アンサス戦争【されど竜帝は夢に非ず】
ロルフが言ったとおり、戦後は穏やかなものだった。
三公の権力はそのまま、勢いづくこともなく。
皇帝やラーヴェ皇族の威信もそのまま、力を取り戻すこともなく。
こんなものか、と拍子抜けするほどに――いや、きっと維持こそ難しいのだ。崩れかけた均衡を必死に戻そうとした今だからわかる。
この構図を変えようと息巻いていた頃が遠く感じるほど、何事もなく静かにすぎていく。
その日も、流れていく一日にすぎないと思っていた。
「兄上が、お前を護衛に?」
ラーデアの執務室で、ラースが頷き返した。
「どうも最近、後宮が不穏なようで……」
「またか。第三皇妃はおとなしくなったと聞いていたのだが」
アンサス戦争後、レールザッツ公は隠居の形でイゴールにほぼ全権を譲った。そしてイゴールは叔母である第三皇妃にはもうレールザッツ公の後ろ盾はないと示すため、自分の娘を皇妃として送りこんだのだ。
またそれに対抗するようにフェアラート公やノイトラール公も新しい皇妃を送りこんできたが、これが後宮の新しい勢力となり、新旧の皇妃が上手い具合に拮抗した。特にカサンドラが新しい皇妃たちから慕われているようで、メルオニスも皇妃たちのぎすぎすした関係に挟まれることなく、穏やかにすごせているようだったのだが。
「皇妃たちよりも、貴族のほうですね。ここ最近、新しい皇妃様方がご懐妊続きですから……新しい皇子や皇女が誕生するとなると、やはり警戒すべきことが多いようです。それに皇太子殿下や上の御子様方も成長されましたから」
兄を暗殺すれば代替わりが起きる。以前よりも、もっと危険性は高くなっているのだろう。代替わりをさせられた皇妃が考えそうなことに、ゲオルグは歯噛みする。
「それで、お前を後宮の護衛騎士にとおっしゃっておられるのだな」
「誰か知らぬ者をつけるより、ゲオルグ様が選んだ者のほうが安心できると陛下はおっしゃってました。僕はずっと、ゲオルグ様旗下の軍人ですから」
「兄上の望みとあれば否応もないが……後宮は男子禁制だろう。カサンドラ義姉上がなんとおっしゃられるか」
「そこはまあ、僕、ゲオルグ様のおつかいで何度か後宮に出入りしてますから。安全だと思われてるんじゃないでしょうか」
とても安全には見えない造形の顔立ちで、ラースが無邪気に笑う。渋面になってしまったが、ラースの欲のなさや如才ない振る舞いは、ゲオルグも数年のつきあいでよくわかっていた。しかも魔力もあって、腕も立つ――アンサス戦争でも、傷ひとつ負っていなかった。
(適任か)
今更、ラースが兄の後宮でよからぬことをするとは思えない。大きく息を吐き出して、最後の確認をする。
「一応確認するが、お前はそれでいいんだな?」
ラースは意外なことを聞かれたというように、目を丸くした。
「皇帝陛下のご命令ですよ。拒否権、あります?」
「兄上に私から何かしら申し上げることはできる。非常事態でもないのにお前の意思を一切無視して上からことを進めるのは、理に反することだ。兄上もそれを理解されているから、私に許可を求めておられるのだ」
そういうところは相変わらずだと、ゲオルグはひそかに唇をほころばせる。
「……ゲオルグ様は、ほんとうに……メルオニス様がお好きなんですね」
「気持ちの悪い言い方をするな」
「すごく綺麗だ」
「からかっているのか」
にらもうとして、ふいに喉が干上がった。
ラースは笑っていた。まぶしいものを反射したように目をきらきらさせ、頬を紅潮させている。
「好きです、そういうの。いいな、ほしいな」
まるで子どもがねだるような口調に、ぞっとした。ラースの笑顔は、虫の羽をむしる前の子どものような好奇心と無邪気さに満ちあふれている。
けれど、確実に今、ゲオルグは羽をむしられる虫の側だった。
「……お前は、家族がいないのだったな」
かろうじて言えたのはそれだけだった。声はかすれていたかもしれない。
「はい。いつか子どもを持つことが僕の夢なんですよ」
「なら結婚は、考えているのか。アーベルにでも頼めば、いい縁組みを紹介してくれるだろう」
「うーん、見合いにくる前に縁談相手が殺されないならいいんですけど……」
返答に詰まってしまった。だがおかげで、変な緊張はほどける。
「それに僕よりも先にゲオルグ様でしょう」
「私?」
「モーガン様が、色々おすすめしてるじゃないですか。あの方も本当に、ゲオルグ様に憧れてらっしゃいますよね。きっと家族になりたいんですよ」
あの男の場合、損得のほうが大きそうだが――確かに、フェアラート公あたりに恩を売っておくのも悪くないか、とゲオルグは頷く。
「前向きに検討しよう」
「え、別に無理をなさらずとも……」
「アーベルが結婚しただろう」
アンサス戦争で得た勢いを失ってはいけないと――あるいは二度とアンサス戦争を起こしてはならないという決意だろうか。アーベルは父が頑として譲らなかった、ベイル侯爵家に連なる由緒正しい血筋の令嬢と結婚した。
あの男が、すべてを丸く収めるために呑みこんだのだ。
恋人はどうしたとは、もう尋ねなかった。大人になるとはそういうことだ。ゲオルグはただ友の――戦友の花婿姿を見守った。
(いずれ、親になるのだろう)
そう考えると、ずっと子をほしいと言っていたラースこそが、大人になるということを考えていたのかもしれない。
もう、自分たちは子どもではない。
