10
空に、いくつか影が見える。朝食を食べ終えて口元を拭いていたフェイリスは中座し、窓際に立った。港があるベイルブルグは低地ではあるが、ベイル城は高台に建てられているので、判別はそんなに難しくない。
鳥ではなく、竜だとわかって苦笑いが浮かんだ。女神クレイトスの結界が覆われてしまったベイルブルグの空に、初めて姿を現した竜の影――わかりやすい。
「どうかされましたか」
給仕をしてくれていた令嬢が、心配そうな眼差しを向ける。ロレンスが女官代わりに捕虜の中から選んだベイル侯爵家令嬢スフィア・デ・ベイルは竜妃の家庭教師も務めていたそうで、気立てがよく、自分の立場と役割をわきまえていて、フェイリスにも嫌な顔ひとつせず世話を焼いてくれた。まるで親戚の小さなご令嬢のように扱われ、思いがけず優しい時間をすごせていたのに。
「空に、竜が飛んでいます。竜帝がベイルブルグ奪還に動き始めたのでしょう」
スフィアが小さく息を呑んだ。フェイリスは窓から離れ、席に戻る。
「今日でお別れですね。もう少し色々お話を聞きたかったのに、残念です」
「いえ、私もよくしていただいて……ありがとうございました」
「最後に、お悔やみを申し上げます。リステアード・テオス・ラーヴェを救出するため殉職なさったあなたのお父上、アーベル・デ・ベイルに」
表情を消したスフィアに、フェイリスは笑いかける。
「今のあなたは父親に殺されてなどいませんよ。安心しましたか?」
「……夢は本当にあったことだとおっしゃられないのですか。皆さんにはそう……」
「今が偽物だと言った覚えはありませんよ。混乱している方々がいらっしゃるのは、もちろん存じていますが」
窓をもう一度見ると、空を飛ぶ竜の影が増えているように見えた。
「信じたいものが現実でいいんです。皮肉ではありませんよ。本当に、そう思うのです。忘れてなかったことにできるのなら、それがいちばん、いいんです」
「フェイリス様は、何をなかったことにできな――」
フェイリスに冷たい目線を戻されたスフィアが、口を閉ざした。頭をさげる。
「――差し出がましいことを申し上げました、女王陛下。ご無礼をお許しください」
「どうかそんなふうにおっしゃらないで。またお会いすることがあれば、仲良くしてくださいね。たとえここがクレイトスになってしまっても」
顔をあげようとしたスフィアの動きが一瞬、止まる。だがすぐに薬湯のポットを取り、フェイリスのカップに丁寧に注ぎ、差し出してくれた。
「もちろん、ベイル侯爵領の安寧のためならば」
穏やかな微笑はいつものように優しくはない。彼女はベイルブルグを諦めないのだろう。わかっていたことだ。
フェイリスも口元だけで笑みを返し、薬湯を取って息を吹きかけた。ひとくち呑んだ。毒の心配はしていない。入っていれば、竜帝は助けにくると皆を励ます彼女の首を飛ばせる。そうあってほしいくらいだ。
――結果は、最後まで残念だった。
「もう結構です、さがってください。わたくしが言うのもおかしいですが、どうぞご無事で」
「……フェイリス様も」
先ほどまでの口調で応じてくれる彼女は優しくて、甘い。
「それなら竜帝を心配してさしあげてくださいな」
意味はわからずとも、含みは感じたのだろう。唇を引き締め、だが優雅な淑女の礼をして、スフィアが退室する。最後まで完璧なご令嬢だった。
入れ替わるようにして、ロレンスが部屋に入ってきた。
「彼女は最後まで、かつてを信じなかったみたいですね」
扉の向こうの足音がいってしまってから、ロレンスがそう切り出した。
「信じる可能性がないから、わたくしのところへよこしたのでしょう。やはり今の竜帝をよく知る人物には、女神の策だとしか思われないのでしょうね……かつてなんて」
「まあ俺だって信じていませんしね、あんまり。知識として呑みこんだだけで」
「あれは本当にあったことだと、竜帝の危険性を皆に説いておいて?」
「騙されるより騙せが信条でして。ちょっと今日は忙しくなりそうです。気づきました?」
窓、正確には空を指で示され、フェイリスは頷く。
「捕虜たちも兵も気づいて、騒ぎ始めてます」
「竜は竜神の神使ですからね」
ベイルブルグを奪還しに、竜帝がくる。竜が空を飛ぶのは、その合図だ。
「準備はどうですか?」
「やれるだけはやりました。あとは博打ですね」
眉をひそめたフェイリスに、ほがらかにロレンスが笑いかける。
「信じましょう、ひとの弱さを」
「……」
「女王がそんな顔をなさるのは、よくないと思います」
「……。あなたが楽しそうで何よりです」
「アンサス戦争の英雄が奇襲作戦以外でどう出るのか楽しみですよ。ぐだぐだだったら、がっかりかもしれません」
好き勝手なことを言って、ロレンスは朝食を終えたテーブルを一瞥した。
「時間がありませんし、いきましょう」
「兵への指示は?」
「すませてあります。でも一番の困難は、クレイトス様の了承を得ることですから」
「……あなたなら簡単でしょう」
呆れまじりでも本音だったのに、ロレンスは目を細めて笑い捨てる。
「難しいですよ。かみさまは、ひとではないですから」




