竜妃殿下は会議中
つと、幼い女王が視線を動かした。一挙一動を見逃すまいとしていたジルは、つられて視線を動かす。
クレイトス王国の女王とラーヴェ帝国の竜妃の会談場所に選ばれたレールザッツ公爵邸の会議室は、書記官や警備兵がいても広々としている。使われていない暖炉の上には、遠目でもはっきりと細部まで見える大きな地図が掲げられていた。
「羽開く蝶を象るプラティ大陸。中央のラキア山脈を境に東西に国が分かれて、もう千年」
東は、理と天空を守護する竜神ラーヴェが治めるラーヴェ帝国。西は、愛と大地を守護する女神クレイトスが治めるクレイトス王国。歌うように、女王が紡ぐ。
「この国境は今も維持されている。まさに、女神クレイトスと竜神ラーヴェが存在する証。けれど、いつまで必要なのでしょうか」
ひとりごとのような言葉は、静まり返った会議室によく響いた。
「わたくしたちヒトはもう、神を解放すべきではないでしょうか」
「クレイトスの女王、女神の器とまで噂される貴女が、まるで方舟教団アルカのようなことをおっしゃいますなあ」
落ち着いた朗々とした声の持ち主は、ラーヴェ帝国三大公爵のひとりレールザッツ公イゴールだ。顎のあたりの髭を撫でる様子に、焦りは見られない。だが瞳は決して笑っていない。
「アルカは許さぬ。そう言って我が国の領土ベイルブルグに難癖をつけ攻め込むその口で、神を捨てろとは」
「先ほども申し上げました、レールザッツ公。わたくしは戦争するつもりはございません。ベイルブルグに軍を送ったのもひとえに、手遅れになってはいけないと危惧したからです。かの街はかつてアルカに煽動された場所です」
「その煽動を押さえ込んだ者が、初代ベイル侯爵ですがな」
「ですが今のベイル侯爵は竜帝陛下を弑そうとした裏切り者。しかもアルカに与した反逆者ジェラルドとつながりを持っていた。竜帝陛下を恨み、アルカと手を組んで再び反逆罪を目論むのは自然な流れですよ。難癖とは言い切れないでしょう」
ベイルブルグ港襲撃事件――今はそう呼ばれている事件の首謀者は、ベイル侯爵だった。ハディスに叛意を持っていたことも間違いない。だが突かれて痛いはずのところを、イゴールは穏やかに返す。
「現在ベイルブルグを建て直し次期ベイル侯爵となるのは、私めの孫。皇兄リステアード・テオス・ラーヴェです」
まだ婚約は正式にととのっていないが、言い切るのは交渉術だろう。
「もしリステアード殿下がアルカに与したと本気でおっしゃっているのなら、確かに難癖ではない。侮辱です。あなたはラーヴェ皇族がアルカに与したとおっしゃっている。その発言の責任を、あなたはとれますかな。撤回するのなら今のうちですが」
「アルカと知らずに手を組んでいたというのは、よくある話です」
フェイリスの斜め後ろにずっと控えていた女王の側近ロレンス――ジルのかつての副官が、小さく笑った。
「何より、反逆者ジェラルドをかくまっていないという証明にはならない。我々がジェラルド王太子のアルカ関与を認めたように、そちらも身内贔屓な考えを捨ててはいかがですか?」
「ロレンス、おまえ……っ!」
「ジル」
椅子を蹴って立ち上がろうとしたジルをたしなめるように、夫の声が背後から響いた。
「へ、いか……」
両開きの会議室の扉から入ってきたこの国の皇帝に、イゴールが立ち上がり、目礼する。それに続くように、他の高官や警備の兵たちも一斉に頭を垂れた。
靴音を等間隔に響かせ、マントをなびかせたハディスがジルの隣にやってきた。ジルに柔らかく一度頷いたあと、一瞬で冷たい表情に変わる。
「御託は必要ない」
迷いなく最奥の椅子に乱雑に腰かけたハディスが、肘掛けに肘をつき、尋ねる。
「何が狙いだ。まさか僕の兄上に手を出して、無事でいられると思ってないだろうな」
金の瞳に睨めつけられ、フェイリスはわずかに喉を鳴らしたようだったが、正面から挑むように青の瞳で微笑み返した。
「わたくしとの婚姻が狙い――と言ったら?」
「話にならない」
「ですわよね」
あっさりとフェイリスは引き下がった。皮肉っぽい笑みを浮かべる。
