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鏡の中で頬の傷をおおうテープを乱暴に剥がそうとしてやめた。魔力がある分、回復は早いはずだが傷痕は残っているだろう。手当ての痕があるほうが、まだ怖がらせずに済むかもしれない。
まだベイル城の廊下には怪我人が転がっていないことにもほっとした。だがすでにベイル城の医師は軍港に缶詰になることが決まっているし、時間の問題だろう。
リステアードは早歩きで廊下を通り抜け、ベイル城の裏口へと向かう。すでに深夜、灯りがあるとはいえ視界は悪い。でもむさくるしい兵たちの中でひとり、空気が違う彼女はすぐ見つかった。
「リステアード殿下……!」
「スフィア嬢、申し訳ない。せっかくきていただいたのに帝都にとんぼ返りとは」
しかも快適さより移動速度や隠密性を優先させるため、スフィアには今、くすんだ色合いの下士官の軍服に身をつつんでもらっている。
「頼みます。竜では運べないので」
護送用の鉄箱馬車の奥にあるもの盗み見ると、馬車の近くで指示を出しているミハリが気づいて敬礼を返した。スフィアも同じものを見る。
「魔術までかけてあるのですか。……大切なものなのですね」
「中身について説明はできませんが、危険物ではないので安心してください。護衛も信頼できるものばかりです。帝都にも、必ずヴィッセル兄上がスフィア嬢を迎えにくるよう要請しました」
皇太子に一介の令嬢の迎えを要求するなど、傲慢にもほどがある。だがヴィッセルなら何かあると判断し、行動してくれるだろう。スフィアは緊張した面持ちで頷いた。
「わかりました。……あの、父は? ここに残るのですか、やはり」
「すみません、お義父上はさすがに解放できません。逃亡のおそれもある」
「え、いえ、父はここを離れないと思います。父にとって、ベイルブルグは何よりも大事なものでしょうから……きっと異母妹やお継母様よりも」
苦笑い気味にそう言うスフィアは、実父の大切なものに最初から自分を含まない。それを指摘すべきではないと、リステアードも黙認する。
「父は、ベイルブルグがこうなってもリステアード殿下に協力する気はないのですか」
「……どうにも、手強いお方で」
「私、面会できませんか。お父様と」
スフィアが父との面会を求めるのは初めてだ。リステアードはまばたいた。しかし、ミハリから準備が整ったと報告がくる。時間がない。
「……申し訳ありませんが、今回はご遠慮ください」
「そう、ですか……す、すみません。こんなときに、わがままを言って」
「いえ。こちらこそあなたに、復興し始めたベイルブルグを見てもらいたかったのに」
「そ、そのことなのですが、リステアード殿下」
意を決したようにスフィアが顔をあげた。唇が、少し震えている。
「もし、私がここで求婚を承諾――」
「スフィア嬢、それはよくない」
こちらを見あげている瞳に、困惑の色が浮かぶ。リステアードは肩をすくめた。
「今、お返事を聞いたら、なんだか死にそうではないですか、僕が。かと言って、生きて帰ったらお返事をいただく約束も死んでしまいそうです。死亡フラグ、というやつですね」
笑って、リステアードはスフィアを見つめ返す。
「ですので、何も聞かせないでください。いつもどおりで大丈夫です。返事がどうであれ僕はここをクレイトスには渡さない。信じてください」
「信じているから言うのです!」
思いがけず強く反論されて、リステアードはまばたいた。
「リステアード殿下は守ってくださいます、命に替えても。そこに疑いがないから私はあなたとの結婚が怖いのだと、なぜおわかりにならないのですか! こ、このっ――この……ッ」
「ス、スフィア嬢。僕は死ぬと言っているわけではなく」
「このッ兄馬鹿さん!!」
