ベイルブルグの無理心中(3)
女神の気配を感じて転移した場所は、少しかび臭い地下牢だった。人の気配はない。
ただ煌々と、要所に掲げられたたいまつが燃えている。
影をゆっくりと伸ばして、スフィアがぎこちない笑みを浮かべた。
「クレイトス、まで、き、てくれた。わたしを、ころしに。うれし、かったわ」
「そのわりには滞在中にはおでましになられずに残念だった。逃げ回られて、結局槍の姿も拝めず終わってしまったよ」
「だって、さがし、て、ほしかったの」
スフィアの体がなじんできたのか、女神の口調が少しずつなめらかになっていく。
「女って、そういう、ものよ?」
女神の実体はここにはない。クレイトス王家に保管されている聖槍の中に封じられたままになっている。器を見つけるまで女神はそこから出られない。
だが、女神は女の神である。
権能に目覚めた十四歳以上の女性ならば、誰もが女神の支配下だ。女神の器の持ち主以外は。
(だが、チャンスだ)
人間の女の中に入っている女神を天剣で突き刺せば、女神は神格を落とし力が弱まる。逆に女神が消滅しないことも神話が証明しているが、当分動けないようにはできるだろう――それこそ、器を見つけて復活するまで。
ラーヴェからも不満はあがらなかった。
ためらいも、なかった。
スフィアひとりであと六年が保証されるなら、そのほうが犠牲は少ない。それが理に叶った現実というものだ。
「今回は何をしにきた?」
だが同じことを女神も警戒しているだろう、間合いに入ってこない相手を逃がさないよう、ハディスは声をかける。それが女神の思惑通りで、喜ばせるとわかりながら。
「あなたに、会いに」
「彼女たちを殺したのか。スフィア嬢の体を使って」
今更、嫌悪もわかず、淡々とハディスは事実確認に乗り出す。
少女達が地下牢にいるのは――おそらく、ハディスから不興を買ったことでベイル侯爵に放りこまれたのだろう。そして意味もわからないまま、女神に殺されてしまったに違いない。
子ども達を哀れには思う。だが、それだけだ。
一瞬でもそれで弱さを見せれば、高笑いして女神はハディスにつけこんでくるだろう。
わかっているでしょう? わかったでしょう?
あなたを愛してあげられるのは私だけ。
いつだって女神が言いたいのはそれだけだ。
「今更死体をいくつ積み上げられたところで、お前への嫌悪しかない」
天剣を向けたハディスに、スフィアが――女神が、顔をゆがめて笑い出す。哄笑だった。
「ああ、ああ、愛しい私のあなた。なんて純粋なあなた! 私が殺した? いいえいいえ、違うわ私はなあんにもしてない」
「スフィアが殺したとでも? ふざけるな、お前じゃあるまいし、そんな女性じゃない」
「そう! そうよ、だからね、私ね、おしおきしようと思ったのよ。皇帝になったからって、私を忘れるのはいけない。でもクレイトスにきてくれたから、ちょっと脅かすだけのつもりだったの、この子を使ってね。でも、でもなんておかしい!」
げらげらと笑ったあとで、かくんとスフィアの首が不自然に倒れた。
その首にある縄のような痕に気づいて、ハディスは目を細める。
「この子ねえ、もう死んでるのよ」
息を呑んだ。
「首を絞められてね、ぎゅうっとね。怖かったでしょうねえ、実の父親に」
「……実の、父親? ベイル侯爵が?」
「可哀想に。父親が八つ当たりまがいに、幼い少女達を折檻しているのを見ちゃったのね、この子。そのうちひとり死んじゃって、逃げ出そうとされたからふたり死んで。この子、動けなかったのよ、一歩も。震えて」
聞くな、とラーヴェが言った気がした。
だがいつだって女神の言葉は、ハディスの体に毒のようにしみこんでいく。
「ちょうどいい、って言われたのよね。お前が殺したことにしようって」
皇帝陛下に気に入られたからと、何様のつもりだ。
何か隠しているだろう、お前。
だがそれもすべてこれで終わりだ。
いやそもそも。
「自分の親に絞殺される子どもって、どんな気持ちになるのかしら」
最初から、お前など生まれてこなければ。