「クレイトスの王女――女神の器と竜帝が結ばれることはクレイトスにとっては救いになりますが、ラーヴェにとっては禁忌なのでしょう。竜帝は本能的に女神の器を受け付けないのではないか、というのがわたくしの側近の仮説です」
フェイリスがちらと視線を投げたのはロレンスだ。
「現にハディスさまも、最初からわたくしを歯牙にもかけない。少し、悲しいですわね」
「だからなんだ? 僕の知ったことじゃない」
「ふふ、本当に、クレイトスのすべてに興味がないのですね」
ふっとフェイリスの青の瞳に、怒りが透けた。
「それにどれほど、女神が傷ついてきたか」
「話がそれている。いったい何が狙いだと聞いている。答えないなら――」
ハディスが途中で口を閉ざした。視線を動かしたフェイリスが嘆息する。
フェイリスの手に握られていた黒槍の輪郭がぼやけ、会議室にざわめきが広がった。ジルちゃん、と背後のカミラに呼びかけられる。
「あれが、女神クレイトス……?」
「見えるのか」
驚いたジルに、カミラも、その横にいるジークも頷く。
裸足に、質素な古い衣装。飾りは花冠ひとつ。けれど、雨糸のように細い髪からきらきらこぼれる魔力のせいなのか、まばたきひとつで消えそうな儚さのせいなのか、鼻腔をくすぐる清浄な花の香りのせいなのか、目をひきつけてやまない。光が透ける半透明の、とびきり美しい少女は、ととのった長い睫を持ちあげ、ゆっくりと口を動かした。
「こんにちは」
小鳥のように可憐な女神の声は、ジルの耳だけではなく、周囲にも届いたようだった。
けれど女神が話しかけているのは、ひとにではない。その目が見据えているのは、竜帝ハディス――いや、竜神ラーヴェだ。
「なあんにも覚えてない、あなた。竜妃を盾にわたしから逃げてばかりの、あなた。今だって、出てこようともしないのね」
くすくす笑う女神に、不愉快そうにハディスが吐き捨てる。
「神は必要以上に人間の世界に出しゃばるべきじゃない。それがラーヴェの考えだ。消え失せろ、女神」
「わたしは、助けてあげようって言ってるのに?」
ハディスが怪訝そうに見返す。青の瞳を三日月のように細めて、にたりと女が笑う。
「クレイトスね、気づいちゃったの。だって昔なら、あり得ない。いくら神紋に近くても、クレイトスの魔力で作られたとしても、あんな半端なヒトの封印に後れを取るわけがない、あの竜神ラーヴェが。気づいたよね? それとも、器には教えてないの?」
「何をだ」
「――今の竜神ラーヴェは、女神クレイトスよりも力を失っています」
フェイリスの説明に、ハディスが息を呑んだ。
「封印されるだけならまだしも、もし竜神ラーヴェがアルカに取りこまれてしまったらどうなりますか? わたくしたちがアルカ討伐を急ぐのは、そのためです」
「そんな讒言を僕が信じるとでも」
「本当だよ。クレイトス、嘘はつかないもの。だって竜神ラーヴェの姿も声も、ほとんどの人間に届かないじゃない!」
考えもしなかったという無防備な顔でハディスが口を閉ざす。両腕を広げ、周囲を見回してクレイトスがけたけたと笑い出した。
「クレイトスの姿は、声は、クレイトスが届けようと思えば、こうしてみんなにちゃあんと届くのに! ねえ、みんなは竜神ラーヴェを見たことがあるの?」
眉根をよせるイゴールの顔、驚く高官や護衛の顔、一瞬で会議室に困惑が広がった。クレイトスは哄笑し続ける。
「見たことないよね。当然よ。何をしたか知らないけれど、一度は完全に消えるほど力を使ったんだもの! やり直したって戻れないほどに!」
「クレイトス」
たしなめるようにフェイリスが名前を呼んだが、クレイトスは止まらない。
「あのねえ、クレイトスはね。いつか認めてくれると思ったの。きっときっとクレイトスの愛をわかってくれるって。だって頑張ったもの! いっぱいいっぱい人間にひどい目に遭わされても、お兄様に助けてもらえなくても、クレイトスは頑張った!」
ぎらりと輝く瞳は、それでも美しい。怒りに満ちた眼差しでさえ。
「でもお兄様は認めない! いつだってクレイトスは間違ってるって、駄目だって、そればっかり! 今だってほら、何も答えてくれない!!」
「――クレイトス」
はたかれたようにクレイトスが瞠目した。唇を動かしたのはハディスだ。
「ベイルブルグから兵を引かせろ」
