16
「まだ早いよ。寝ないとだめ?」
しつこく夫が上目遣いで尋ねてきた。肩あたりまで毛布を引っ張り上げてやりながら、ジルは真面目に答える。
「だめです。今日、陛下いっぱい戦ったし魔力も使ったでしょう。ラーヴェ様、ちゃんと陛下を寝かせてくださいよ」
「こんな状況で子守り係かよ、俺は」
「じゃあ、わたしにやれっていうんですか?」
「僕はそっちがい――ぁいたっ」
起き上がりかけたハディスの額をラーヴェが尻尾でぺちんと叩いた。
「はい、もう寝ろ。また熱出すぞ」
「出さないよ、ちゃんと余力残してます~。それに今から話し合いでしょ。僕もいたほうがいいんじゃない」
「それはミレーさんと話したいってことですか?」
上から笑顔で覗きこむと、ハディスが毛布を口元近くまで引っ張り上げ、わざとらしく可愛い声を出した。
「おやすみなさい、ジル」
「いい子ですね。ラーヴェ様、話し声が聞こえないよう結界で遮断しちゃってください」
「お、おう、声も駄目か……」
「なんでいいと思った?」
馬鹿ラーヴェ、とハディスが小さく非難する。鼻を鳴らしてジルは立ち上がった。でも、細長い板を柱代わりに、布で作った仕切りから出たところで、足を止める。
「――ちゃんとわたし、仕事しますから」
「う、うん?」
「だから、陛下はいい子のわたしに、明日、ちゃんとごほうびくれなきゃだめですよ!」
背後の沈黙がいたたまれず、開いた布を閉じる。がはっという吐血音と「……心臓が動いてりゃいいか」などという竜神の無情な判断が聞こえたが、すぐさま静かになった。ラーヴェが結界で遮断したのだろう。
少し熱い頬を冷たい両手で包んで冷まし、改めて野営地の中を見た。ロルフが焚き火の近くで飲み物をすすっているが、何も言わない。ロルフのこういう、興味のないことにはとことん反応をしめさない性格が今はありがたい。
追っ手もなく、途中で戻ってきたフリーデンが上空から道案内もしてくれたおかげで、数時間で国境を越えた野営地に戻ってこれたのは僥倖だった。もうすぐ夏になるが、日が沈んでからのラキア山脈の国境越えなど、訓練された正規軍でも強行すべきではない。だがアルカでは全員がそれなりに訓練されているらしく、泣き言ひとつ言わず全員がついてきた。
野営にも慣れており、ジルたちが使う野営地の周りで、雪と魔力を編み込んだ幕でテントをいくつも張って寝床を用意し、缶詰を使った料理が振る舞っていた。どこで調達したのか、ラーヴェ帝国軍の軍旗をさりげなく見せる手際のよさだ。
フリーデンも見張りについているので、軍が野営をしているように見えるだろう。今夜は意外と安心して眠れるかもしれない。そういう意味では、助けた甲斐もあった気がする。
今はもう、皆が寝静まり始めている。
「ばっくれる気じゃないだろうな」
つぶやいたジルに、ロルフが鍋で温めたワインを注ぎながら答える。
「くるさ。奴らは抜け目ないからのう。儂らにクレイトスの悪口なら教えてくれる」
「けど、信用できる情報だとはとても思えないだろう」
「信用しないと、狸とやらも考えていたら?」
瞠目したあと、ジルは出入り口を正面に見る場所に木箱に座った。夕食のときに冷えないようにとハディスが小さなクッションを置いてくれたので、座り心地は悪くない。
「お前といい騎士どもといい、あの小僧にやたらご執心じゃのう」
ロルフがふうふうホットワインに息を吹きかけながら言う。ブランケットを膝にかけようとした手を止めて、ジルはうつむいた。
「そういうわけじゃないんだが……一度、ノイトラールで一緒に戦った縁もあるし」
「少数で死線をくぐりぬけると、一時の盛り上がりで妙な友情が生まれるからな」
「正直、わたしはあいつが何を考えているかよくわからなくて。……南国王の後宮から大事なお姉さんを助けたくて、ジェラルド様に仕えてたはずなのに……」
「大事な姉とうまくいっとらんのでは?」
え、とジルはまばたいた。
「大事な姉を助け出したものの、めでたしめでたしで終わらんかったんじゃろう。よくある話じゃ。少なくとも奴は姉のいる家にほとんど帰っとらんらしい。奴の身辺を調べておったモーガンも、姉を人質にするのは保留したようじゃな。意味がわかるか?」
ロレンスにとって姉は人質の価値がないかもしれない、ということだ。だが、にわかには信じられない。
「フェアラート公が疑り深いだけじゃ……」
「そのあたり、モーガンは勘がいいがな。まあ姉を人質にする策は、儂もあまり意味がないと思っとる。これだけ派手に動けば身内が狙われるに決まっとるからな。もう手を打たれているか、罠が張られとるじゃろうて。そんなもんにかまっとる暇もないしな」
「……お姉さんを人質に女王に脅されて戦争を起こしてる、っていうならまだわかるんだ」
ジルは地面に目を落とす。
「ほんとは、いい奴なんだ。あいつ自身が思ってるよりもずっと。気にしちゃいけないんだろうけど、どうして戦争をしようとしてるのか、わからない。あいつが女王に協力する理由がわからあにんだ。ロルフはわかるか?」
年代も何もかも違うが、ロルフの思考とロレンスの思考は似ている気がする。だがロルフは素っ気ない。
「顔もよう知らん儂に聞くな」
「……あいつは手強いぞ。勝てるか?」
「それは奴を殺さず止められるかっちゅう意味か?」
困ってしまったジルをロルフがちらと見て、笑う。
「情報量が同じならな。――さあ、おいでなすったぞ」
ロルフが出入り口を示す。出入り口をふさいでいる布が、外側から持ち上げられ、カニスが顔をのぞかせた。




