いつかの8月15日(後編)
目の前に神がいる。
飾りは花冠ひとつだけの、質素な衣装。透けた、存在もおぼろげな身体。なのに輪郭は暗闇の中で淡い黄金に輝き、その存在を主張している。
「どうしてかしら」
――女神の声を、聞けるとは。竜神の声など聞いたこともないのに。
どうでもいいような、大切なような、そんなことを、アルノルトは、両膝をついたまま考える。
一瞬だった。何か気配がしたと思って、振り向きざまに剣を抜いて、そのまま、気づいたら壁に叩きつけられて、膝を突く羽目になっていた。
必ずその日に皇太子が死ぬ仕掛け。偶然だとか、ラーヴェ皇族に成り代わろうとする者の策略だとか、クレイトスによる罠だとか、色んな推測と噂が飛び交っていた。だがどれも解明に至らずにいた。いったいどんなものかと思っていたら、こんなに単純な話だったとは。
「どうしてあの子を、戻さないのかしら。竜帝なのに」
女神が竜帝に手を貸すのは納得いかないのに、女神がこうして手を下しているのならば、当然の疑問だと笑ってしまった。
「……その、とおり、です、ね」
女神が視線を注ぐのがわかった。
まだ持っている剣を支えに、アルノルトは立ちあがる。身体のあちこちが軋んだ。
(父上、叔父上)
恨んではいない。何か歯車が狂ったのだと、わかるから。
(リステアード)
遺書を書いてないなんて嘘をついた。でもあの子なら逃げない。
(ルドガー兄上)
どこにいるかわからないけれど、きっと助けにきてくれる。
(ヴィッセル)
強すぎる輝きに目を曇らせずにいてほしい。
(ナターリエ、フリーダ)
この先、駒にされるだろう。それでもお前たちなら、強く生きていけるから。
(ルティーヤ)
一度も会えなくて心残りだ。宮廷に縛られず志高く育ってくれ。
(マイナード、お前には……)
何も言うことなんて、今更ない。自分の片翼。きっと自分が死んだあとも。
「私たちは、間違えました」
なんとか立てたが、剣を持つ手が血でぬるついている。
「言い訳にはなりません。ラーヴェ皇族が竜帝を追放しただなんて、冗談みたいですよね」
「ふうん、知らないって言わないんだ。竜帝じゃないって言わないんだ、あの子を」
珍しい生き物でも見たように、女神が会話に応じる。
「じゃあ、わかるよね。死んでもしょうがないよね?」
――でも。
(ヴィルヘルム兄上)
気弱だが、穏やかなひとだった。支えがあれば、いい治世をもたらしただろう。
(アレックス兄上)
立派なひとだった。皇太子殺害の陰口をたたかれても、行動で払拭しようとした。
(ヘルムート兄上)
頼れるひとだった。頑張っていこうときょうだいたちに絶えず声をかけてくれた。
(アイリス姉上)
芯の強いひとだった。つなぎの贄だとわかっていただろうに、弱音を吐かなかった。
(ユリウス兄上)
最初からあんなひとじゃなかったのに。甘言と、欲に目をくらまされて。
(テオドール兄上)
ああ見えて努力家だった。周囲が支えれば、いい皇帝になれたのに。
――みんなみんな、竜帝を追放したから、それだけで問答無用で殺されていいはずがなかった。
剣を握り直し、切っ先を向ける。
「……これまで私のきょうだいが死に続けたのは、あなたの仕業ですか」
「そうだよ?」
何の罪悪感もなく、むしろヒトの無知を呆れるように女神が肯定する。
「だって、あんな寒いところで、ふたりで、可哀想」
ふたり、という言葉にアルノルトは思考を巡らせる。
ハディスはひとりきりのはずだ。あんな子どもが周囲の協力もなくたったひとりで生き残り成長していることに、周囲は恐怖を抱いている。誰か庇護者がいるという報告は――ヴィッセルからしか聞いていない。
(竜神ラーヴェが、本当にいるのか)
自分たちの行いを、ハディスにしてきた仕打ちを、見られていたのか。整理が追いつかない胸中に去来するのは、羞恥と、そして――
「なのに、いいんだって。意味がわからない」