当然のように、女神に命じるその声も、金の目も、黒髪も、顔立ちも、変わらない。
けれど、何か違う。
凪いだ表情が。荘厳な眼差しが。ひれ伏したくなるような、神聖さが。
「これ以上、人間を巻きこむな」
ハディスの口を借りて、竜神ラーヴェがしゃべっているのだ。
息を呑んだイゴールが胸に手を当てて頭を垂れ、兵たちが跪いた。
だがその静謐を、泣き出しそうな顔をした女神が破る。
「この期に及んでまだヒトのことか、ヒトの封印もふせげなかったくせに!!」
髪を振り乱して叫ぶ女神は、椅子を蹴るジルに気づきもしない。
「ならお前のとる道はひとつだ、竜神! アルカに、人間風情に囚われたくなければ、私に跪け。国のため、民のために、贄として私の前に引きずり出されろ! 這いつくばって赦しを請え! そうしたらお前の大事な民くらい、助けてやっても――」
剣に変化した竜妃の神器を首元に突きつけられ、クレイトスが口を閉ざす。テーブルの上に乗ったまま、ジルは冷ややかに告げた。
「そういう台詞はわたしに一度でも勝ってからほざけ、女神」
「……竜妃……!」
「ご高説を垂れていただいて恐縮だが、わたしの記憶ではそのアルカに囚われ自力脱出もできなかった無様な女王と女神がいるんだ。気のせいかな?」
「あれは」
「クレイトス!」
フェイリスの叱咤に、今度はクレイトスが黙る。ジルは鼻で笑ってやった。
「どうした。あれは策で、わざとでしたとは言えないのか? 実はアルカと共謀してわたしを嵌めようとしたと自白しても怒らないぞ。たかが女神風情の可愛い悪戯じゃないか」
女神は唇を噛んで黙っている。挑発してもっと情報を吐かせたいが、今は黙らせるほうが得策だ。ジルはロレンスとフェイリスに尋ねる。
「これがクレイトス王国の総意か?」
フェイリスが静かに首を横に振った。
「クレイトス、戻りなさい」
「でも、フェイリス……」
「約束したでしょう? ちゃんと竜神ラーヴェを、あなたにあげるって」
「お前」
聞き捨てならない言葉に反応したジルの眼前で、拳が止まる。息を呑んだジルに、穏やかな質問が投げかけられた。
「これがラーヴェ帝国の総意ですかな?」
「――サーヴェル辺境伯」
舌打ちしたジルに、実父ビリーはにこやかな笑顔を崩さない。だが、ジルも女神に突きつけた剣先を動かす気はない。
膠着した空気を、杖で床を叩く音が遮った。
「休憩にいたしましょう」
そう告げながらイゴールは続けて三度、床を杖で叩く。何かの合図だったのか、扉が開き、武装した兵たちが入ってきた。
「長い話になりそうですしな」
「そうでしょうか」
フェイリスは取り囲む兵たちを注意深く見回しながら言った。
「反逆者ジェラルドはアルカに与しました。だからわたくしはラーヴェ帝国への謝罪も兼ねて、自らベイルブルグのアルカ討伐を決行する。簡単なお話です。もちろん、今後のラーヴェ帝国の防衛について細かい打ち合わせは必要だとは思いますが」
「我が国の軍事力への介入を簡単な話とおっしゃる」
「当然でしょう? すでに竜神ラーヴェは女神にはおろか、アルカにも封印される可能性がある。力を失えど神は神、クレイトスとしても捨て置けません。――これは第一歩です」
女王の幼い微笑は、薄氷のように冷たい。
「クレイトス王国とラーヴェ帝国はひとつになるのです。いずれ、互いの神を解放するために」
それは統一という言葉を隠れ蓑にした侵略だ。
女王の唇から放たれる続きも、父の牽制も振り切って動かそうとしたジルの剣先も、動かないままのハディスの眼差しも、イゴールの床を叩く杖の音が遮った。
「お話は確かに承りました、女王陛下。ですが、レールザッツ領はラーヴェ帝国でも有数の観光地。ただ会談だけでなんのおもてなしもしないというのも、私めの流儀に反します」
「まあ、お気遣いありがとうございます。ただ、わたくしたちもラーヴェ帝国でお約束をしている方がたくさんいるものですから」
約束。その言葉に、イゴールが喉を鳴らして笑う。
「それはそれは。――このレールザッツ公を差し置いて女王を歓待する輩がいるとは、妬けますなあ」
「いいんですか、竜妃殿下」
テーブルの上に立ったままだったジルに、ロレンスが問いかける。
