いつかの8月15日(前編)
お誕生日おめでとう。
その言葉に、店内を壁に隠れて覗いていたハディスはまばたいた。店主に箱を差し出された女の子が、両腕いっぱい広げてその箱を受け取り、笑顔でありがとうと答える。そばにいる母親が「渡しなさい」と言うが、首を振る。「折角の誕生日ケーキがくずれちゃうわよ」――それでも女の子ははしゃぐ足を止められないらしく、先に歩き出した。
「……誕生日ケーキ」
「そういやそろそろだな、お前の誕生日」
足元でラーヴェがつぶやく。
「どっかにそなえてくれりゃいいんだけどな~、焼き菓子はたまにあるけど、さすがにケーキはな……」
「……ヴィッセルあにうえ、元気かな」
今日はお前の誕生日だから――そう言って乾きかけた、でも真っ白でいちごがのったまあるいケーキを持ってきてくれた。小さなケーキだったけれど、ふたりで食べるには少し大きくて、切り分けるのも上手にできなくて、でも楽しかった。
「食べたいか、ケーキ」
問われて、ハディスは考える。どんな味だっただろう、あのケーキ。覚えているのは「よかった」と微笑む兄の優しい顔と「よかったなあ」とほっとしているラーヴェの優しい声ばかりだ。
だから、首を横に振った。
「それより小麦粉がほしい」
「……お前どんどんたくましくなってくな……」
「だってそれがあればパンが作れるんだよ!」
さっきから隠れ見ている食料品店には、塩や小麦粉も売られているいわゆる『何でも屋さん』だ。ハディスが送られた辺境の村は山奥にあるため、仕入れが難しく、小売店と呼べるものも片手で数えられるほどしかない。魚や肉、野菜などは自給自足か、物々交換のほうが早いくらいだ。
ハディスも頑張って自給自足を試みているが、まだここにきて数ヶ月。監視ついでに放りこまれる支給品、竜神ラーヴェのおそなえなど、色々やりくりしてきたが、そろそろ乾パンがなくなりかけているため、「自分で作るしかない」という結論に達した。色々調べて、調理具など必要なものはそろえた――小麦粉以外。
すなわち、今日は初めてのおつかいに町までおりてきたのである。昨日はラーヴェがお店側になって、買い物の練習もした。
(だいじょうぶ)
ラーヴェの偵察によると『山の古屋敷にいる訳アリの子』には関わらないよう言われているらしいから、ぶかぶかの帽子を目深にして、顔も見えづらいようにしてある。顔だけは絶対に見られるな、一発でわかるから――というのがラーヴェのお達しだ。
「いくぞ、ラーヴェ」
「おう」
ラーヴェはそばにいてくれるけれど、人間には見えない。店の前から客がいなくなったのを見計らい、ハディスは足を進める。あの、と声をかけたらいかつい店主が振り向いた。
おっかないけれど、勇気を出して、握り締めていた硬貨を見せる。
「こむぎこ、ください。ひとふくろ」
「――お前、どこのガキだ」
「えっ」
びっくりして顔をあげたら、帽子が落ちてしまった。慌ててかぶり直したが、見ると店主の顔色が変わっていた。どうしてだろう。視線を泳がせている間に、店主の笑顔がゆがむ。
「――それじゃあ、たりねえなあ」
「え……」
「金だよ」
ハディスは店頭に小分けして置かれている小麦粉の値札と、自分が握り締めている硬貨を確認する。きっちり、おつりも出ない値段だ。
「あってるよ」
「たった今、上がったんだよ。お前、まだ持ってるだろ。出せよ」
まばたくハディスに、店主が手を伸ばして帽子ごとハディスの頭をつかんで上を向かせた。
「い、いたいよ」
「お前、山の上にいるガキだな? どんなおっそろしいガキかと思ったら、可愛いツラしてんじゃねえか。こりゃあ、高く売れるんじゃ――」
途中で男が口を止めた。ハディスから手を離し、その手を自分の胸に押し当てる。どんどん青ざめていく顔色に、ハディスは横のラーヴェを見た。
自分とおそろいの、金色の目が冷たく光っていた。
ふわっと店頭の小麦粉が一袋浮いて、ハディスの腕におさまる。
