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また後方で魔法陣が輝いた。クレイトスの軍勢も迫ってくる。
ハディスが立ち上がり、とんと軽やかに甲板を蹴った。ローを肩に乗せたハディスの足場になるのは、竜の女王であるレアだ。
頬を叩いて、ジルもマイネに飛び乗る。クレイトスの船は横並びでまっすぐ、こちらを目指してやってくる。目標はそう遠くない後方にいる。
必ず無事に、傷ひとつつけずに、送り届ける。いや、女神にだって傷ひとつつけさせるものか。ジルは竜妃だ。ついていくことが許される。
「やあ、竜帝君。やっとのお出ましか」
南国王の声が聞こえた。だがその表情がすぐに変わる。
竜神が、器に戻るだけ。ヒトの姿も竜の姿も持っていた、本来の姿にもどるだけ。
だから魔法陣も何も必要ない。
ただ、辺り一帯を白く染め上げながら輪郭を再構築されていく。
長くなった黒髪が澄んだ空に夜を佩く。
風に吹かれるだけで、星屑のように白銀の魔力が舞う。
長い睫に縁取られた瞳が、開かれる。
太陽と月をとかした金色が、世界をまなざす。
誰かがつぶやいた。畏怖をこめて。輝きに焼かれないように、祈りをこめて。
赦しを請うて。
――かみさま。
「撃ち落とせ!」
本能的な恐怖を振り払うような叫びだった。示し合わせたわけでもないだろうに、対空魔術の攻撃が一直線に、真昼の輝きを焼き捨てるために襲い掛かる。
けれどその魔力は、すべて目の前に現れた結界の前に霧散した。まばたきしている間の出来事だった。
「ひるむな、あれにもう大した力はない!」
すくむ兵を鼓舞するように叫んで向かってくるのは、ルーファスだ。
竜帝が、手を開いて、剣を取る。
天を戴く、神の剣。
だが、ジルは瞠目した。レアがいる。女神の護剣は、竜を墜とす力があるのだ。
「陛下、気をつけ――!」
振り払うように、横になぎ払っただけだった。護剣が霧散し、ルーファスが瞠目する。
「お前たち、まさかわかっていないのか?」
落ちていくルーファスを眺めながら、竜帝が答える。
「今、目の前にいるのは、神だ」
天剣が分裂した。
竜帝の前に並んだ天剣が、一斉にクレイトスの船に襲い掛かる。対空魔術を真っ二つに切り裂き、結界を突き破り、船を沈める。
鳥のように軽やかに、鋭く飛び交う天剣は単純な動きではない。おそらくすべて遠隔操作しているのだ。威力と精度が違う。
竜帝が空を蹴った。レアが咆哮する。
『竜神ラーヴェ様の御前である! 道をあけよ、人間ども!』
「かまうな、ベイルブルグを落とせ!」
半分にわれた船の上から叫び返したのは、ルーファスだ。
「我らクレイトスの民、女神の愛を信じる者! 慈悲なき理に惑わされるな!」
その手に再び光り輝く剣が現れた。当然だ。彼の剣は、女神を守るためにある。
竜妃の神器が、竜帝を守るためにあるように。
「女神はベイルブルグをご所望だ――竜帝は女神の守護者たる私が止める!」
ルーファスが船から船へ飛び移る形で、ハディスの追跡に向かう。振り向いてしまったジルに、ジークが叫んだ。
「行け、隊長! こっちはいいから!」
「対空魔術再構築。サーヴェル家、竜を墜とすぞ!」
クリスの指示が聞こえる。
「だったら鶏はどうかしら、それ行けソテー!」
「コッケエエエエエ!」
女神の魔法陣はまだ輝いている。そう遠くなく上陸戦に移行する未来がみえた。けれど。
「何を迷っとる竜妃、竜帝をひとりにするな!」
ロルフの怒鳴り声に、ジルは手綱を握り直した。マイネが全速力で飛ぶ。背後でリステアードの号令が聞こえた。
「竜騎士団、散開! 我らは、ベイルブルグは落ちない! 我らには竜神の翼がある!」
半壊した船を魔力で飛ばしているルーファスの背中が見えた。追いついてきたジルを一瞥して、ルーファスが苦笑いを浮かべる。
「やあ竜妃ちゃん、お互いつらい立場だねえ」
「お前は行かせない、女神もここで沈める!」
「強欲だ。本物の代役を相手にするには、僕では力不足なんだけど、ね!」
船を叩き壊すと、ルーファスが海面に立つ。その背後で、魔力の一閃と大きな水しぶきがあがった。魔法陣が割れる。ルーファスがつぶやいたのは、彼の娘の名前だ。
海面を蹴ったルーファスの前に、ジルは回りこむ。
「行かせないと言ってる!」
「どけ竜妃!」
「ルーファス様! 竜帝がきます、頼みます!」
ロレンスの声だ。白い波を立て、ベイルブルグからせり出した岬へ小さな船が走っていく。
今度はジルがマイネを方向転換させる。だがその前に、ルーファスが回りこんできた。
「邪魔をするな、南国王!」
