26
「リステアード兄上が、つかまった」
遠くを見たままのハディスのひとことは、初夏だというのに冷たい空気の中に響いた。
もしものために、レアとローが竜を率いて援軍に駆けつけたはずだ。まさか、間に合わなかったのか。
「捕虜ですか。中途半端ですが、悪くない戦果ですね」
なんでもないことのように、崖上のロレンスが言った。
「しかし竜帝って本当に困りますよね。竜からの報告ですか? それともあのボールみたいな竜の王かな。情報共有できるんですねやっぱり。これだから竜のいるラーヴェ本土で戦いたくなかったんですけど……それで、リステアード殿下は本当にご無事ですか?」
「陛下、駄目です!」
ハディスの右手に奔りかけた魔力に、ジルは声をあげた。ハディスは物騒な金色の輝きを前髪からのぞかせながら、唇をゆがめている。
「どうして? こいつらを片づけて、兄上を助けにいく。僕が一瞬で終わらせてやる。最初からそうすればよかった。いくぞ、ラーヴェ」
「きっと、ううん絶対に罠に決まってます!」
「どんな罠? 根拠は?」
「わかりませんけど、こいつはそういう奴だから罠です!」
びしっとロレンスを指さして断言すると、ハディスがまばたいた。その手をジルはぎゅっと握る。
「ロレンス相手に怒っちゃだめです。冷静になってください。陛下はわたしに守られてなきゃ駄目ですよ。それに、今日はわたしの独壇場だって約束でしょう!」
黙ったハディスの背中を軽く叩いて、カミラは取り出した矢を指でくるりと器用に回す。
「アタシもジルちゃんに賛成よ、陛下。こいつはそういう奴だから罠」
「いやあ、そんな説明あります? 相手は何をしでかすかわからない南国王ですよ。それともリステアード殿下を見捨てるおつもりで?」
「おう、罠だな。嫌らしい言い回しが罠だ」
ジルの前に出たジークが剣を構えた。ハディスの手をぎゅっと握ったまま、ジルもロレンスから視線を動かさない。ロレンスが指で頬をかいた。
「ええー……いっそ今すぐ処刑したほうがいいってことかな」
性懲りもない挑発に、ハディスの手に力がこもった。それをさらに上回る力で抑えつけると、ハディスが諦めたように嘆息する。
「……ジル。僕を好きだよね」
「好きですけど、なんですか。おねだりしたって駄目なものは駄目ですよ」
「あの横恋慕くんを、一分で僕の足元に沈めろ。そうしたら僕は手を出さない」
ハディスがジルの手を離した。いいおねだりだ。
「おまかせください! 行くぞジーク、カミラ!」
「やっぱり君が厄介だなあ」
飛び上がったジルに向かって、ロレンスが腕を横に払う。ロレンスの背後にいる兵士たちが上空に手をかざし、ジルの目の前に知らない魔法陣が浮かび上がった。ジルは遠慮なく拳を叩き込む。が、叩き割れるはずだったそれはぐにゃんと曲がり、縄のように変化してジルの全身に巻き付く。
「なんだこれ!」
「魔力を吸う捕縛結界、アルカ改造版。警戒とかしようよ」
「ならこっちだ、オラいけソテー!」
落ちていくジルの代わりに、ジークの大剣に打ち上げられたソテーが、ハディスぐまを投げる。身構えた背後の兵士たちを、ロレンスが制し、自分の手を前に出す。その指先から浮かび上がった魔法陣に、目を光らせたハディスぐまが、こちらを向いた。
「え」
「それ、魔力で動きを感知するんだよね」
何か薄い膜のような結界の内側で、ロレンスが苦笑する。
「つまり、魔力を隠してしまえばいいわけで。魔力を無効化する魔術を考えててできた産物なんだ、これ」
「だから敵味方の判定つけるようにしろっつったんだよ……! 俺が引き受ける!」
ジークが嘆いたがもう遅い。ソテーに殴りかかったハディスぐまに横からジークに切り込む。
魔力の縄を引きちぎったジルは着地して叫んだ。
「お前、卑怯だぞ!」
「いやあ、そっちが考えてなさすぎじゃないかなあ」
「あら、馬鹿ばっかりみたいに言わないでくれるかしら」
音もなく、カミラの矢がロレンス目がけて飛んだ。ばりんと結界に弾かれたが、姿を消したカミラの矢は、どこから飛んでくるかわからない。ロレンスが目を細める。
「隠密系の魔術ですか。カミラさんにはぴったりですね。魔力も少なくて効果が高い。けどまあ方角はわかっちゃうわけで」
飛び出したのは、リックとアンディだ。
「ソテー、援護に行け! マイネ、フリーデンもだ!」
「コッケエエエェェェ!」
「一分たっちゃうよ、竜妃の騎士たち」
上空に魔法陣が輝いた。広範囲の魔力攻撃だ。
「こんなものかな」
崖上からの薄笑いにかちんときたジルは、ジークが足止めしているハディスぐま目がけて飛び出す。
「ジーク、よけろ! ――陛下、覚悟!」
え、とハディスの声が聞こえた気がするが、時間がない。ハディスぐまの顔は躊躇いがあったので、その腹に拳を叩き込み、そのままロレンスたちが陣取っている崖壁にハディスぐまと拳と魔力を叩き込む。
落ちてくる先は、上空の魔法陣の攻撃範囲内だ。入っていなくても、入れてやればいい。
「せえのお!」
そのままジルは、崖を削り取るように上空に拳を打ち上げる。
崖が崩れた。
魔力の矢が降り、悲鳴があがる。ジルは落ちてきた岩石を蹴って、落ちるロレンスを狙う。
この上空の魔術を維持しているのはロレンスではない。だが、クレイトス兵と魔術士たちを手足にしたロレンスは脅威だ。ジルは身をもってそれを知っている。かつてのハディスから、圧倒的に戦力で劣るはずの自分たちを生きて逃がしてくれたのは、こいつなのだから。
それでも、ここまで一対一に迫ればジルは負けない――のに、ロレンスが笑ってこちらを見た瞬間にぞっと背筋が粟立った。
「くると思ったよ」
ロレンスの手に突然現れたのは、真っ黒な槍だった。ジルの拳を受ける前提で突き出されたそれを、ジルはよけられない。歯を食いしばる。
目を閉じなかったジルの前で、光が弾けた。
「竜帝が、君をかばいにね」
黒い槍先を受け止めた天剣が、光り輝いた。