アンサス戦争【若者の夢の道③】
季節に関係なく花が咲くクレイトス王都アンサス。慈愛に満ちた女神の国。歓待を受ける兄の姿は、ラーヴェ皇帝として堂々としていた。
「お初にお目にかかります、ゲオルグ皇弟殿下」
まだ十歳かそこら、初めての公の社交場に出たという王太子ルーファスは、いかにも武人然としたゲオルグにも物怖じせず、自ら挨拶しにきた。
「ラーヴェ皇族の方々にきょうだいそろってきていただけるなんて、光栄です」
「申し訳ない、私は軍人です。本日も護衛で」
「ですが、あなたが皇帝陛下がいちばん信頼なさっている弟君なのでしょう。私は男のきょうだいがいないので、羨ましいです」
妹は可愛いですが、と少年がジュース片手に気さくに笑う。
「どうか仲良くしてください。何か皇帝陛下に不敬なことがあれば遠慮なく教えてくださいね――僕なら子どものわがままでまだ通りますから」
そう内緒話のように告げ、ルーファスは軽く頭をさげ、父の元へと戻る。アーベルが呆れたように肩をすくめた。
「あの年齢で外交上手ですね。あなたと皇帝陛下の関係をきちんと把握している。神童というのは、誇張ではなかったようだ。我が国の皇太子殿下にも期待したいですが……」
「あんな子どもはそうそうないだろう。お前だって言えた義理ではあるまい」
「あなたもね」
お互い自分の若い頃を思い出してしまい、酒が苦くなった。
一方で、皇帝として振る舞う兄の姿を誇らしく思っていた。
(いつか、個人的にではなく、公に会議でもできればいいが)
それが兄にこれだけ敬意を示してくれるクレイトス国王への恩返しにもなる。兄もきっと同じ気持ちだろう。
兄は誰も同席せずになされたクレイトス国王との会談でも手応えを得たらしく、甲板から遠ざかっていくクレイトスの大地が見えなくなるまで名残惜しそうに眺めていた。
そしてベイルブルグに戻るなり、アーベルとゲオルグをベイル城の賓客室に呼び出した。久しぶりに三人でテーブルを囲む。
早速切り出したのは、アーベルだった。
「クレイトス国王と話はうまくいったのですか?」
クレイトス王城ではどこで盗聴の魔術が仕掛けられているかわからない。たとえクレイトス国王がこちらに好意的でも、貴族までそうとは限らない。だから帰りの船でも兄と連絡事項以外、話すのは危険だった。
兄が頷き返す。
「実験的にということで色々、約束を取り付けた。帰国次第、レールザッツ公にも話を通すつもりだ」
「レールザッツ公に、ですか」
「ああ。第三皇妃の件でレールザッツ公は今、私に負い目があるだろう。そこを突けば呑むはずだ。フェアラート公との争いも表面化している。ここは私に忠誠を見せるところだろう」
笑った兄に、ゲオルグはきょとんとしてしまった。盲点だった、ということではない。
兄がそんなことを言い出したことに、だ。
アーベルに目をやると、首を横に振られた。アーベルの入れ知恵ではないらしい。
「そう、クレイトス国王に助言されてな」
「……クレイトス国王にですか」
なんだか複雑だ。だが、兄の顔は晴れやかだった。
柔らかい湯気をあげる紅茶のカップを手に取り、ひとくち飲んで、穏やかに切り出す。
「後宮が荒れるのも皇帝あってこそ。自信を持て、と言われたよ。確かに竜帝でない皇帝は三公のお飾りになりがちだが、竜帝ではない皇帝だからこそできることもあると」
「クレイトスとの協調路線ですね」
アーベルの言葉に、力強く兄は頷く。その目には力があった。
「もちろん、協調するにはそれだけの力が必要だ。ゲオルグはこのまま、ラーデアの防衛構築と帝国軍の強化を頼む。このベイルブルグの軍港も完成させねばな」
最近落ち込み気味だった兄の勢いに押されて、ゲオルグは頷く。反応がおかしかったのか、兄が朗らかに笑い声を立てた。
