アンサス戦争【若者の夢の道⑥】
新兵を夕食に誘うのに皇帝陛下と侯爵が廊下で言い争うという前代未聞の珍事は、意外な形で収束した。ラースが警備につき、ベイル侯爵とラーヴェ皇帝が晩餐をする形になったのだ。
提案したのはラースだった。兄はアーベルのことは信頼しているが、ベイル侯爵はそうではない。断ると思ったのだが、「おふたりがラーヴェ帝国の未来について話し合われる場を僕に守らせてください」とラースに笑顔で告げられ、ふたりとも神妙に頷いていた。
結局廊下での言い争いも、歓談前に政策で言い争っていたことになった。ゲオルグとアーベルが耳にした言い争いはそんな高尚なものではなかった気がするが。
晩餐にはゲオルグもアーベルも参加した。
意外にも冷静に話し合いは進んだ。特にベイル侯爵が第三皇妃の一件について兄に謝罪をしたのは、大きな収穫だった。その裏でラースがずっと悲痛な表情をしていた気がするが――そして、そのベイル侯爵の謝罪を、兄も受け入れた。やはりラースが嬉しそうな顔をしていた気がするが。
しかしあとから、ラースはふたりの罪悪感や優越感を刺激するようアーベルに頼まれたのだと聞いて、ゲオルグは感心した。
「使えるものは使ったほうがいいでしょう」
アーベルはラースに利用価値を見いだしたようだ。
いかがなものかと思ったが、ラースの立ち回りで得たものはそれだけではない。ベイル侯爵が最近の疲れをほのめかしたため、兄は療養をすすめ、ベイル侯爵は息子の結婚を条件に爵位を譲る書面を正式にしたためた。
ベイル侯爵から謝罪を受け、許し、ベイル侯爵はこれに感謝し息子に家督を譲る――失態の尻拭いとしてどこにでもありそうな話だが、これをレールザッツ公の介入なく成し遂げたのは大きい。これを文書にするのを請け負ったのもラースだった。どうも魔術理論もかじっていたようで、きちんとした魔術による契約書の転写をこなしたのだ。魔術士の少ないラーヴェ帝国では、文官のエリートコースに乗れる能力のひとつである。
兄にもいい影響をもたらした。クレイトス国王との会談、ベイル侯爵の処遇、それらが自信になったのだろう。
自らの黄竜で帝城に降り立った兄は堂々としていた。それまで投げやり気味だった三公からの政策や他貴族からの提案も、持ち帰って吟味するようになったようだ。結局ほとんどの案が三公や貴族の言うまま通ってしまうというのは変わらなかったが、一方で独自の政策も通すようになった。
「私を見ている民がいるとわかったのだ」
兄は噛み締めるようにそう言った。あのとき跪いたラースがそう自覚させたのだろう。複雑な想いがなかったと言えば嘘だ。だが、ラースは確かに兄の理想の民だった。
兄の政策で特に力を注がれたのが、帝国軍の再建だ。ラーデア神殿の修復案にまぜる形でこっそりラーデアでの軍備まで兄から提案されたときは、少し感心してしまった。
クレイトス国王との会談もいい方向に働いたようで、ベイルブルグにも再び活気が戻った。ベイル侯爵はほとんどをアーベルにまかせるようになり、アーベルは今のうちにと結婚式の日取りを勧めた。
だが、退役の時期については難航した。
「どうしても予算の計算が合わない箇所があるんですよ。あと、後任を決めかねていて」
優秀なアーベルらしい悩みだが、ゲオルグは訝しむ。
「ラースでいいのではないか」
「こいつは目立ちすぎます。黒よりの白な部分を扱うには向いてませんな」
あまり大声で言えないような案件を扱うには、耳目を集めすぎるということか。ラーデア公の執務室で資料整理をしているラースが、苦笑いを浮かべる。
「僕はアーベル様に命じられれば頑張りますが……あることないこと探る方は多くなるかもしれません」
「今でも十分多いのにこれ以上は御免被る。そういえば、この間のつきまとっていた貴族の女はどうなった?」
「困っているとフェアラート公に相談したら引き取ってくださいました」
「身内の恥さらしだな。いい気味だ」
アーベルは笑っているが、ゲオルグは少しだけ気の毒に思わないでもない。
ラースにつきまとう輩は老若男女、きりがない。勝手に恋人や婚約者や妻を名乗る者などたけのこのように現れるものだから、部下になって半年ほどで数えるのをやめた。貢ぎ物が贈られてくるのもしょっちゅうだ。それも、贈り主は皇族かと思うような高価なものから、何が何だかわからない呪物めいたものまで。
慣れで感覚が麻痺しているのか、ラースはほんわかとそれを受け流すものだから、慌てふためくのは常に周囲のほうだ。しかし意外とラースは腕が立つので心配ないとわかってくると、周囲も落ち着いてきた。