思いもよらぬ罵倒が飛んできて、面食らった。意味がわからない。肩で息をしているスフィアににらまれても、どう返事をしていいかわからない――警報音が鳴り響いた。
敵襲を知らせる音だ。舌打ちして、リステアードは叫ぶ。
「急いで出発しろ、ミハリ! あれは奪われるわけにはいかない! スフィア嬢、話はここまでです。あなたも馬車に乗って、早くベイルブルグから出てください」
「は――はい、でも、私、今、ひどいことを」
「ブリュンヒルデ、行くぞ!」
上空からやってきた愛竜が応えて鳴く。おろおろしていたスフィアが、ブリュンヒルデの影を見あげて唇を引き結び直し、微笑んだ。
「必ず生きてお戻りください、リステアード殿下」
彼女でよかったと思うのは、こういうときだ。
リステアードはこれくらいなら許されるかと、その頬に口づける。
「あなたもご無事で」
「はい。――私をどうか、あなたと同じにしないでくださいね」
最後は、ブリュンヒルデがおりてくる翼と風の音にまざってしまった。聞き間違いかとまばたくリステアードに、スフィアは微笑を崩さず、うしろにさがる。
「いってらっしゃいませ」
完璧な辞儀に背を向け、リステアードはブリュンヒルデの鞍に飛び乗った。鞍に取り憑けてある手袋をつけている間に、あっという間に地上は遠ざかり、スフィアは見えなくなる。
できれば馬車が出発するまで見送りたがったが、そんな時間はない。街のあちこちから次々に竜が浮かび上がり、リステアードの周囲に集まり、隊列を組む。
「リ、リステアード殿下、敵襲です!」
偵察にいっていた竜騎士のひとりがリステアードを見つけ、横についた。ブリュンヒルデが速度を落とす。
「わかっている、残りで進軍してきたのか? あちらはもう三隻程度しか」
「違います! 突然、敵の軍艦が海上に出現しました!」
「は? どういうことだ、どこから!?」
青ざめた兵が、首を横に振る。
「わかりません。海に転移してきたとしか考えられません!」
「ここはクレイトス国内じゃないんだぞ。見間違いじゃないのか」
ハディスでも大勢の人間を思った場所に無事に転移させるのは難しいと言っていた。それを魔術大国の国王とはいえ、ルーファスができるとは思えない。何より、できるなら今までの戦争で使われていたはずだ。
だが兵は横について飛んだまま報告を続ける。
「海面で魔法陣のようなものが輝いたあと、軍艦が現れました! しかも、軍旗はサーヴェル家のものです……!」
リステアードは手綱を強く握って、そのまま報告を聞く。
「ベイルブルグ目指してまっすぐ進んできています。第一次防衛線は崩壊、おそらく後方ももたないかと」
「お前は見たことをそのまま軍港で各所に報告、北方師団にも竜をありったけ出させろ! ワルキューレ竜騎士団、そろっているな!」
返事はそろって返ってきた。
リステアードの意をくんでブリュンヒルデが速度を上げ、先頭に出る。風に負けないよう、リステアードは声を張り上げる。
「戦線を立て直すぞ! ここで食い止めねば、一気に攻め込まれる。特にサーヴェル家は、上陸させたら手が付けられない。海で落とせるだけ落とすぞ!」
「ですが、転移が本当ならば、海上は囮の可能性もありますよ」
「もしラーヴェ本土に転移させられるならもうしていたはずだ! 何かタネがある。とにかく今は深追いするな、援軍がくるまで奴らを足止めできればいい! あとは戦力の把握だ!」
「サーヴェル家ですね」
「竜をなくすなよ」
リステアードの短い警告に、皆が黙りこむ。リステアードも息を吐き出して、明るい口調で言い直した。
「姉上からの有り難いお話では、いかに竜と息を合わせて空中ダンスができるかが、サーヴェル家に勝つ秘訣らしい」
「なるほど、人離れした曲芸ですね。エリンツィア殿下らしい」
「そういうことだ。 ――見えてきた、いくぞ!」
戦場の光に向けて、リステアードは愛竜の速度を上げた。




