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女神がまた時間を戻したのかと一瞬、思ったが、皆の見目は変わっていない。錯乱している者もいる。おそらくは、皆は思い出したのだ。
ここで何があったか。ハディスが何をしたか。
「これで竜帝に味方はいない」
「ぬかせ! この魔法陣を壊せばいいだけだ!」
「不可能よ。これは神紋だもの。ヒトのお前に壊せるものか!」
横払いされた黒槍にジルは吹き飛ばされた。魔法陣の輝きは、ベイル城まで飲みこんで、さらに広がっていく。
「壊せるとすれば、おにいさまだけ。でもおにいさまにはできない! だって理をまげられない――降伏しなさい、竜妃。今ならおにいさまを差し出せば見逃してあげる。先に散った、他の竜妃たちみたいに、憐れんであげる」
「ぬかせ!」
空中で回転し、ジルはもう一度竜妃の神器を握り直す。
「魔法陣内の人間にしか効果はないんだろう! それにその魔法陣を維持するには膨大な魔力がいるはずだ、広げるならなおさらな! だからお前は、アルカから魔力を奪った――わたしは」
輝く黄金の槍を選んだのは、それがふさわしい気がしたからだ。
「愛でお前に負けるつもりは毛頭ない!」
魔法陣の結び目に、槍を振り下ろした。だが瞬時に弾き飛ばされた。女神がおかしげに指を向けて笑う。
「言ったでしょう。これは愛ではなく、理よ。おにいさまがいつもいつもお説教する、正しい現実よ!」
くそ、とジルは歯噛みして着地し、クレイトスが突き出してきた槍を受け流す。ぎぎぎぎ、と嫌な音を立てて槍の柄と柄がこすれあった。女神が唇を三日月にゆがめる。
「それにねえ、魔法陣を解除してどうするの? みんなもう、思い出しちゃったのに」
力まかせに女神を振り払う。女神はまだ笑っていた。本気で戦う気がないらしい。
放っておけばこのままハディスの味方は減っていくからだ。くそ、とジルは内心で毒づく。
ただでさえ場所が悪い。ベイルブルグは一度燃えて皇帝直轄の今の水上都市ではなく軍港都市となっていた。そこから偽帝騒乱、ナターリエ皇女誘拐事件、そして――ジルは両目を見開いた。
(リステアード殿下!)
よりによってハディスに処刑された彼が、今、ここにいる。
「全部なかったことにはできないのよ」
振り返ったジルの目に、ちょうどその光景が飛びこんできた。
ハディスの背後を突くように、リステアードが大きく槍を振りかぶっていた。太陽を背にしたその顔は見えない。呆然としているのか、ラーヴェもハディスもよけない。動けないのかもしれない。
あんなに優しくて、愛してくれた、やっとわかりあえた兄が、自分に刃を向けるなんて、信じられなくて。
駄目だ。
手を伸ばす。女神の笑い声が聞こえる。
「何もかもおにいさまの思いどおりになんて、させるものか!」
「やめてください、リステアード殿下! 陛下は」
ああでも、ジルは知らない。
リステアードがどんな思いで蜂起したか。何を想って処刑されたか。彼らが本当は、どんな関係だったのか。
全部なかったことにして進んだ道が正しかったのかどうかでさえ、考えたこともなくて。
切られたハディスの黒髪が宙に舞う。
そのままリステアードの槍は、ハディスの頬をかすめ、ジルの頭上を通り過ぎ、女神には届かずに落ちる。
「……正直、何が、なんだか、わからないが、僕は……間違いには、できないんだ」
がばりと、リステアードが顔をあげる。そして息を吸い込んだ。
