君のそばにいる、誰かの話(前編)
「ラーヴェ様、陛下は大丈夫――」
問いかける相手がいないことに気づいて、ジルは固まった。
かたわらに膝を突いたリステアードがほっと息を吐き出す。
「呼吸はしている、脈も大丈夫だ。気絶しているだけだろう」
「隊長、かわれ。俺が陛下、かつぐ」
ジークに言われ、ジルはハディスの頭をぎゅっと抱き締める。落ち着け、大丈夫――本当だろうか。もうそれを教えてくれるラーヴェはいない。
「ジルちゃん?」
カミラに気遣わしげに呼ばれて、慌てて首を横に振り、ハディスをジークにあずけた。自分では身長差があるので、運ぶにしても引きずってしまう。
「どうする」
そう、大事なのはどうするかだ。立ち上がり、振り返ると遠くにベイルブルグ城の尖塔が見えた。先ほどの黄金と白銀のぶつかり合いが嘘のように、静かな空が広がっている――でも、あそこには、まだ。
「わたし、戻ります」
今ならまだ、間に合うかもしれない。
「ラーヴェ様を助けにいきます」
「えっ? 助けにって、何かあったの」
「ラーヴェ様がどうした」
戸惑うカミラやリステアードの反応で、ジルは今更気づく。そうだ、ラーヴェは彼らには見えない。
カミラたちには、ラーヴェが残ったことも、逃がしてくれたこともわかっていないのだ……ぎゅっとジルは拳を握った。
「皆さんは陛下をつれて、ノイトラールにいってください」
「いや待て、そういうわけにはいかない、ジル嬢。君は」
「無駄じゃ、ぴよぴよ」
少し離れた場所に、汚れるのも構わず地面にあぐらをかいたロルフが、そう言った。ジルたちにもベイルブルグにも目をくれず、何かを手帳に書き付けている。
何を書いているのか。問おうとした瞬間、ベイルブルグのほうから風が吹いた。悪寒のままにジルは振り向く。
それは、地面から輝いた。
黄金の光が空に向けてまっすぐ跳ね上がり、そのまま円を描いて広がる。結界だ。ベイルブルグ城の尖塔を呑み込み、雲をはらい広がったそれは、まるで球体の要塞のように鎮座した。
「ベイルブルグが……」
占拠されたという言葉を、リステアードは飲み込んだのだろうと、思った。
「立て直しじゃ」
手帳を閉じ、懐にしまってロルフが立ちあがった。
「とりあえずノイトラールにいく。いいな、ぴよぴよ。竜帝という大駒をとられるわけにいかん」
「それは……でも、ラーヴェ様が」
惑いがうまく言葉にならない。だが、ロルフは表情ひとつ変えなかった。
「だったら余計だ。竜神が竜帝を逃がしたっちゅうことじゃろ」
はっと、いきなり視界が開けたように思えた。
「うっきゅーーーーー!」
「うわっ!」
頭にしがみつくようにして丸くて黒い影が落ちてきた。それを追いかけるようにして、ゆっくり大きな影がおりてくる――竜の王と女王だ。
「ロー、あぶないだろうが!」
『撤退するぞ、竜妃よ。竜の王の命令だ』
ジルは頭から胸におりてきた仔竜を見つめる。大きな金色の目がジルを見返した。
「うきゅ」
だいじょうぶだよ。
そんなふうに聞こえるのは、願望だろうか。
「おーーーーい、お前達!」
「えっ嘘、エリンツィア殿下!?」
遠くから飛んできた竜騎士団の影に、カミラが両手を大きく振って合図を送る。
「隊長、行くぞ」
ジルの肩をジークが叩き、ローの首根っこをつまみ上げてつれていった。レアは空を見あげている。竜たちに指示を出しているのだろう。
「しっかりせい。戦争はまだ、始まったばかりじゃぞ」
背後からロルフの声がかかった。ジルは両手で挟むようにして頬を叩く。
仕切り直しだ。何も終わってなどいない。
まだ左手の薬指に、竜妃の指輪は輝いている。
■
「偽帝騒乱」
空から竜が消えている。竜神の仕業だろうか。それとも女神を嫌ったか。
先ほどまでの怒号や爆音が嘘のように静まり返った瓦礫の街で、ロレンスは地図の裏に文字を書き付けながら歩いていた。見間違いでなければ、女王はこのあたりに落ちたはずだ。
「ワルキューレ竜騎士団の乱」
女神がいれば安全というのは、竜神と対峙していた以上、まったく根拠にならない。早く女王を回収せねば。だがペンを走らせる手も止めない。
「ラーヴェ解放戦争、そこまではたぶん、よかったんだ」
歩きながら考える、考える――繰り返し、もう終わったことを。
「おかしくなったのは、ええと……皇太子の処刑から、か? あの、空に――」
さっきと同じように輝いた、白銀の魔法陣。ひとの目ではすべて視ることすら赦されない、神の御業――。
ライカの大粛清、南国王の動乱、エーゲル半島の大虐殺。
忘れるな、忘れるな、忘れるな。夢になどさせるな。歯を食いしばって、繰り返す。そうすれば記憶は定着する。
思い出した限りを、覚えている限りを、神が消し去った罪を、決して無駄にするな。
神を斃すために。
(ジェラルド王子は、あのままだと……負けただろうな……)
聞いてはいたが、今は妙な哀惜と一緒にその事実が胸に染みこむ。そう、事実だ。夢だけれど、事実だ。
どこだ。どこで自分たちは間違えた? もちろん、ロレンスはすべてを知っているわけではない。でも限りなく近くで見ていた。そうして、最後。
(俺は――……)
仲間を犠牲にして、たったひとつ、やり遂げた。そして、今、彼女は竜妃になっている――……つまるところ、最後に帰結する疑問はただひとつだ。
いったい、竜神ラーヴェは何をした?