「ほら、ハディス。棚に金を置け」
「う、うん」
小麦粉があった場所に、ハディスは硬貨を置いた。動きを店主が目で追っているが、何も言わない。口から、ひゅ、ひゅ、と息が漏れているだけだ。
「買い物が終わったらなんて言うんだ? 練習しただろ」
「あ、ありがとうございました!」
ハディスがぺこんと頭をさげた瞬間、店主が地面に尻餅をついた。ラーヴェが叫ぶ。
「よし撤退!」
「えっあ、待ってラーヴェ!」
翼を動かし、飛んでいくラーヴェをハディスは小麦粉を抱いて追いかける。店主が追いかけてくる様子はなかった。
「ラーヴェ、何したの?」
「あ~~? 買い物だろ」
「そうだけど……あれっ?」
ふと見たら、ラーヴェの頭上にも小麦粉の袋が浮かんでいる。自分の腕にも小麦粉はある。
「ラーヴェ、盗んだ!?」
「あん? 指導料だよ、竜神様の」
「ええぇ~……」
いいのだろうか。顔をしかめるハディスに、ラーヴェが面倒そうに答える。
「ちゃんと金は置いてきたから」
「いつ」
「たった今、店主の頭上に、転移で」
そういう買い物の仕方でいいのだろうか。だったら自分がわざわざ買いにくる必要はなかったのでは。
(なんでいきなり小麦粉の値段があがったんだろ)
疑問がたくさんあって、よくわからない。
とりあえず走るのをやめてラーヴェの頭上に浮いている小麦粉を取ろうとしたら、取る前に消えた。首をひねると、ラーヴェが素っ気なく答える。
「これは俺が別で保管しとくから」
「じゃあ、こっちも持ってよ」
「駄目だ、ちゃんと自分で持って歩け。いきなり小麦粉が消えたら不自然だろ」
「さっきの浮いてる小麦粉のほうがよっぽどおかしい……」
ラーヴェは返答に詰まって、そっぽを向いてしまった。こういうときのラーヴェは何をどう聞いても答えてくれない。何か、自分で作る気なのだろうか。
でもいつだってハディスの味方なのはわかっているから、追及はしない。何より、これでパンが作れる。だから誕生日ケーキのことなんて、もう忘れていた。
■
椅子を蹴るようにして立ちあがると、グラスが倒れて中のジュースがテーブルクロスに染みを作った。にぎやかだったパーティー会場が一瞬だけしんとする。それだけが自分がこの場でできる報復で、でもそれ以上できない惨めさに苛立って、ヴィッセルは踵を返した。
途中、主役の横で目をまるくしている小さな異母弟と視線が交差する――自分の弟と同い年だというのが、また腹立たしい。
「おい、ヴィッセル、待てよ」
お節介な異母兄が会場の外まで追いかけてきた。ヴィッセルは振り向きもしなかったが、大人になろうとしている異母兄とは歩幅からして競争にならない。あっという間に追いつかれてしまう。
「どうした、なんか言われたのか」
「なにも。顔を出すだけでいいというおはなしでしたよね、もうしごとはしました」
「仕事ってお前、アルノルトの誕生会だぞ。きょうだいとして祝うくらい」
「あしたはハディスの誕生日だ」
異母兄が足を止めたので、ヴィッセルも振り向いた。
「わかってますよ。そんなこと表立って言うなって、いうんですよね」
異母兄は、痛そうな顔をしていた。かえって小気味よかった。後ろ盾もない、ただお人好しなだけの、役立たず。人望があるとか優秀だとか、そんなもの関係ない。
あの弟を守れもせずに、何がラーヴェ皇族だ。
「……ハディスの件を、放っておく気はない。時間はかかるかもしれないが、いつか」
「安易な約束をするものじゃないですよ、ルドガー兄上」
追いかけてきたのか、もうひとり、現れた。ヴィッセルはぐっと両の拳を握る。
穏やかな笑みは、冷たくていつもヴィッセルを見下している。
「兄上、戻っててください。ヴィッセル、お前もいつまで意固地になってるんだい。去年はおとなしくしてたのに」
「がまんしてたのは、ハディスのためです」