「全員、今を見ろ! 守りたかったものはなんだ? 助けてくれたのは誰だ? 今、争いを引き起こしているのは誰だ!? 恐怖にのまれるな、安易にすがるな、目をさませ! 僕は弟を信じる、それが今の僕の選択だ! ――この選択に」
静まり返った中で、ブリュンヒルデが両翼を広げる。
「今の我らの選択に、竜神ラーヴェの加護よあれ!」
下から、歓声が上がった。ジルを口元を押さえた。泣きそうで、笑ってしまいそうだ。
当のリステアードは素知らぬ顔で、弟の腕を引く。
「何をぼうっとしている、ハディス――いや、今はラーヴェ様か」
「う、ううん僕だよ。ラーヴェ、僕の前に飛び出して……」
ハディスの視線の先にラーヴェがいつもの姿で浮かんでいた。リステアードからハディスをかばおうとして飛び出たのだ。ハディスの手で、リステアードを傷つけないために――でもそれは杞憂に終わった。
ラーヴェが何も言わず、ジルのもとへやってくる。
「ラーヴェ様?」
「……間違いなんかじゃないよな、と思って」
ラーヴェは顔をそむけて、そうつぶやいた。ひょっとして泣いているのか。ジルは笑う。
「そうですよ、間違いなんかじゃないです」
「よく言ったぞ、それでこそ竜帝の兄、ラーヴェ皇族じゃあ!」
「逃げるわよ、ジルちゃん!」
「陛下もだ! いったん立て直さないと!」
竜に乗ったカミラが腕を伸ばしてきた。それをつかむ。ハディスはジークの竜に乗せられた。
呆然と立ち尽くしていたクレイトスが、顔色を変えて叫ぶ。
「人間風情が――おにいさまを返せ!」
フェイリスを中心に聖槍がまた分裂して襲い掛かってくる。ラーヴェが前に出て、結界を張った。だが海からは対空魔術が、地上からは岩も投擲されてくる。まだ竜帝を恐怖と見做す者がいるのだ。すべてを弾けない。けれど、ジルたちの周りを守る竜の姿がある。
「ワルキューレ竜騎士団、竜帝をお守りする!」
「東だ!」
地上から叫んだのはヒューゴだった。
「あっちなら住民の避難も終わってる、誰もいない――行け、逃げろ! 立て直せ!」
「お頭、住民どもが竜帝を出せって押しかけてきてんだけど!」
「あァ!? そんなもん黙らせろや、丁重にな! なんたって俺たちゃ、皇帝陛下の覚えめでたい北方師団様だぞ!」
「ちげえねえやあ!」
笑い声と一緒に砲撃が始まる。カミラが笑った。
「意外と恩を知ってるわよねえ、あいつら」
「カミラ、ジーク」
カミラやジークも思い出したはずだ。だがカミラはぱちんと片目をつぶって、ジークはつぶやく。
「今のほうが給料低いのは納得いかねーが」
「そ、そそそそそそれは早急に改善を」
「いいのよお、楽しいから。でもあの子は――」
東に向かって旋回すると、岬が見えた。残っている影はひとつきりだ。
「変わってないわね」
「だなあ」
「余計なことを考えるな、めっちゃきとるぞ!」
ロルフが叫んだ瞬間、ラーヴェの結界が割れる音がした。一本だけこちらに向かってきた聖槍を、ジルはつかんで、クレイトスに向けて投げ返す。地上で轟音と煙があがる。
だが、その爆風に煽られるように、ラーヴェの小さな身体が飛んだ。その身体を、頭にローを乗せたレアがすくう。
慌ててジルはカミラの竜からレアに飛び乗った。ハディスも移ってくる。
「大丈夫ですか、ラーヴェ様!?」
「ラーヴェ、僕の中に戻れ! 女神を全部お前が対処する必要はない!」
「ああ……クソ」
目を開いたラーヴェが、笑った。ハディスを見る。
「むかつくよな。……ここが、間違いだなんて。今の、お前が……いや、違うか」
「いいから、お前が休まないと――」
途中でハディスが息を呑んだ。ジルも同じものを見て、青ざめる。
ラーヴェの白銀の翼の、先が、透けていた。




