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なんとなく、三人そろって小さな背中を見送ってしまった。
「……無茶、してるかしら」
「微妙だな」
「普通だろ」
言い切ったのは、持っていたパンを綺麗にたいらげたヒューゴだ。カミラとジークに視線を投げられて、にやっと笑う。
「惚れた男が目をさまさなくて空元気とか、普通の反応だろ。俺は逆に安心したね」
「……そう言われるとそうね? やだジルちゃん、可愛いじゃない」
「むしろ俺らはあれか。陛下が目をさましたときの隊長の張り切りように要注意か」
「大変だねえ、竜妃の騎士サマは」
「ほんとにのお」
笑っていたヒューゴが飛び上がった。いつの間にか足元にしゃがんでいたロルフが、長々と溜め息を吐き出す。
「この膠着状態に耐えられん脳筋主なぞ、見捨てるぞ儂は」
「なんなんだこの爺さん、神出鬼没すぎんだろ!」
「慣れて。おじーちゃん、今日は初めましてね。今度はどこで何たくらんでたの~?」
「ふん、今からここでたくらむんじゃ。おいお前」
壁際に逃げていたヒューゴが、自分を指さす。立ち上がったロルフが、頷いた。
「そうじゃ。ミハリ少尉候補生とやらから引き継ぎをしたっちゅうのは本当か」
「あ? ああ、なりゆきでな」
「じゃあ、アーベルの幽閉場所を知っとるな? 鍵をよこせ」
ヒューゴが顔色を変えた。聞き覚えのない名前に、カミラは首をかしげる。
「アーベルって誰よ」
「……もとベイル侯爵だよ。スフィアお嬢さんの父親だ」
「は? あのクズ親父か! おい爺さん、お前、なんでそんな奴に会おうとしてんだ」
「ベイルブルグのことを一番知っとるのは奴じゃ。話をしときたい」
ロルフがヒューゴに手のひらを差し出す。ヒューゴが唸るように尋ねる。
「……竜妃の許可は」
「竜妃には知らせるな。奴のやり方を認めるとは思えんし、奴も竜妃には協力せん」
「おいおいおいおいおい……」
「お前は鍵をなくしたことに気づかなかった、でいいじゃろ。言っておくが、儂はどんな手を使ってでもやるぞ。わざわざこうして言っとるのは、騒がれたくないからじゃ」
ロルフは差し出した手の指を誘うように動かす。だが動かないヒューゴを見て、手を拳に変えた。
「よしなら気絶しろ」
「ちょいちょいちょいちょい! なんなんだこの爺さん、竜妃よりタチ悪いぞ!」
「必要なのか?」
静かに尋ねたジークに、ロルフが振り向いた。
「必要じゃな。あの子狸を出し抜くには」
「――おい、鍵、出せ」
「ちょっとジーク……」
「狸を止めろって頼んだときに、腹はくくっただろ」
ああああ、と天井を仰いで唸ったあと、カミラが前髪をかきあげた。
「しょうがないわねえ、もう! でもアタシたちもついてくわよ、おじいちゃん」
「好きにせい」
「そういうわけで頼む。竜妃にも竜帝にも内密でな」
「大丈夫よ、ジルちゃんも陛下も存在を覚えてない可能性高いわ」
ヒューゴが眉間に指を押し当てて考えたあと、突然踵を返した。ちゃりん、と大きな音を立てて鍵が廊下に落ちる。
「あー、そういえば東の地下牢の囚人に、メシって持ってったっけー? 確認しねえとなあ」
鍵を拾ったカミラは、そのまま立ち去るヒューゴの背中に両手を合わせた。
「東の地下牢じゃな。こっちじゃ」
「なんで知ってんのよ」
「昔きたことがあるんじゃ、ベイルブルグは」
「それってアンサス戦争のとき?」
確か王都を襲撃した船は、ベイルブルグから出たという話だった。まあな、と簡単な相づちだけが返ってくる。
地下牢へ向かう階段は、ヒューゴから預かった鍵であっさりあいた。侵入がばれないようきちっと内側から鍵をかけ直し、日の差さない薄暗い階段をおりていく。
「で? あの侯爵と顔見知りなのか、爺さん」
「でなきゃベイルブルグから攻め込めんじゃろ」
そう言われればそうだ。だが、侯爵位を剥奪され忘れかけられている者に、今、何ができるのだろうか。
階段の終着点は、広い地下室だった。奥には、鉄格子。その奥で、人影が動く。
「――なんだ、今日はあの口やかましい男じゃないのか」
忍び笑いを含んだ声に、聞き覚えがある。
「それとも、ついに処刑する気になったか? あの皇兄が捕まったとなれば、ガス抜きも必要だろうからな」
ぼんやり浮かぶ体型は記憶とずいぶん変わっていた。ベイルブルグの事件からもう二年もたつのだ、と今更ながら思う。
「餓死より処刑のほうが慈悲があるといえば、そうだろう。好きにするがいい」
「相変わらずひねくれとるのお、アーベル」
「気安く人の名前を――…………」
鉄格子に見えた顔が、しかめられた。ロルフは片手をあげて「よっ」などと言っている。
「儂じゃ。ロルフじゃ。どうした、変な顔して。耄碌したか、ひゃっははははは」
「…………………………」
「奥に引きこもりたくなる気持ちなんとなくわかるけど、面会よ一応」
無言で奥に下がろうとしたアーベルに、ついカミラは声をかけてしまう。当のロルフは鼻を鳴らして、ずかずかと鉄格子の前まで洋燈を持って歩く。
「お前、見事に死に損なったのお」
そして鉄格子の前にどっかりとあぐらをかいた。
「ま、あの中でお前がいちばん諦めが悪いからな。今、どんな気持ちぃ?」
「……お前みたいな老けづくりのジジイなど私はしらん」
「ゲオルグの死に様は? メルオニスはどうなったか、聞いたか?」
おい、そこにある水をよこせ、とロルフに言われ、カミラは戸惑いながら言われたとおり、小さな卓の上にある水が入った硝子瓶と、小さなコップをふたつ、ロルフのかたわらに置いた。そしてジークと並んで、階段近くにある椅子に腰かける。
渋々といったように、鉄格子近くまでアーベルがやってきた。
「……聞いている。あの、レールザッツの……イゴールの孫からな」
「あの皇子はやっぱり出来がいいな。お前を引き込むほうを選んだわけだ」
ロルフが硝子瓶から水をコップに注いで、鉄格子に当てる。
乾杯のような音が鳴った。