(理をねじ曲げて竜妃を誕生させた、だけじゃないのか?)
もしそれだけなら、自分が描いたシナリオでも通じたはずだ。
視界の隅に小さな身体が目に入った。ロレンスは書き付けていたペンと地図を乱雑にポケットに突っ込み、駆け出す。
「女王陛下!」
抱き起こしてみると、まぶたが震えた。
「……ク……レイトス……?」
「すみません、ロレンスです。大丈夫ですか」
はっと目が見開かれ、フェイリスが慌てて居住まいを正す。ロレンスはまばたいた。
「だ、大丈夫です。魔力は、最後以外ほとんどアルカのものしか使ってないので……」
「ならいいですが……」
大きな怪我もなさそうだ。ざっと全身を見て取り、ロレンスは立ちあがる。手を差し出すと、フェイリスは迷ってから手を取った。毎回こうして迷われるのだが、なぜなのかいまだに理解できない。結局手を取るので、問題視はしていないのだが。
「クレイトス様は?」
黒槍はフェイリスのそばにも手にもない。あの半透明の花冠の少女もいない。
「最後の瞬間に、わたくしの身体から出ていった感じがしました。たぶん、竜神を……」
途中でフェイリスが振り返った。ほとんど崩れた城壁の向こう。ベイル城だ。花のかおりと一緒に、風が流れる。
次の瞬間、ほとんど魔力のないロレンスでも、圧で肌が粟立った。まるで景色を塗り替えるように、結界が広がる。視界が霞んだ気がして、振り仰ぐと、空が微かにゆがんで見える。空が青くない。
「……クレイトスの結界です」
同じように空を見あげて、フェイリスがつぶやいた。
「クレイトス様は、あちらに?」
こくり、とフェイリスが頷いた。ロレンスは瓦礫を跳び越え、ベイル城の中へと入る。
「いきましょう。――何があったんです、さっきの戦いで」
「……クレイトスはたぶん、竜神を……いえ、本人に聞いたほうが早いです。そこでまとめて話しま――」
途中で口を閉ざしたフェイリスにじっと見つめられ、ロレンスはまばたく。
「なんですか」
「――あなた、思い出したのでは? かつてを」
「……ああ……竜神が何かしたせいで、もうよくわかりませんが、たぶん?」
え、とフェイリスがまばたく。
「思い出しましたよ、さっきまでは。でも、空に魔法陣が光って、あなたが墜落したあたりからは、夢を見ていただけの感じなんです」
「……ゆめ……」
「クレイトス様が魔術を解除したから、とかじゃないですよね」
フェイリスはこくこくと頷き、崩れて折り重なった建物の下をくぐる。
「そういえば、竜神が、もうあの魔術は使わせないと言っていたような……すみません、クレイトスに身体を貸していた間、わたくしの意識も曖昧で、よく……」
「状況からして竜神ラーヴェがやったんだとは思いますよ。竜も空から消えてます。竜帝も転移で逃げたんじゃないですかね」
「……あの、でも、一瞬でも思い出したんですよね? その、かつての記憶……」
「まあ、はい。ほんとに彼らの仲間だったんですねえ、俺」
「あの、あの、じゃあ……」
壁と倒れた建物の隙間を這って抜け出たロレンスに、フェイリスが振り返った。見あげた少女の顔が、なんだか泣き出しそうになっている。
「かつての、わたくしの、ことも……」
「ああ……かつての自省は聞いてましたけど、自虐じゃなく、ほんとに役立たずでしたね」
フェイリスが珍しく、面白い表情になった。
「今と本当に同一人物か疑いたくなりますよ。いったい何があったんです?」
好奇心で尋ねたのだが、フェイリスはぶるぶる震えて答えない。しかし、かつての彼女は本当に子どもだっただけだ。追及するのも酷だろう。
ついた埃を振り払いながら、ロレンスは話を変えた。
「なんだか不思議ですね。ほとんど接点なかったのに、今こうしているっていうのも」
「……そう、ですね」
ぷいっとフェイリスが前を向いて歩き出す。歩幅は小さいが、ロレンスは追い越さない。
彼女が自分を幻滅させない限りは。
いつの間にか、吐く息が白くなってきていた。もう夏になるというのに、寒いのだ。途中で肌を刺す痛みが和らいで、先を進む少女を見る。防寒の結界を張ってくれたようだ。
あちこち壊れた薄暗い廊下をふたりで歩く。まるで洞穴を進んでいるようだった。
「わたくしが先に入ります」
両開きの扉を前にして、フェイリスが振り返った。
「クレイトスも竜神も、どうなっているかわかりませんから……」
フェイリスが睫毛を震わせている。憂えているのは、自分の身ではない。たかがヒトが、女神を憂えているのだ――きっと竜帝もそうなのだろう。
なんの冗談だと笑いたくなるのをロレンスをいましめるように、強い黄金と白銀の光が目を刺す。
この世界にかみさまは、まだいる。