ラースの愛嬌のよさもあるだろう。ラースが配属されて一年、今では周囲も扱いに慣れてきて、ラースは上官や同輩区別なく、うまくやっている。「美人は慣れるっていうもんな」と軽口を叩いた者はそろって「そうなんですか?」と首をかしげられて固まっていたが。
厄介ごとも持ちこむが、人脈の幅を広げてくれたのもラースだった。どこにでもするりと当たり前のように輪に入る。ラースを私軍や竜騎士団に引き抜きたがる者も多くいた。
しかし、ラースは首を横に振る。強引な手に出る者もいた。そのたびラースはこまめに周囲に相談し、ゲオルグたちや同僚にきちんと助けを求める。今ではすっかり帝国軍内にラースの名前が知れ渡り、結束力が高まった。アーベルは「帝国軍の姫気取りか?」などと皮肉っているが、ラースにころっとやられた者が貴族だったりすると、喜んで対応に出る。相手の恥と弱みを握るいい機会だからだ。
いつだったか、アーベルが言った。ラースに野心がなくてよかったと――ゲオルグは心底同意した。
ラースは仕事もできる。籠城した反乱分子の説得などお手の物で、たった一年で功績を多々上げ、ゲオルグに負けぬ勢いで出世し少佐になっていた。だからといって、特に報奨を要求したりもしない。賄賂にも色事にも一切興味がないようで、「今の生活が続けられれば十分です」と欲のないことを言う。
感心する一方で、よくない想像にひやりとすることもあった――もしラースに野心があれば、帝国軍も笑顔ひとつで瓦解させてしまうのではないか。しかし、あくまで想像だ。ラースが「いつか子どもがほしい」などと平凡な夢を語るたび、おそらく彼にとってはその平凡さこそ至高なのだと哀れに思う。「あなたの子どもなんて生まれながらにして地獄ですね」と素っ気なく応じていたアーベルも、内心では同じだろう。
いずれにせよ、帝国軍はこの一年で人脈と資金、そして結束力を得て、存在感を増した。人数も倍以上に増えた。その分、屯所や軍事施設の建設など設備投資に金がかかってきているが、兄の私的な支援もあって順調に進んでいる。今も三公への牽制も兼ねて、ラーデアに帝国軍の施設を作っている最中だ。
他にも兄は優秀な人材を育てることに注力し始めた。何でも兄直々に集めた若者たちが三公へ学びに出ている――要は監視にいかせたのだ。三公も皇帝に頭を下げられては断れない。兄らしいしたたかさだ。
数年前、ライカで助けた子どもたちも士官学校を卒業したと聞いた。あの中で一番威勢がよかった少年サウスはゲオルグの部隊への配属を希望している。
根気よく撒いてきた種がついに芽吹き出した。最近とみにそう感じる。
「それで、フェアラート公のご子息がお礼にこちらを訪問したいとおっしゃっているのですが」
何か機会があればゲオルグに接触したがる者が増えたのも、その証左だろう。
「カサンドラ義姉上の弟か?」
「はい。モーガン様とおっしゃるそうです」
「どういう人物だ、知っているかアーベル」
「フェアラート公爵家の中では変わり者ですね。名誉より金だと公言してはばからない。あとはあなたに並々ならぬ憧れをお持ちで」
「憧れ?」
眉をひそめたゲオルグに、アーベルは呆れた顔になる。
「兄上一筋のあなたは自覚がないようですが、人気者ですよあなたは。特に、偉大な身内に抑圧されがちな同世代の」
嬉しそうにラースが同意する。
「ゲオルグ様は皇子であったことを差し引いても、ひとりで帝国軍を建て直そうとし、実際それを成し遂げようとしている御方なんて、なかなかおられませんから」
「……ラースに言われると逆に不安になるのだが」
「お気持ち、お察ししますよ。ですがあなたのはちゃんと人望です、本物の」
「その言い方だと僕に人望がないみたいじゃないですか」
ラースは不満そうにしているが、アーベルは容赦がない。
「実際お前が集めているのは人望ではなく、欲望だ」
「それはそうですが……」
素直に認めるのか。呆れつつ、ゲオルグは結論を出す。
「三公の跡取りと個人的な縁ができるならば有り難い。日程を調整してくれ」
「では竜を飛ばす手配をします――あれ?」
ふとラースが窓を見て声をあげた。そろそろ書類の決裁を始めようかと思っていたゲオルグは、ペンを手に取ろうとしたまま止まる。
「どうした」
「竜です。ただ――記章が、レールザッツ公と、フェアラート公のものでは?」
身に覚えのない組み合わせに、ゲオルグはアーベルと顔を見合わせた。