ラーヴェ皇族である矜持と、待っていてくれる感謝だ。
「あなたは間違っている、女神クレイトス」
だから、臆さずに言える。
「竜神ラーヴェは決してあなたのやり方を認めない」
「は?」
「だってそうでしょう。あなたの行いで、竜帝を帝都に戻せましたか? あなたがどうして竜帝を帝都に戻そうとしてくれるのかはわかりませんが――竜神も、竜帝も、戻っていない。これが、すべての答えじゃありませんか」
空を模した女神の瞳から、光が消えていく。まるで底なしの洞穴のような、暗闇を思わせるそれ。
「お前、本気で言ってるの」
「ええ。――引いてください、女神クレイトス。まだ間に合うかもしれない」
「人間風情が指図するな、えらそうに!」
風が、拭いた。花の香りがする、黄金の風。だが暗闇の部屋の中では、まるで吹雪のようだ。行き場を失ったように、クレイトスを中心にした魔力の刃が、額を、頬を、首筋を、肩を、横腹を、太股を切り裂いていく。
「お前に何がわかる! 人間は嘘つきばっかりだ、おにいさまが戻らないのはお前らのせいだ、クレイトスのせいにするな!!」
アルノルトの部屋も、その周囲も、厳戒態勢が敷かれているのにまるで誰もいないかもように静かだ。女神の結界か、魔術か。助けはこないだろう。
「もういい、死ね、人間」
いずれにせよ、ただのヒトが神にかなうはずもない。
きっと倒れれば楽だ。でも。
「――だったら、私が、竜帝を戻してみせましょう」
それでもあがくのだ。いつか、神の手を離す日のために。
剣を向ける切っ先をぶらさずに、アルノルトは息を呑んだ女神に宣言する。
「私が死んで、竜帝を帝都に戻します。間違いを糺します。そうしたらあなたは、ご自分の間違いを認めてください。少なくとも、私はあなたのできなかったことを、正しくやり遂げたのだから」
「クレイトスは間違ってなんかいない――だって!」
愛してるんだから。
(それを言うなら、誰だって)
腹にあいた穴を、そこから噴き出す血と命を見つめながら、アルノルトは剣を落とす。
(ハディス)
いつか助けようなんて、甘えだった。それだけだ。何もかも振り切って助けにいく人間がたったひとりでもいいから必要だったのに、自分はそうはなれなかった。そこまでの人間だった。
今は竜神ラーヴェが肩代わりをしている。ヒトはいつか、その代償を払うだろう。
でもどうか。
お前にいつか、神が背負った分の、たくさんの手が差し伸べられますように。
――お前が、ヒトの手より神の手を、選んでしまう前に。
■
「お前は本当に、上達しないな……工夫とか考えないのか? 理の神だろう」
「それを言い出したら、竜が料理するってのがそもそもおかしいだろうが」
そう言われたら正しいような、屁理屈なような。
とはいえ今年もそうくる気がしていたので、あらかじめ用意しておいたいちごのジャムを塗り込んで、ハディスは口をあける。
想像通り、甘くなかった。でもあっという間にたいらげて、ハディスは開けっぱなしのテラスから外を見る。帝都の景色は、まだ慣れない。この部屋の広さも、上等な家具たちも。
「ヴィッセル兄上がね。今日、誰も死ななかったら決まりだって」
「……そうか。意外とあっさりだな。もうちょっと、三公とか、色々邪魔してくる気がしてたが……」
「女神が怖いんじゃない?」
残りもののフルーツサラダを食べながら皮肉っぽく笑うと、ラーヴェにしかめっ面をされた。
「そんなに単純な話じゃねーよ。散々ここまでもめてきてんだ」
そういうものか。あまり興味を持てずに、ハディスは朝食をさっさと片づけて、時間に間に合うよう、やたらと豪奢なマントを手に取る。
まだこの重さにも慣れないし、着替えを手伝ってくれる手もないけれど、でも平気だ。
「いこう、ラーヴェ」
「おー、しゃきっとな」
――自分には、手を差し伸べてくれる、神様が、いる。