翌日は、ハディスの誕生日だ。あの頭にくるほど優秀で権力もある異母兄が、自分の誕生日に紛れさせて小さなホールケーキを用意してくれると知っていたから、どんなに惨めでもそれを受け取るために、出席した。
でも今年からもう、弟はいない。
「ハディスは明日、パーティーどころかケーキだってないのに。いいご身分ですね」
ルドガーと違って、もうひとりの異母兄は、痛そうな顔をしない。ただ、呆れたような顔をする。
「だったら余計にだ。お前はハディスを助けるためにも、まず自分の安全を確保しなきゃいけないだろう」
「わたしは、アルノルトの庇護なんかいらない」
きっぱり言い切って、ヴィッセルはふたりをにらみつける。
「全員、竜帝に粛清されろ」
今、いちばん帝城でおそれられている呪いを吐いて、ヴィッセルは踵を返す。
悔しくて涙が浮かびかけたが、奥歯を噛み締めて堪えた。みんな大嫌いだ。でも、いちばん嫌いなのは、弟にケーキひとつ届けられない、無力な自分だ。
■
兄のパーティーがちゃんと続いてよかったと思う。でも、何事もなかったかのように続くことに薄ら寒さも感じていた。
「ヴィッセルは?」
「少しほっといたほうがいいよ、あれは。余計に意固地になるだけさ」
あのいけ好かない異母兄は、この居心地の悪さに耐えられなかったのだろうか。
だがこういう公の場では、色んなことがわかるようになるまでは思ったことをそのまま口にしてはいけない。兄にもあらかじめ注意されていたことだ。だからリステアードは、申し合わせたように会場隅の分厚いカーテンの奥へと引っ込んだ兄たちの会話を黙って聞いた。
「変に目をつけられないといいんだがな……」
「父上たちなら、それどころじゃないでしょう。何か必死で隠してる。ゲオルグ叔父上まであちこち飛び回って、いったい何を――」
「それ以上はやめとけ、マイナード。……リステアード、ごめんな。つまんない話して」
ルドガーに話しかけられ、リステアードは急いで首を横に振る。
「だいじょうぶです、ちゃんとできます。アルノルト兄上のしゃこうですから!」
「うーん、この年で呑み込みが早いなあ。もうちょっと子どもっぽくてもルドガー兄上は許すぞー? ……まあ、俺がそんなこと言えた義理じゃないか……って」
ルドガーがマイナードに頭をはたかれる。
「あなたこそですよ。今は誰かを助けようだなんて思わないでください」
「思うのもだめか」
「口や態度に出るじゃないですか、あなたの場合。……今は駄目です、本当に」
「今は、か。ならいつか僕らは、しっぺ返しをくらうかもしれないね」
ずっと黙っていた兄の静かな言葉に、マイナードとルドガーが顔をしかめる。
「不吉なことを言うんじゃないよ、自分の誕生日に」
「はは、そうだね。……気にしてもしかたない。今、やれることをやろう」
そう言って兄が顔をあげて、パーティー会場に戻っていく。今日のパーティーの主役である兄が向かうのは、最年長の異母兄――ラーヴェ皇太子のもとだ。さっき、ヴィッセルの振る舞いで「この先ラーヴェ皇帝となる自分に協力してほしい」という話が、途中で遮られたから返事をしにいくのだろう。
リステアードは実兄をいちばん尊敬しているけれど、次のラーヴェ皇帝になるのは最年長の異母兄だと決まっている。わかりきっていることなのに、なぜ異母兄はあんな確認をしたのだろう。大人の、兄たちの考えていることはまだリステアードにはわからない。
でも、わかるようにならねばならない。いつかでいいから――いつかでいいのは、いつまでだろう?
いつか今やっていることの意味を理解できたとき、自分たちは代償を支払わねばならないのだろうか。
そう考えると怖い気がした。竜神ラーヴェは理の神だ。愛の女神と違って、間違いをすべて赦してくれる優しさは持ち合わせていない。
でも竜神ラーヴェは間違いを糺す神だから、きっと償う機会をくれる。
そう信じて、リステアードもまた煌びやかな会場に戻った。