「可哀想。可哀想だわ。だからね、あなたが気にかけるこの子の最後を、ちゃあんと伝えてあげなきゃって思ってね。首つり死体にしようとしていたのを、動かしたの。あの男ったら、悲鳴をあげて逃げていったわ」
何も見えていないスフィアの瞳から涙がこぼれ落ちる。
ハディスは天剣をにぎった。
「そうしたら、あなたがきたのよ。感謝して。でないとあなたは、真相を知らないままだったでしょう? 私は愛の女神だもの。彼女の愛に応えてあげなきゃと思ったの。復讐させてあげなきゃ」
「……黙れ」
「可哀想に、ほんの少しあなたに心を傾けただけだったのに。こんな目に遭わせるなんて、ひどい奴ら。ねえ、そう思うでしょう? あなたが守ってあげる価値なんて、なあんにもない。わかるでしょう? あなたが愛するのはただひとり、私だけでいい!」
「黙れえぇぇぇぇぇ!!」
哄笑を振り払うようにハディスは天剣を振るう。
だが高笑いした女神は、スフィアの影からするりと抜け出た。がくりと膝をついたスフィアがそのまま倒れ、ハディスの足元に転がった。
女神が抜け出ても、瞳孔は開きっぱなしだ。もう彼女は喋らない。
おいしいですね、とお茶を飲んで笑うこともない。
「あっははははは! 可哀想なあなた、安心して。私が助けてあげる! 私だけがあなたを救ってあげられる!」
ハディスの回りに靄のようなものがつきまとう。それを握り直した天剣で振り払った。
だが女神の高笑いは止まらない。
「あなたを苦しめた罰を、私が与えるわ。この町を火の海にしてあげるから、泣かないで」
「ハディス! このままじゃ」
「……わかっている」
変化をといたラーヴェの呼びかけに、ハディスはスフィアの死体から目をそらす。
ラーヴェも一瞬だけスフィアに目を向けたが、それ以上は何も言わなかった。
外に転移すると、ものすごい勢いで火が回り始めていた。
風の強さもあるだろう。あちこちに燃え広がって、町が上空まで赤く染まりつつある。
住民達が必死で消火しようとしているが、焼け石に水だ。
女神の火は、女神の魔力そのものだ。魔力も持たないただの人間に消火できるわけがない。
「どうする」
「お前の火で打ち消すしかないだろう」
竜の吐く炎は魔力をも燃やす。それが竜神からであれば、女神の魔力でさえ浄化する神の裁きになる。
上空に浮かんで全体を見回したハディスは、ラーヴェに触れる。
だがラーヴェは、ハディスの意向がわかっているだろうに、すぐには姿形を変えなかった。
「いいのか」
「何がだ?」
「お前が町を燃やしたと思われるぞ」
今からハディスが振るうのは、浄化の炎だ。燃える炎と浄化の炎。普通の人間に見分けはつくまい。
だがそんなことは些細なことだ。
「スフィア嬢が今からかぶる汚名にくらべたら、ましだ」
「……そう、だな」
悲痛な顔をして、ラーヴェが同意する。
同時にするりと形を変えた。
『無理すんなよ』
金色の両眼を見開く。輝きを増した天剣の刀身が伸びて、変型する。血を通わせたように赤く光り、一振りするだけで鞭のようなうなりをみせ、そこから爆煙が舞い上がった。
頭上からの攻撃に気づいた住民達が悲鳴をあげて逃げ惑う。
「あ、あれはなんだ」
「まさか呪われた皇帝」
「皇帝が、町を燃やそうと……!」
かまわずにハディスは背を向け、城に向けて剣を振るう。ハディスから放たれた炎が、女神の炎を浄化し、打ち消していく。だが消火に気づいている者はいないだろう。
大混乱を起こした住民達が逃げ惑う姿が見える。
きっと生き残った彼らは竜帝が町を燃やしたのだと、口々に言い立てるのだろう。
だが、それも些細なことだ。
死んでしまったスフィアや、ただの誤解で呼び出されて殺されてしまった少女達や、今まさに焼け死のうとしている人間達に比べたら――本当に?
『……ハディス?』
「ラーヴェ、さっさと片づけよう」
大丈夫だ、まだ自分は笑える。
「僕は竜帝だ。皆を救わねば」
穏やかな声でそう言ったハディスに、ラーヴェはほっとしたようにそうだなと告げた。