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足元に走った女神の魔法陣に、ハディスは一瞬靴底を浮かせたが、何も起きなかった。あれ、とまばたく。攻撃でなかったことに、ではない。
意識がある。
(ラーヴェ? 何された、今?)
「――いや、何も……ただ女神が、何か――」
雑音のように声がまじった。
竜帝だ、と自分たちをさす声だった。歓声から一変した、ざわめき。
――竜帝だ。どうしてここに。
――どうして。
――街が、また。
――街を、また。
――燃やしに。
誰かが石を投げた。それはハディスに届かず落ちたけれど、よせられた視線に、たじろぐ。
「竜帝がいる、竜帝が! 街をまた燃やす気だ!」
「火は!? 火はどうなったんだ、妻が、娘が……っ」
「ど、どうして生きてるんだ俺――死んだはずなのに!」
視線を動かすと、近くに知った顔があった。青ざめてこちらを見ているヒューゴが、あとずさり、首を振る。脅えたように。
「ベイルブルグの民よ、真実を思い出しましたか?」
汚れた頬で、歌うように、女神が告げる。黄金の輝き渦巻く魔法陣の中心で微笑む。
「わたくしは女神クレイトス。あなたたちを助けにきました。竜帝に街を燃やされ、家族を殺され、戦争に駆り出される、あなたたちを」
なんの話だと、ハディスは顔をしかめる。だが、周囲は聞き入っていた。
そして、脅えたように、けれど視線をさだめる。
自分に向かって。
「さあ、今こそ竜帝を斃すのです!」
怒号が上がった。反射的に地面を蹴ると、矢が飛んでくる。当たりもしない、なんでもない攻撃だ。
けれど軍港の兵たちも、誰も彼もが、ハディスを――竜帝を狙っていた。
「竜の首を落とせ! あいつらは竜帝の手先だ!」
「また燃やされるぞ、撃ち落とせぇ!」
軍港から砲撃が飛んできた。叩き落とした背後から、今度はクレイトスの対空魔術が飛んでくる。
(なんだ、これ――ラーヴェ!)
「わからん、女神がなんかやったとしか――」
女神が、地上から槍のように一直線に飛んできた。それをラーヴェの前に飛びこんできた黄金の剣が跳ね返す。
「陛下!」
飛びこんできたのは、小さなお嫁さんだ。だがほっとしている暇はない。
女神がずっと笑っている。腹の底で、ずっとずっと、隠れていたみたいに。
「まだ思い出さないのお、おにいさま? みんなは思い出したのにね」
笑いながら、クレイトスが力を振るう。また魔法陣が輝く。神紋に似ているなんて、どうでもいいことに気づいた。つまりこれは神の御業だ。何かの罠。
けれど、悲鳴が耳をつんざく。錯乱と狂気が、向かってくる。
ドウシテドウシテドウシテ――アイツハ死ンダハズ、生キテル、助カッタ、アアだけれども。
竜帝が殺しにきた――また殺される!!
殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ、殺される前に!
女神の哄笑と一緒に、憎悪の視線が突き刺さる。四方八方から飛んでくるのは、紛れもない殺意だ。
お前のせいだ。お前がいなければ。お前さえ生まれてこなければ。
「ハディス、聞くな!」
「そうです、耳を貸す必要はありません!」
ジルが女神に飛びかかっていった。
「今すぐ皆を元に戻せ!」
「いいわよ、おにいさまが這いつくばって赦しを請うなら戻してあげる! だっておにいさまは戻せないでしょう?」
クレイトスの哄笑が響き渡った。
「だってこれは、おにいさまのだあいすきな、正しい世界なんだもの!」
「レア、竜たちを撤退させろ! ハディス、いいな!」
クレイトスは笑ってジルの剣を弾き返し、ふと静かになる。
「でも、おにいさまは国とヒトを守るのね」
足首に魔力の縄がまきつき、ジルが引きずり落とされた。落ちるジルの身体に、ベイルブルグの兵が銃口を向けて、放つ。かっとなった。
(ラーヴェ、かわれ!)
「落ち着け、馬鹿! 女神の罠だ、嬢ちゃんは無事だろ!」
「陛下、わたしは大丈夫です! 落ち着いて」
銃弾を握り潰したジルが振り向いて、笑顔を向けてくれた。その背中に怒声が飛ぶ、
「あの子ども、竜帝の手先だ! 化け物だ!」
「いや、あれは噂の軍神令嬢じゃ――!?」
「わたしは竜妃だ!」
叫んだジルが、軍港の地面に拳を叩き付ける。われた地面と、衝撃で海に兵士たちが落ちていく。
「正気に戻れ、馬鹿が! ――術を解け、女神!」
躊躇せず女神に向かっていく彼女の背に、泣きたくなった。味方に攻撃されているのに、少しも動じない。冷静にならなければならない。
でもその頭上を、影が覆った。振り返る。両目を見開く。
「ハディス」
ついさっき抱き締めてくれた兄が、竜に乗って槍を、こちらに振りかぶった。




