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物心つく頃から、ベイル城にはどうにも馴染めなかった。ここはお前の領地であり、お前の選んだ花婿が爵位を継ぐ。そう言われても、スフィアにはまだぴんとこない。
けれど、侯爵令嬢として育てられた。それしか価値がないとばかりに、父と、母に。
父母は愛のない政略結婚。自分はどこまでも、侯爵令嬢という役割を与えられた駒だ。それを嘆いたこともあった。けれど今は違う。
与えられた役割から逃げない初恋のひとを、役割を引き受けまっとうする女の子を、役割を誇りにして生きる求婚者を見て、考えが変わった。
だって城の構図がわかるのも、隠された合鍵の場所を知っているのも、侯爵令嬢だからだ。
結局、自分が何をするかだ。何もしないから、役割に潰されてただ嘆く。
すべらないよう気をつけながら、地下への階段をおりる。
二度と会うこともないだろうと思ったひとに、ひとりで会いに行く。
「――お、父様」
まだ夜が明けたばかり。起きているのか不安でおそるおそる声をかけると、思った以上に地下室に音が響いた。奥で、身じろぎする音と一緒に、動く影がある。
洋燈を向けると、鉄格子の向こうに、父がいた。
「……今度はお前か」
痩せて、粗末な身なりになっているが、その目はスフィアが脅えた昔のままだ。竦んでしまいそうな足を動かす。
「お、お久しぶりです。……お、お話があって、きました」
父親は答えない。不愉快そうに、ただ見ている。いつもそうだった。スフィアが何を訴えても、何を訴えなくても、このひとは変わらない。
「りゅ、竜帝陛下に、忠誠を、誓ってください。わっわた、私が、取りなします」
鼻で笑う音が聞こえた。身が竦む。
「リステアードとかいうあの若造を助けるために、儂に味方しろと?」
でもその名前が、スフィアに勇気を与える。
「そ、そう、そうです! へ、陛下に協力なさって、あの方を、助けてください」
スフィアは戦況といった難しいことは理解できない。だが、リステアードが囚われたままでは戦況をひっくり返すのが難しいのはわかる――リステアードを見捨てない限り。
「馬鹿を言え。こんな場所で二年幽閉された儂に、何ができる」
「お、お父様には、クレイトスとの伝手があるはずです! わ、わた、私は、見ました。子どものときお父様が、クレイトスとの誓約だって、何か大事に受け取って」
「何もわからずにものを言うな!」
怒鳴られ、喉が鳴った。でもうしろにはさがらない。
「お前は由緒正しいベイル侯爵令嬢という駒だ、それ以上でも以下でもない! わきまえろ」
「わ、わかって……わかっています! でも、あのっあのひと以上に、今、ベイルブルグをよりよくしてくださる方がいますか!?」
踏ん張って、ただリステアードのことだけを考える。
「敵いもしない相手に突っ込んでいった馬鹿だ! ここで終わるのは自業自得だろう、本人もわかっているはずだ」
「い、いち、一度の失敗くらい、いいじゃ、ないですか……!」
「その一度の失敗がこの状況を招いているのだぞ」
「でもあのひとは、ずっと、ちゃんと、ラーヴェ帝国の皇子で、竜帝の兄でした!!」
役割しかないと嘆く自分が恥ずかしくなるほどに。
あのひとはずっとずっと、そうあろうと姿勢を正していた。それを皆が誇る。讃える。スフィアだって素敵だと思う。
でもそう思ってしまう残酷さに、涙が浮かぶ。
「な、何か、あったんです。そうじゃなくなってしまうような、何かが。でも、それがなんなんですか。い、一度くらい……ただの一瞬も、あのひとは許されないんですか。わ、私は……し、死なずに、いてくれた、だけで……っし、死なせたく、ありません」
あのひとなら、足手まといになる前に自分を処分してしまいかねない。強く両手を胸の前で握り合わせて、スフィアは叫ぶ。
「あ、あなたはもう、もとベイル侯爵。そして私はベイル家の侯爵令嬢で、あなたが持っているものを次期ベイル侯爵に引き継ぐ義務があります! こ、答えなさい。あの、アンサス戦争の英雄が助けを求めたということは、あなたには何か手段があるはずです!」
父親が舌打ちした。
「あいつは本当にろくでもないな。……」
長い長い溜め息のあとに、父親が奥に引っこんだ。
「わかった、手を打ってやる」
驚いて、スフィアは鉄格子をつかむ。
「ほ、本当ですかお父様。本当に、陛下に協力してくださる?」
父は何か取り出しているらしく、背を向けたまま答える。
「お前が私に口答えするとはな。……子は成長するものだ」
自分を認める初めての言葉に、スフィアは息を呑む。うつむいて、目尻をぬぐう。奥から戻ってきた父の靴先が見えた。
「竜帝はもう目が覚めたのか」
「は、はい! クレイトスの戦力が集まりきる前に、リステアード殿下を助けて、決着をつけたいと考えておいでです。わ、私、皆さんに説明してきますね」
踵を返そうとしたら、逆方向に引っ張られた。え、と思っている間に背中に鉄格子がぶつかり、口に布をかまされる。もがこうとしたら、ぴたりと冷たく鋭いものが首筋に当たった。割れた硝子瓶だった。
「安っぽいお涙頂戴で私を動かせると思ったか? 笑わせるな」
振り向くと、父が笑っていた。よく知っている笑みだった。
手段を選ばない父が、縋ってくる相手をも使い潰すときの、あの笑み。
「最後にこの父の役に立てること、せいぜい誇るがいい。出来損ないめ」




