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貸し切りになっている列車の食堂には、出入り口に姿鏡が壁にかけられている。車内販売員の制服から普段着に着替えたジルは、全身を確かめたあとに、しょんぼりした。
「なんでばれたんだ、ロレンスにも女王にも……普通、信じないと思うんだけどなあ。やっぱり陛下がかっこよすぎるから」
「ふたりに前科があるからよ、のろけないでジルちゃん」
制服を着たままのカミラが手厳しい。同じテーブルに座っているジークは二個目の弁当を食べながら、うんうん頷いている。ジルは顔をしかめた。
「のろけてない、事実だ。ほんとに何着てもかっこいいし可愛い……だから今回の作戦にばっちりだけど、でも陛下の扱いが雑すぎるだろう。とにかく目立ってこいだなんて」
じろりと作戦の立案者をにらんでみたが、こちらを見もしない。それどころか、カミラに呆れられた。
「ジルちゃんが言うとあんまり説得力ないわねえ」
「わたしは陛下を大事にしてますよ! それに最強の駒っていうのは温存しておくのが定石じゃないか。どうなんだ、ロルフ」
「定石だけじゃ面白くなかろう」
窓際奥のテーブルで数種類の新聞を読んでいたロルフが、やっと顔をあげた。その目の前にある弁当箱はすでにからである。
「面白いか面白くないかだけで陛下を最前線に送りこもうとするな!」
「最強なら問題なかろうが」
「それは……そうですけど、でも……陛下は身体が弱いんですよ!」
「ふん、それは本音か?」
返答に詰まったジルを、ロルフは鼻で笑う。
「お前もわかっとるんだろう。今、クレイトスから最速で情報を釣るには竜帝が最適解じゃ。ほんとーーーに蟻一匹通さない徹底ぶりじゃからな、国境。サーヴェル伯が戻る前ならまだノイトラール竜騎士団でどこかに穴をあけることもできたが、今は万全で待ち構えられとる」
「だからってここで陛下とわたしを投入とか、絶対に戦力配分がおかしい! やるならベイルブルグだろう、あっちを最速で防衛して」
「その代わり、どこかがまた攻め込まれるぞ。国境の徹底したあの布陣の理由のひとつはそれじゃ。それとも、お前はこのまま竜帝がナメられててかまわんのか」
「駄目ですけど!?」
「なら黙らせてこい、これは情報戦じゃ」
丸くした新聞を投げつけられた。難なくジルはそれをつかんで、開く。
「戦争っちゅうのはな。基本、勝てると思われたから仕掛けられるんじゃ」
――竜の暴走、崩れゆく竜神の理。
半月ほど前の、クレイトスの新聞だ。レールザッツで会談が始まる前、アルカに作られた謎の竜がこんなふうに報道されていたのだ。
こちらで対策した不作の支援の件も合わせ、今、ラーヴェ帝国は女神の恩恵を求めているという記述もある。どれもこれもひとつひとつは憶測でしかない、小さな種。
だが今になって、『竜神は女神より力を失っている』という根拠としていっせいに芽吹き始めている。
「勝てないと思わせねば、止まるもんも止まらん。そのために、竜帝と竜神の力を見せるのは必須じゃ。それとも竜帝にはできんのか、竜妃。竜帝は女神の器に負けるか?」
「そうは言ってません! 言ってません、けど……」
ぎゅっと新聞を握るジルを見て、カミラが嘆息したあと、ロルフに振り返る。
「ジルちゃん相手だからって物を投げるのは駄目よぉ、おじいちゃん。あと言い方」
「ふん、お前らもこのぴよぴよを甘やかすな。……ラーヴェ側の報道規制はうまくいっとる、三公を味方につけておいたおかげじゃな」
ぽいっとまたロルフが新聞を投げてよこした。こちらはラーヴェ帝国で発行された最近の日付のものだ。レールザッツにて竜妃が女王と会談中に、先王ルーファスがベイルブルグに侵攻。竜帝は帝国軍を率いてベイルブルグにまもなく到着予定――書いてあるのはこれだけだ。国境侵犯については、先王ルーファスの暴走ともとれる内容で誤魔化してある。
ジェラルドについても行方不明のまま、アルカとの関係も何も書かれていない。クレイトスでどうなっているかわからないから、というのがロルフたちの判断だった。
「のんびり汽車に乗っとるあたり、あちらさんもまだ動く気がない。今のうちにやれることやる。それこそ定石じゃろうが」
「……でも、ベイルブルグは攻められてる。それともあっちは陽動なのかやっぱり」