あそこにフェイリスがいる。ルーファスが笑って、少し上を見あげた。
そこには船を追いかけてくる竜帝の――ラーヴェの姿がある。それを阻むように、ルーファスがジルを無視して飛んだ。
「下がれ、道化」
「お断りだ。人間をなめるな、神め!!」
振りかぶった竜帝の一撃の前に、ルーファスの結界が展開した。押しとどめ、割れずにいる結界にラーヴェが片眉をあげたのが見える。
「なるほど、確かに女神の守護者だな」
「そうだよ。僕の代で終わる予定だけれどね……!」
聞き届ける前に、ラーヴェが天剣をまた分裂させた。ルーファスが頬を引きつらせる。
「だが所詮、ヒトだ」
そのまま天剣が一斉に襲い掛かった。一本目でルーファスの護剣を蒸発させ、背後から襲った二本目で結界を割る。三本目をルーファスはよけた。
だが、四本目は、懐に入りこんだ、本物だ。
「心配するな。クレイトスさえ消えればお前たちも解放される」
「――それをっお前が言う」
続きは、血に変わった。胸を貫かれ、吹き飛ばされたルーファスが海に沈む――と思いきや姿が消えた。
「えっ転移した!? あの状態で」
「女神だよ」
海面にそっとおりたラーヴェが顔をあげた。
少女が、ひとり、岬の灯台に立っていた。
その逆卵形の輪郭は、戦場にあっても汚れひとつない。白皙の肌は、降り積もった雪のように透明で、風が運ぶのは、花の香りだ。
女王がラーヴェ本土に、立っている。
どこかから歓声と、怒号があがった。まだベイルブルグ上陸はなっていない。だが、このままでは――唇を噛んだジルは、フェイリスと横に従うロレンスをにらむ。ロレンスはこちらを見てわずかに笑ったが、フェイリスはジルを見ていなかった。
「おにいさま」
その呼び声と、美しい所作で、気づいた。
黒槍を彼女は持っていない。知らず、正しくその名を呼ぶ。
「女神クレイトス……」
ハディスと同じく、その身に神を宿した少女の青い目が微笑む。
「このときを待ってたわ、おにいさま。ねえ、おにいさまは?」
「引く気は?」
ラーヴェは海面に波紋ひとつ起こさず立ったまま、尋ねた。
「聞いてるのはわたしよ、おにいさま」
「ないんだな、わかった」
クレイトスの背後から、大きな黒い影が浮かび上がる。
『我が夫に触れることはまかり通らぬ、女神!』
「おにいさまはいつもそう、クレイトスの話をちっともきいてくれない! 愛を解さない!」
レアが吐き出した業火を、女神は振り向きもせず、気迫だけでかき消した。レアが吹き飛ばされ、地面に墜落する。巨躯が叩きつけられ、岬にひびが入る。
落ちてくる女神が、黒槍を振りかぶる。
「ほら、今だって顔色ひとつ変えやしない!」
「嬢ちゃん。離れとけ。レアを頼む」
「はっはい!」
マイネを上空にあげたジルとすれ違うように、魔力が爆発した。先に女神の軽い身体が吹き飛ばされる。それを分裂した天剣が追いかけるが、突然現れた黄金の輝きに阻まれて砕け散る。
オーロラのように女神を守るそれ。見覚えがあるその輝きに、倒れ伏しているレアに駆け寄ったジルは目を凝らす。顔だけをあげて、レアが唸った。
『おのれ、竜妃ども……!』
あ、とジルは思い出す。ラキア山脈にあった、あの魔法の盾だ。
クレイトスの哄笑が響き渡った。
「かわいそうなお兄様、だから竜妃にも裏切られる!」
空中で女神と対峙したラーヴェは答えなかった。ただ、嘆息した。そして、告げる。
「お前たちはもう竜妃などではない」
黄金の幕に、ひびが入った。
「お前たちが竜妃でいられる道理はもはや存在しない」
クレイトスの笑みが引きつった。
「どの竜帝も、お前たちを心から愛していた。理ある愛を捧げた」
ぱりん、ぱりんと、硝子が割れたような音が鳴る。黄金の盾が、ひび割れていく。
「だがお前たちは理なき愛を求めた。だから俺の愛したお前は、この先にはいない」
ジルは息を呑んで、左手をつかむ。
同じ色の指輪を、なくさないように。
「愛していたよ」
黄金の盾が弾け飛んだ。粉々になった欠片が、涙のように落ちていく。その中を、天剣を握ったラーヴェが天翔る。
「せめて俺は、お前が愛した俺のままでいよう」
「そうやっていつもいつも、自分ばかりが正しい顔をして!」
激昂したクレイトスの周りに花を描くように、黒槍がいくつも現れた。
「愛なき理よ、地に墜ちろ!」
太陽が爆発したかのように、あたり一面を白で覆い尽くした。
空も海も大地もすべて輝いて、魔力が散らしながら花が地面に墜落する――そのあとは。
「理なき愛よ、天を仰げ」
天の道標を握った男が空にひとり、残るだけ。
「お前は俺に、勝てない」