「……きっとモーガン様なら、ゲオルグ様をきちんと支える御方を選んでくださいますよ。アーベル様が口出しするのは確実ですし、メルオニス様も張り切るかもしれません。またにぎやかになりますね」
他人の機微に聡いラースが、優しいことを口にする。兄とはアンサス戦争以降、公的な場以外で顔を合わせたことがない。
「そうだな。……子が生まれたら、兄上の子たちと遊ばせてもらおう」
「そのときは僕の子も参加させてもらえたら嬉しいです」
たかが護衛騎士の子が、皇子皇女と遊びたいなど生意気だ。
そう言ってゲオルグは久しぶりに声を立てて笑った。
大丈夫だ。ラーヴェ皇族は続いていく。もし自分たちの代で三公から実権を取り戻すことは敵わずとも。
次の代につなげば。
竜神の血筋を続けていけば。
そう、最悪でも――竜帝さえ、うまれれ、ば。
最初に兄が言った。
ラースが裏切ったかもしれない、と。
馬鹿なと思った。アーベルも同意見だった。不貞の相手としてあがったのが第十二皇妃、確かに美しくはあったが、それだけの女だった。ラースのほうがよっぽど美しい。身分も知性も品性もない、ただ兄が堅苦しさから解放されたいがために戯れに選んだ妓女かわりの皇妃。何かの間違いかもしれない、と疑念を呈した兄でさえ、半信半疑だった。
ラースは答えた。何かの勘違いではないでしょうか、と。僕が陛下を、ゲオルグ様を裏切るなんてあり得ないと。
でも女はうそぶく。陛下の御子です。そう言いながらあの神のように美しい男と夜を共にした、その子を宿したと、口をすべらし、全身で主張する。
義姉が重い口を開いて言った。ひょっとしたら、と可能性を示した。少なくとも兄ではない、計算が合わないと。
だが、ラースが処分されると噂が立った瞬間、ラースの子ではあり得ないという様々な証言が飛び出した。第十二皇妃の妄想だ。あり得ない。間違いだ。
ラースがラースがラースが。
あの神のように美しい男を処分するなど、許されない。
そして兄も言うのだ――自分の子である可能性は捨てきれない、何より後宮で生まれるのだ。ならば皇子としてこのまま育てようと。所詮末端の皇子、母親の後ろ盾もない。優秀な皇太子も、皇子皇女も大勢いる中で、何者にもなれはしない。分別がつく年齢になれば臣籍降下させればいい。
子どもに罪はないのだから、と。
結局、ラースは護衛騎士を解任されただけで、処分は終わった。
出ていくラースにすまないと、兄が謝っていた。
ゲオルグも申し訳ないような気がして、そのときはじめて、ぞっとした。
もし本当に兄を裏切っていたなら、あってはならない感情だ。たとえ末端の皇子だとしても、ラーヴェ皇族にそうでないものの血筋がまざるなんて、許されるべきではない。
――でも、あのラースがあり得ない、という想いがどうしても拭えなかった。
どう考えても、ラースに利が何もない。ラースは第十二皇妃の名前すら曖昧で、興味もないようだった。あれだけ子がほしいと言っていた男だ。やはり、第十二皇妃の妄想かなにかなのだと思わざるを得なかった。
不可解なままでも、後宮は落ち着いた。いや、ラースという華を失って、一気に色あせたのだ。特に兄の落ち込みようはすごかった。
だが、皮肉にもラースがいなくなったせいで、ゲオルグは再び兄のもとへと通うようになった。少しずつ言葉をまたかわすようになった。兄は二度とゲオルグに本心も希望を託すこともないだろうが、それでも、ふつうのきょうだいのように交流が増えていった。結婚式には兄も帝都からわざわざラーデア領へやってきて、祝福してくれた。
真相は誰にもわからないまま、時間だけがすぎる。
まさかラースは自分と兄を取り持つためにこんな騒ぎを起こしたのだろうかと、馬鹿な考えが頭をよぎるような有り様だった。
だから、あり得なかった。
考えもしなかったのだ。
「はじめまして、ちちうえ」
初めての兄との拝謁に、あのだらしない女に育てられたとは思えないほど礼儀正しく兄に頭をさげた子どもは、可愛らしい顔立ちをしていた。
ラースに似ている。
それがわかったのだろう。兄が息を呑んだあと、だらしなく相好を崩す。
「そうか、お前がハディスか」
「はい。あの、あの……」
「どうした。何か父上にお願いでもあるのか?」
ぶんぶんと頭を横に振ったあと、子どもが顔をあげる。
黒髪に、金の目。
ラースに似ているほうに気を取られて忘れかけていた、その意味。
「あの、ぼく……りゅうじんラーヴェがみえます!」
りゅうていです。
――歴史書にある竜帝の姿絵に似てる
――まがいものの竜神の末裔よ
もっと自分たちはよく考えるべきだった。考えるべきだったのだ。
ラーヴェ皇族とはなんなのかを。
自分たちのことを。
(あの男が、子を、ほしがっていたのは)
きらきらした金の瞳が、自分たちを見ている。跪きたくなるほど美しい、神から授けられた圧倒的な輝き。
でもその背後で、世界で一番美しかった男が笑っている。
答えがほしかったんだろうと、羽を引きちぎられて転がった虫たちを、嗤っている。
ゲオルグ正史、これにて終了です~~お付き合い有り難うございました!
このあとは正史・本編ともに「ハディスに絶対だまされないマン」と化したゲオルグ叔父上からお察しください。
なお、ゲオルグ叔父上が大活躍するアニメ『やり直し令嬢は竜帝陛下を攻略中』Blu-ray&DVD BOX下巻は本日、2025年2月26日(水)発売です!!
次の更新は本編8部になります。今、頑張っております。
遅くとも4月から更新できるようにしたいです~~よろしくお願いします。