「だからそれも確かめるんじゃ、なんべんも同じこと言わせるな」
「でも今すぐあの狸坊やをつかまえれば解決じゃなァい? しないのはなんで?」
ちょっとは説明してちょうだい、とカミラがもっともなことを言う。
「見張りながら泳がせるならわかるわよ? でもわざわざ姿を見せるなんて、警戒されておしまいじゃないの」
「ああいう手合いは捕縛も監視も予想しとる。下手に突けば女神の力で逃げられる。じゃが、竜帝と竜妃が出てくれば違う。竜妃の騎士までついてくれば奴は考える。いったいこっちは何をたくらんでるのか、ってな」
「で、実際、何をたくらんでるのおじいちゃんは」
「なーんにも?」
カミラが頬杖を突いていた手から顔を離す。ジークは弁当を食べる手を止めた。さすがにジルも顔をしかめるが、ロルフはまったく気にかけない。
「ひとつ確実に言えるのは、ああいう輩は情報を与えないよりも与えまくるのが有効っちゅうことじゃ。考えてしまうからな」
説明にすでに飽きてきたのか、ロルフが新聞の中にあるチラシを折って何やら作り始める。
「特に今、あっちは情報を精査する手数がたりん。敵地じゃからな。全部自分で見聞きして情報を精査し処理せにゃならん。そして、どんなに優秀な人間でも処理数が増えれば必ず疲弊する。そうすれば判断ミスや、見落としが出る。まあ遅効性の毒みたいなもんじゃな」
なるほど、とジルは頷くが、カミラは不満顔だ。
「でもあっちの策が見抜けない限り、結局、アタシたちが不利じゃない?」
「こっちに策があると思わせて動きを止められれば十分じゃ。なんにもないのにな!」
ロルフは景気よく笑っているが、疲れが増した。弁当を食べ終えたジークが口を開く。
「俺はわかるぞ、狸のミス待ちってことだろ。俺たちで追い回せば、何かやらかすかもしれないしな、あいつ」
「そういうことじゃ。まあそうピリピリせず、気楽にいけ。そうすればちったぁ、その子狸のこともわかるさ――何を見て考えて、何を価値基準に、どう動くか」
それは今後のために確かに必要だろう。ベイルブルグをもたせてその情報と時間を使うというロルフの考えも合理的だ。けれど。
(陛下を、最前線に立たせて――もし)
ジルが女神に勝つ自信ならある。けれど、ハディスが女神に勝てるのかと問われたら。
「お前は竜帝を信じろ、竜妃」
見透かしたようにロルフの声が飛んできた。
「竜帝を自分がいないと勝てない男にするな。そりゃあ、嬉しいもんかもしれんがな」
一瞬意味を考えてから、かあっと頬に熱が昇った。カミラとジークから視線を感じて、ますます焦る。
「わっ、わたしは、そんなつもり……っ陛下を純粋に心配してるんです! べ、別にわたしがいないと駄目な陛下に、にまにましたりしてませんから!」
「竜妃っちゅうのはそういう傾向に陥りがちな気がするんじゃが。女神もな」
ロルフが折った何かを投げた。鳥、いや竜だろうか。
ふわりと浮いたそれは思ったより長く飛び、ちょうど食堂車に入ってきたハディスの靴先に落ちた。
「どうしたの、騒いで。何かあった?」
「へ、陛下!」
急いでジルはハディスのところへ駆け寄り、何か言い出される前に訴える。
「わたしは陛下を信じてますからね! 陛下がわたしがいないと駄目だったり情けなかったりするの、問題だと思ってますから。可愛いなとか、まして喜んでなんかいませんから! 優越感とか持ってませんから!!」
「語るに落ちてるわ、ジルちゃん……」
「え、僕は君がいないと駄目だけど」
真顔でハディスに返され、ジルは固まった。首をかしげてハディスが尋ねる。
「それって、駄目なの? 甘えちゃ駄目? 僕のお嫁さんなのに?」
たたみかけてくる夫の愛らしさに、ジルはぎゅっと目を閉じて叫ぶ。
「……ッ今は、駄目です!」
「今も過去も未来も駄目じゃが」
「そう、駄目なんですよ……! 駄目、わたし! 陛下を駄目にしちゃ駄目!」
えー、と不満そうに唇を尖らせているが、ハディスの視線は柔らかい。実はわかってるんじゃないかと、ジルはそわそわしてきた。
だって、駄目にしたいと思うのは、駄目になっていないからだ――気づいて、愕然とする。
「くそ、手強いな竜帝……ッ!」
「なんかよくわかんないけど、君が元気でよかった。今から忙しいもんね」
そうだった。




