェ様に会って、お詫びしたいと思います」
「……そう。ならいいけど」
「ただ、ひとつだけおうかがいしたいことがあります、女神クレイトス様」
周囲の目が、正気かというように注がれる。女王も眉をひそめていた。
せっかく女神の目からそれたのに、どうして続けるのかと。
「なあに?」
不思議そうな女神クレイトスに、優しく、尋ねずにいられなかった。殺されるとしても。
「アルノルト・テオス・ラーヴェという名前に覚えはありますか?」
「だあれ?」
無邪気な眼差し。何かを踏み潰したことにも気づいていない、純粋さ。
笑顔が崩れないよう、マイナードはきつく拳を握る。殴りつけたところでもう届かない、何も。無駄死にだ。この局面で、弟たちを、妹たちを置いて、命の無駄遣いはできない。
「お前の大事なひと?」
「……いいえ。いいんです、覚えておられないのであれば。いらぬ質問をしました」
「そう、ならいいけど。……お前と同じことを言った人間が、昔、いたから」
女神の声色が、唐突に大人びた。
「間違いを正したいんだって……だからクレイトスにも間違いを認めてほしいって」
――それは。
両目を瞠るマイナードからふいっと顔を背けて、横顔だけで女神が嘲笑う。
「馬鹿みたい、人間が神にお説教なんて。自分は何も許さないくせに、クレイトスには全部許せって。助けないけど助けろって。……馬鹿みたい」
そのまま姿がほどけて、黒槍に戻って器の手におさまってしまう。もう、何も聞きたくないというように。だいじょうぶよ、と女王の唇が動いた気がした。
だが幼い女王はすぐに凛とした顔で、背筋を伸ばす。どうしてだか、幼かった妹の姿が重なった。自分にだって使命があると、背伸びする姿だ。自嘲して小さく首を振った。
望んでも叶わぬことのほうが多い妹と、望めばなんでも叶うだろう女神の器と、どちらが幸福かなんてくらべるのも馬鹿らしい。けれど。
「竜神との争いに終止符を打つこと。これは女神の長年の悲願です」
これが本当に、父も兄も出し抜き、大きすぎる椅子にひとりで座っている少女の望みなのだろうか。
気がつくと握っていた拳を広げ、会議机に手を置いて、マイナードは立っていた。
「女王の決意に、賛同します。ぜひ私を会談におつれください、女王」
「ふざけるな、ラーヴェとの和平会談に彼を出席させるなどありえません!」
「ですが、ラーヴェ皇族の私が出席すれば、女神が本気で竜神を助けたいのだという証左にもなりましょう。何より、クレイトス様にご指名いただいたので」
マイナードの笑顔にぐっと周囲が詰まる。口を開いたのは女王だ。
「よろしいでしょう」
「陛下」
さすがにアゼル公爵が厳しい声を飛ばす。だが、女王は微笑むばかりだ。
「いいではないですか。わたくしはラーヴェ帝国と竜帝を信じていますし、アルカが横槍を入れる余裕はないと思いますが、危険がないとは決して言えません。ですが彼なら、誰も犠牲にならずにすみます」
気まぐれな女神に処分されても、ラーヴェ側で何かしかけられても、マイナードならば犠牲にカウントされない。なかなかの皮肉だ。決してこの少女は幼いだけでも、女神の言うことをきくだけの傀儡でもない。誰にも頼らぬ高潔な瞳が、ひとりきりだと物語っている。
「それでは皆様方、和平への準備をお願いしますね」
フェイリスが椅子から立ち上がり、嘆息したアゼル公爵がそれに続く。
クレイトス国内の様子からいって、戦争を継続するつもりはないだろう。だが、ただの和平であるはずもないのだ。
「フェイリス女王」
期待せずに声をかけたのだが、フェイリスはマイナードに振り向いた。
「念願のラーヴェとクレイトスの和平を、この目で見るのが楽しみです」
「ええ、わたくしもです」
マイナードの答えに女王はにっこりと微笑み返し、会議室をあとにした。
ふうっとマイナードは肩から力を抜く。踏みこみすぎている自覚はあった。
ここで自分に与えられた役割はクレイトス国内を引っかき回すこと、あるいは南国王とのつなぎだった。だが、かまわないだろう。
(あのひと、昔から間が悪いからな)
苦笑いを浮かべて、廊下を進む。ラーヴェ帝国に戻るのは久しぶりだ。その前の残り少ない時間で、頼まれた仕事を片づけていかねばならない。




