19
次の日もいい天気だった。雪があるので水だけはいくらでもある。火で少し温めた水で顔を洗っていたそのときだった。
「おはようございます、竜妃」
「……ミレー、さん。おはようございます」
ずいっとタオルを出された。どうも、と受け取って顔をごしごしふくと、おなじ洗面器でミレーが顔を洗っていた。湿ったタオルを返すと、文句を言うかと思いきやミレーはすまし顔で受け取り、押さえるようにして顔の水分をとった。
「こうして取ると肌を傷めずにすみますよ。ご存じない?」
「……ソウデスカ」
「カニスに見せられた装置は、アルカで使っていた転送装置の一部です。使い捨ての」
どれも簡易になっていますが、とミレーは淡々と続けた。
「部品と一緒に魔術も分散させています。他の部品と組み合わせて使うんでしょう。ただ、転移の出口としての役割しか果たせません。正直、転送装置としては不完全ですが……少しでも魔力を節約するためでしょうね。転移は距離と質量に比例して膨大な魔力が必要ですから……基本、神の御業なので」
「あなたたち使ってるじゃないですか」
「私たちの拠点の転送装置だって緊急時にしか使いませんよ。魔力も、皆の力を日々蓄えて使っていました。あとはクレイトスの転送装置の起動に合わせて魔力を掠め取ったり」
勝ち誇ったように笑われたが、呆れてしまう。
「ほんとあなたたち、手段選びませんね」
「私たちはここで別れます。まずは彼らを安全な場所で休ませないと……」
「隠れるアテはあるんです? わたし、色々壊しまくりましたけど」
「アルカをなめないでください」
「じゃあ、そのあとはどうするんですか」
「もちろん、クレイトスに囚われた者たちを助け出します」
だが、実は嫌いではない。ジルは洗面に使った水をそのあたりに撒いた。
「じゃ、頑張ってください。邪魔をしたら蹴り飛ばしますけど」
立ち去るかと思ったら、ミレーは動かなかった。眉をひそめていると、ミレーが唇を動かす。
「――カニスやあのご老人は色々考えているようだけれど、私、女神の本当の狙いは私たちが研究していた竜神ラーヴェの神紋だったと思うんです」
「……でも再現できてないんですよね?」
「再現できていないから竜神の理に触れず、竜神は魔術をなかったことにはできません。竜神は滅ぼせないあの魔術は、私たちからすれば未完成です。でも、あのとき竜神を助けた女神は気づいたのではないかしら……あれがあれば、竜神を殺さず封印できるって」
息を呑んだジルとは決して目を合わせず、ミレーは続けた。
「女神は何度も竜神を手に入れようとして失敗しています。滅ぼしたいのかと思ったこともありますが、おそらくは私が竜帝を手に入れたいのと同じ意味ですよね」
「わたしはあなたを陛下を渡しませんけどね」
「竜帝を、竜神を生かしたまま手元に置きたいならば、あの魔術は女神にとって僥倖だと思いますよ。封印を解かれないよう、竜神をもっと弱らせる必要があるでしょうが……」
それを手に入れたといっていいのか――いいのかもしれない。
千年もの争いに、もう疲れたならば。
「ただの私見ですけれど。――どうか気をつけて」
柔らかい口調に、まばたいた。ゆっくりミレーが頭をさげる。
「今回は、助けてくれてありがとう」
ずいぶん殊勝な、と思ったら、背後からの影に気づいた。ハディスだ。
青筋を立てた瞬間、ぱっとミレーは踵を返し逃げ出す。静かに、ジルは振り向いた。青ざめたハディスが首を横に振る。
「い、今、僕はしゃべってないよ!? なあラーヴェ――ぅぷっ!」
「知りません、陛下なんか!」
足元の雪をつかんで、顔面に投げてやる。ああもう、会談からずっといいことがない。逃げるハディスの背に飛びかかって雪に一緒に沈み込む。そしてその背の上に馬乗りになって何度も飛び跳ねた。
「浮気者、浮気者、浮気者!」
「しっ、してないよ! 浮気なんかしてない、僕は君一筋です!」
「じゃあ証拠見せてくださいよ!」
「見せようとしたら君は逃げるでしょ! あっラーヴェ逃げるな!」
「朝メシ先に食ってるから~」
ハディスの身体から抜け出たラーヴェに、ジルも声をあげる。
「わたしも食べます――っと」
むくりと雪の中から起きあがったハディスが、ジルを背負って立った。その場で雪をはらうついでに体勢を整えたハディスが、ちょっとうしろを向く。
「機嫌直して、僕のお嫁さん」
安直なやり方にむっとしたが、ジルは溜め息をついてその背中にほっぺたをくっつけた。ざくりざくりと雪を踏んで、ハディスが歩き出す。
「まさかこれがご褒美だとか言いませんよね?」
「言わないよ。考えてるんだけど、まだまとまらなくて……君にあげたいもの、いっぱいありすぎる」
真剣に悩んでいる様子に、ちょっと機嫌が浮上した。ハディスの肩から半分だけ顔を出して、ささやく。
「大人がすることでもいいですよ」
「だめです!」
即答に唇を尖らせて、ハディスの首に後ろから抱きつく。
「わたしへのご褒美なのに?」
「……。君は僕を動揺させて楽しんでるみたいだけど、やりすぎはよくないよ」
足を止めたハディスが、首を捻ってジルと視線を合わせた。
「お仕置きされたくないでしょ」
「手合わせならいつでも大歓迎です! ご褒美ですよ!」
ハディスはジルがどんなに鍛錬に誘っても逃げてしまうのだ。そのせいで、どうやってハディスが剣術や戦い方を覚えたのかも謎だった。その謎がようやくとけるかもしれないとわくわくしているのに、ハディスのほうは「そうくるか……」などと溜め息をついている。
「ご褒美くれないんですか?」
「……検討事項には入れておきます」
「おい、遅いぞぴよぴよ夫婦」
朝ご飯が待っている野営地の入り口で、ロルフが仁王立ちしていた。背後からパンをもぐもぐさせながらラーヴェが出てきて、ハディスの頭の上に乗る。おそらく消えていくパンしか見えていないだろうに、まったく動じないロルフはある大物だ。
「なぁんか、次の作戦決まったらしいぞー」
「作戦? 今日も国境の掃除じゃなくて?」
ジルがおりようとする気配を察して、ハディスがしゃがんでくれた。その上からロルフが覗きこむ。
「女王と子狸は今、ノイトラールにいるっちゅうのは確かだな」
「え? ああ、ローからそう聞いてるよ」
「なら、仕掛けるぞ。あのうきゅうきゅにも作戦を伝える。あと朝メシ!」
ロルフが踵を返して中へ入っていく。ハディスの横に並んで、ジルは尋ねた。
「ローって作戦とか難しいこと伝えられます?」
「……。伝えられるよ!って今、返ってきたけど」
ハディスがちょっと目をそらしている。ラーヴェは知らん顔だ。カミラとジークは大変だろうな、とジルは苦笑いして、ハディスの手を引いて中へと入った。
まずは腹ごしらえだ。




