35
久しぶりのハディスとの朝食は、慌ただしい部下たちの声に遮られた。
「隊長! 起きてるな、陛下もいるな!」
夫の手料理を噛んで、ごくんと飲みこんで、ジルは飛びこんできた部下たちに振り向く。
「どうした、クレイトスが動いたか?」
「違う、脱走だ。もとベイル侯爵だよ、軍港だ!」
「スフィアちゃんを人質に、船を出せって言ってるの!」
「今行く。陛下」
エプロンを脱いで、ハディスは頷いた。
ジルとハディスがマイネに乗って軍港の上空に着いたときには、アーベルが埠頭につけられた小型の船に乗りこんだところだった。
相手を刺激しないよう、取り囲んでいるヒューゴたちのいる場所にハディスと一緒に飛び降りる。竜帝陛下、ジル隊長、と声があがった。
「私が無事クレイトスの船に亡命するまで、手を出すな!」
アーベルの怒鳴り声に、ジルは足を止めた。
白い布を噛まされ、後ろ手に縛りあげられたままアーベルの盾にされているスフィアがジルに気づいて、首を横に振る。その間にアーベルは船と埠頭を繋ぐ縄を切ってしまった。
「手を出せば、こいつの命はないぞ。お優しい竜帝夫婦は見捨てられまい」
娘を前に突き出して、アーベルが下卑た笑みを浮かべる。
「安心しろ、無事クレイトスの船に着けば、こいつは海に捨ててやる。海竜にでも回収させるがいい」
注意深くジルは周囲を見る。アーベルはひとりきりで、誰か味方がいる気配もない。隣で苦い顔をしているヒューゴに小声で尋ねる。
「なぜ助けない? 相手はひとりだろう」
「え、なんでって」
「行かせてやれ」
驚いてジルは背後の声に振り向く。ロルフだった。
何を、と問いただす前に、船が音を立てて走り始める。
「スフィア様!」
「一頭だけ、見張りの竜をつけろ。それくらいならクレイトスも見逃してくれるじゃろ。白旗あげた船がくるんじゃから――全員、ぐずぐずするな。出撃準備じゃ!」
「って爺さんが言うもんだからさ。てっきりアンタの作戦なのかと……」
ヒューゴの言い分に、ジルは仰天する。
「ロルフお前、勝手にわたしの名前を使って指示を出したのか!?」
「使うじゃろ。それ以外に儂が竜妃の騎士になるメリットなんぞ、ひとっっかけらもない」
堂々と言われると怒りより呆れが勝る。
「お前な……今度はいったい何の作戦だ。スフィア様に何かあったらさすがに許さないぞ」
「どうじゃ、ぴよぴよ夫婦ども。便乗してリステアード皇子を取り戻すっちゅうのは」
へ、と声が出た。ハディスも隣で目を丸くしている。
「この策、のるか?」
ちら、とハディスを見あげると、ハディスが嘆息した。
「……スフィア嬢の無事が大前提だ。でないとリステアード兄上に怒られる」
「結構! なら急ぐぞ、時間がない!」
背中を叩かれ、ジルはよろける。文句を言おうとすると、ロルフは海の向こう、船が出た先を見ていた。小さく、吐息にも似た声は耳には届かなかったが、唇の動きは読める。
――さようなら、だ。




