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ラーヴェは透ける翼の先を見もせず、ハディスの目を見返した。
「大丈夫だよ。お前は、なんにも間違ってない」
「抵抗しないほうがいいわ、おにいさま。さすがに、わかってるんでしょう」
いつの間にか、飛ぶ先にクレイトスが空中で待ち構えていた。ジルは竜妃の神器を剣に変えて立ち上がる。
だが、クレイトスはジルを見ようともしない。
「あなたは間違ってはいけないひと」
かわいそうなおにいさま。
つぶやいて、クレイトスが黒槍の先をこちらにさだめた。
「クレイトスの言うことをきいてくれたら、みんな見逃してあげる。だって――」
黄金の魔術がまた輝いた。広がっていく。ラーヴェを、呑みこむように。
「これを、止められないでしょう?」
竜帝への怨嗟が、恨みが広がっていく。わかってくれる者はいるだろう。それでも、それはほんの少しだ。
ラーヴェが、起き上がった。皆を見回してから、ハディスを見て、微笑む。
「心配するな。あの術を今から使えなくする。んで、みんなもとに戻してやるよ。女神に悪い夢を見せられてるだけだからな。わかるか、ハディス。あれは女神の罠だ」
ハディスが戸惑いながら頷く。ジルはひそかに息を呑んだ。
(――ひょっとして、ラーヴェ様、何か、思い出して……?)
ぐるりとラーヴェがこちらを見た。
「嬢ちゃん、ハディスを頼む」
「はっはい! でもラーヴェ様、どうやって」
「ハディス、いいか」
うん、と答えたハディスは、きっと身体を貸すつもりだったのだろう。
「お前は身体が弱いんだから、ちゃんと飯食って、寝て、あったかくすること」
だがラーヴェはただ、ハディスの顔を両の翼で包みこんで微笑んだ。
ハディスが目を丸くする。
「あと嫁さんの言うことも、よくきくこと。大丈夫だ、もうお前には助けてくれるたくさんの誰かがいる」
金色の、優しい瞳。かみさまの目。
「お前はしあわせになれる。約束だ」
その目が、姿が、目の前から不意にかき消えた。
気づいたら地面にみんながいて、目の前に城門があった。掲げられた看板には、ベイルブルグの文字。ベイル城の尖塔が遠くに見える。
「ラーヴェ?」
ハディスが迷子みたいにつぶやいた。空を見あげる。
白銀の魔法陣が、輝いた。
■
気づけば周囲一面が、白銀の世界になっていた。
何をされたか、クレイトスは一瞬わからなかった。だがすぐさま気づいて仰天する。
上空には神紋。
竜神の神紋だ。
もう威厳ある竜の姿も人間の姿も自身だけでは維持できない兄が、両翼に背負うようにして、神紋を輝かせている。
「おにいさま……!?」
「何にも覚えてなくたって、自分が何をしたのかくらいは想像がつく」
正しいことしかしない兄だった。いつだってそう。愛を解さずに、正しさをつらぬくだけの、かわいそうなひと。
「もう二度とこの魔術は使わせない。そういうふうに、理を書き換える」
だからまさか、想像もしなかったのだ。
「この世界が間違いだとしたら、それは俺の罪だ」
間違った世界を糺すならまだしも、間違いを肯定するなんて。
「もう――……られ、なくても――これ……は……――」
「おにいさま、そんなことしたら――どうして、また消える気なの!?」
違うよ、と聞こえた気がした。
――これは、正しいことなんだよ。
白銀の光にほどけて、兄が笑う。満足げに。
きっと兄は自分が何をしたか、承知しているのだ。もう兄以外、誰にもわからない何か。もう一度選べば神格を堕とすに決まっている何か。
でもわかっていて、もう一度、その何かを選んだ。
クレイトスは絶叫した。これではかつての、二の舞ではないか。
駄目だ駄目だ駄目だ、もう一度時間を巻き戻してやり直す力なんて、残っていない――このままだと、竜神は消える。絶叫する。
(クレイトス、魔力の使いすぎです!)
誰かの声が聞こえた。でも止まらない。ちゃんとつなぎとめないといけない。
天の道標を、落とさないように。
だって、クレイトスはいつだっておにいさまとずうっといっしょにいたかっただけだ。
それが間違いのはずはないのに、いつだって間違いにされる。今もまた、クレイトスが間違ったみたいに、世界が嘲笑う。
■
白銀が黄金とまざりあって、霧散した。何もかもかき消して、空と大地から神紋が消える。
そしてただの風のように、凪いで、草花を、木々を、雲を流していった。
反射的に頭をかばうようにして伏せていたカミラが起き上がる。
「何、何が起こったの? ……あれ、なんでベイルブルグの前?」
なんでここにいるの、というカミラの疑問にジークが答えた。
「さあ……陛下が、ラーヴェ様になって出陣して……なんか、変な夢見たような……」
「そうよお、なんか時間を巻き戻したとかどうとか言って」
みんな忘れたわけではなさそうだが、先ほどと反応が微妙に違っている。ラーヴェがやったのだ、とわかった。
きっと、かつてあったことを、すべて夢にしてしまった。正しい時間を、まげてしまった。
(なら、ラーヴェ様は……)
拳を握って、ジルは呆然としているハディスに近づく。
「陛下。……ラーヴェ様は?」
ハディスが膝からくずおれる。
「嘘だ」
ハディスはジルのほうを見なかった。
「嘘だ嘘だ……嘘だ、ラーヴェ」
つぶやきはまるで、泣き声のように。
「ラーヴェが消えるなんて、そんな、わけが――……」
そしてすべて拒絶するように、ハディスがその場に倒れこむ。
慌てて抱き起こしたジルの腕の中で、ひとすじだけ、涙をこぼれていった。




