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扉が開いた。椅子に縛られた身体を少し起こすようにして、リステアードは目をあける。わずかな動きの分だけ、手首の枷が鳴った。枷そのものより厄介なのは、継続する魔力封じのほうだ。普通は一定時間で効果が切れるものだが、弱る気配が一向にない――目の前にやってきた、この男が手ずからかけてくださるせいで。
「やあ、ご機嫌いかがかな。お茶をする気になった?」
「……お誘いは光栄ですが、あいにくです。前国王陛下」
「いけない、喉がかれているね」
近くの水差しを取ったルーファスが、顎をつかんで水を注ぎ込む。
「食事はちゃんととっていると聞いていたけど、君には健康でいてもらわないと。君は竜帝の兄君。大事な人質だ」
空になった水差しが床に落ちて割れる。顎を離され、リステアードは咳き込んだ。
「自死なんてつまらないことしないでおくれよ」
真っ黒な瞳が、唇を噛んだリステアードの顔を覗きこんで笑う。
「足手まといになる前に死ぬなんて馬鹿な真似をしたら、僕は今すぐベイルブルグに攻め込んで君の遺体まで利用し尽くす。竜妃はまだ目覚めない竜帝を守りながら、死んだ君を助けようと苦戦を強いられるだろう。戦争は悲しいね。でも、君も竜妃も失った竜帝がどうなるか見たい気持ちは僕にもあるんだ。やらせないでおくれよ?」
「……結構な趣味をお持ちで」
「ありがとう。さて、君に聞きたいのはそんなことじゃない。僕の息子の話だ」
ルーファスが正面に椅子を置いて、腰かけた。
「どこにいる?」
「何度もお答えしました。それは、私が聞きたいくらいです」
「でも、こんなことを聞けるのは君だけなんだよ」
「殺そうとして運良く生き残った私に? ずいぶん都合のいい話だ」
「うーん、そこは反論できないなあ」
ルーファスは椅子の肘掛けに頬杖を突いて、組んだ足を動かした。
「息子のことだ。フェイリスを止めるため、レールザッツまでたどり着いたはず。そして自分が反逆者に仕立て上げられたと知っただろう。怒ってると思うんだよ。なのに動きがない。真っ先に僕を殺しにきそうなものなのになぁ。あの狸くんは息子との接触を待つ時間も機会もたりなかったから、なんて言ってるけどね……どう思う?」
「私には同じお答えしか返せませんよ」
実際、リステアードが聞きたいくらいだ――まるで棺におさめられたような、あのジェラルド王太子の姿は。
「ここまで正直に話しても、僕をうまく引き込む好機だと思ってくれないかい?」
「そんな淡い希望にすがるように見えますか」
「兄君のことで挑発すれば向かってくる程度には青臭いだろう」
「未熟さをご教示いただき、どうもありがとうございます!」
頬を引きつらせて怒鳴り返すと、笑われた。くそ、とリステアードは毒づく。
「恥じることはない、いいことさ。恨みも悲しみも怒りも持てない人生なんて、ただの抜け殻だからね。しかし、君、そろそろ素直になったほうがいいよ」
ルーファスが手をこちらにかざした。真っ黒な瞳が、楽しそうに細められる。
「君の頭をちょっといじって自白させようか。二度とお茶ができなくなりそうだけど」
「ルーファス様、失礼します。ご報告があります。恐れ入りますが、こちらに」
扉が鳴る音にルーファスが振り向いた。だが手はそのまま、リステアードの眼前にある。
「ここでかまわない。自分の失態が招いた現実を教えてあげないと、ねえ」
意味深に視線を戻したルーファスを、リステアードはにらみ返す。
「ベイルブルグから出てきた船が、白旗をあげて、亡命を求めています」
「身元は?」
「アーベル・デ・ベイルと名乗っています。先代のベイル侯爵で間違いありません」
眼前のルーファスの手がわずかに動いた。だが驚いたのはリステアードも同じだ。
「彼が亡命ねえ。やりかねない人物ではあるが……船に他の人間は?」
「もうひとり、ベイル家の侯爵令嬢――彼の娘がおりましたが、ベイルブルグから逃げるための人質だったようです。対空魔術の射程圏内に入ったあたりで、アーベル・デ・ベイルの手で海へと突き落とされました」
椅子ごと動いたリステアードの顔を見て、ルーファスが薄く笑う。
「ということは今はひとりか。お嬢さんは君の婚約者で、竜帝夫婦とも懇意だったはず。人質としては最適だ。ただ、ラーヴェ側が黙って送り出すはずがないと思うけれど」
「竜が一頭、船を追っておりました。海にも海竜らしき影がいくつか」
「……お嬢さんさえ助かれば先代侯爵などどうでもいい、という判断かな。亡命の理由は?」
「このままでは牢で餓死するだけだからと」
「そりゃあそうだろうなあ。……まあ、信じてみようか。彼のことだ。こちらに手土産もあるんだろう?」
「――ジェラルド王子の居場所を知っている、と申しております」
息を呑む。同時に混乱した。これは、何かの策なのだろうか。ジェラルド王子の身柄をベイルブルグから逃がすことに失敗したのだとしても、どうせルーファスはベイルブルグを落とす気なのだ。交渉になるとは思えない。
リステアードの動揺と混乱を感じ取ったのか、ルーファスが手をおろした。
「いい手土産だ。僕がお出迎えしよう。甲板で待たせておけ。あと、彼も連れてこい」
ルーファスに顎をしゃくられた兵がリステアードを縛っていた椅子の縄を切り、立ち上がらせた。