「レールザッツ公は俺たちをとらえるつもりですよ。女王には別の予定もあるんです。この間の不作での支援先からぜひお礼をと招待をいただいてます。このままレールザッツ公爵領から動けないと聞けば、彼らはいったいどう思うか想像はできるでしょう?」
売国の申し出とイゴールが以前評していた懸念が、今、現実に変わった。
「もちろん我が国も黙ってませんよ。クレイトス女王がラーヴェ帝国から帰ってこないとなれば、開戦は避けられない。ベイルブルグだって今頃、どうなっているか」
「レールザッツ公は歓迎してくださってるんですよ。断る理由がおありで?」
意外そうにロレンスがまばたく。竜妃の神器を消し、ジルはロレンスの表情を真上から見おろした。
「断らないほうが身のためですよ。――これ以上、わたしを怒らせるな。下がらせろ」
顎を引いたロレンスが、苦笑いと一緒に目を一度伏せる。
「……では、歓待いただきましょう。いいですか、女王陛下」
「ええ、もちろん。わたくしたちは争いにきたのではない。力を失った竜神ラーヴェを助けにきたのですから」
「レールザッツ公、あとは頼む。手厚く女王たちを歓待しろ」
ハディスがいるが、この会談の責任者はジルだ。イゴールが「おまかせを」と請け負う。動揺とざわめきの広がりを感じながら、ジルは唇を噛んだ。
フェイリスたちをここに留めるのはただの時間稼ぎだ。ロレンスの指摘どおり、帰国が遅れれば遅れるほどクレイトス側にあやしまれ、最悪開戦するだろう。けれど手を打つための時間が必要だ。
この会談は間違いなく、ラーヴェ帝国有利にことが進むはずだったのに。
(甘かったのはわたしか)
腹立たしい気持ちを押さえて踵を返そうとすると、小さな笑い声が響いた。女神だ。輪郭を溶かし黒に染まりながら、にたりとジルに向けて笑う。
「今度は死なないといいわね、器のきょうだい」
ささやくようにそう言った黒槍をつかみ、フェイリスが優雅な笑みと一緒に目礼する。そしてロレンスとビリーをつれて退室した。
イゴールがテーブルに両肘をついて言う。
「竜妃殿下。そこの壁なら、近々工事で取り壊し予定です」
そう教えてくれたのは、きっとイゴールも同じ気持ちだからだ。気遣いにジルは礼を言い、テーブルから飛び降りる。カミラが「離れて~離れて~」と周囲に声をかけ、ジークが椅子や机を引き離し始める。
ぼんやりとしていたハディスが、やっとこちらを見た。
「……ジル?」
背中に届いた声は、間違いなくハディスの声だ。でも弱々しい。
慰めてあげたいが、今話すと先に血管が切れそうだ。落ち着くためには、深呼吸。そして握り直した拳で、会議室の壁を思い切り殴る。
すさまじい音がして、会議室の壁が半分、壊れた。開いた穴から吹きこむのは、潮風だ。外は快晴、なかなか清々しい。きらきらした海も見える。
「ふう、すっきりした――陛下」
振り返ると、目を丸くしたハディスが背筋を正す。できるだけ優しくジルは確認した。
「まさかわたしが女神にしてやられたとか思ってませんよね?」
「えっ!? え、いや、まさか、そんな……」
視線を泳がせているのは見逃してあげよう。そんな時間もない。
壁にあいた穴から吹きこむ風をあびている部屋の人間を、改めて見回す。
「ジークとカミラはロルフを縛りあげてでも連れてこい。何よりベイルブルグだ、すぐに情報をかき集めろ! ――いいか全員、女神と話ができて感動するのは結構だが、わたしがわかりやすく現状を教えてやる」
全員の注目がこちらに集まったことを確認してから、ジルはぼきりと拳を鳴らした。
「わたしは、女神の聖槍を木屑にできる」
むしろ今すぐやってやりたい。
「わかったら各自仕事をしろ、行け!」
「「「了解しました!!!」」」
大変威勢のいい返事と敬礼が返ってきた。
「ということで、陛下」
くるりと振り返り、ハディスの目の前でジルは拳を振り上げる。
「わたしが陛下を守ってあげますからね、おまかせください!」
かわいらしいことに、ハディスは何度もこくこくと頷き返した。
おまたせしました、8部連載開始です~!
週明けまで朝7:00で連日更新予定です。よろしくお願いします!
相変わらずのラブコメをお楽しみいただければさいわいです。