「どうした、ぽかんとして」
「い、いえ。驚いてしまって――竜帝ではない皇帝だからこそ、なんて、考えもしませんでした」
噛み締めるように、繰り返す。兄が苦笑いを浮かべる
「クレイトス国王の受け売りだ。クレイトスならではの発想やもしれんがな」
「いえ、私は正しいと思います。竜神ラーヴェがラーヴェ皇族をさだめたのは、ラーヴェ帝国の安寧のため。竜帝を存続させるためではない」
「そう。……女神の恵みを維持させるためだけの、クレイトス王族とも違う」
それは――クレイトス国王のことか。まばたいたゲオルグに、兄が優しい眼差しを返す。
「しがらみというものは怖いな。だが、いつか断ち切らねば」
「――陛下がやる気になったのであれば、私も未来のベイル侯爵としてお力になりましょう」
アーベルが胸に手を当ててそう言い切った。
「父は今、レールザッツ公からも不興を買った。引退をおすすめするにはいい頃合いです」
「確かに頃合いだな。……レールザッツ公から疑われないかが心配だが」
「そんなヘマはしませんよ。父おすすめの令嬢を娶ればいいだけでしょう。我が婚約者殿は、正妻の立場さえ与えれば満足しそうな典型的なご令嬢ですから」
「私も」
いきなり目まぐるしく展開していく現実に、ゲオルグは勢い込む。
「私も、兄上の帝国軍を用意します、必ず」
「お前に関しては心配していないがな。帝国軍人はお前に憧れている者も多い。帰国早々だというのに、今日も入隊志望者がお前の訓示を待っているんだろう」
思い出したようにアーベルが執務机の時計に目をやる。ゲオルグもそれで気づいた。
「時間ですね。兄上、私はこれで」
「私も見学させてもらおう」
目を丸くした。どうも本当に兄は今日は調子がいいようだ。
「迷惑なら控えるが」
急いでゲオルグは首を横に振った。
「い、いいえ。兄上――ラーヴェ皇帝の尊顔を拝見するだけでも、新兵どもは奮起するでしょう」
「ゲオルグ殿下、陛下。我が領地でこう言うのもなんですが、危険です」
「ちょっとだけだ、いいだろう」
アーベルに茶目っ気を見せる兄に、ゲオルグも笑ってしまう。
(今度こそ風が変わるのでは)
これは好機なのかもしれない。この間と違い、ゲオルグの地盤も固まってきている。
ここは兄に鍛えた帝国軍を見せて、励ますところだろう。
「軍港まで竜で行きませんか、兄上」
黄竜に認められている兄は、軍や騎士団でよく使われる緑竜にも問題なく乗れる。誘ってみると、笑って応じてくれた。
「久しぶりの空もいいな。アーベルもどうだ」
「遠慮すると言っても乗せるんでしょう、ゲオルグ殿下は」
「当たり前だ、未来のベイル侯爵」
顔をしかめたが悪い気はしなかったのか、アーベルも自分の竜に鞍をつけるよう指示を出す。
ベイル城から軍港までならば、準備まで考えると竜より馬のほうが早く着く。だが、竜が軍人に見せる夢は壮大だ。それがまして、赤竜ともなれば。
――だが、上空から見える軍港は何やら騒がしかった。本来なら整列して待っているはずの隊列が乱れ、輪になっている。
何かあったのだ。
厳選されたゲオルグの部下に、新人も統率できないような無能はいないはずだが、兄に危険を及ぼすわけにはいかない。舌打ちしたゲオルグはうしろに振り向く。
「兄上、アーベル。少し離れておりてください。何かあったようです」
「わかった」
ふたりが承知したのを見てとり、ゲオルグは騒いでいる上空を旋回する。大きな影と強風。それだけで竜は注目を集めるものだ。
そして、風にも負けぬ、張り上げられた声。
「一体なにごと――」
ふっと自分に向いた視線に、喉が干上がった。
風が、黒の前髪からのぞくふたつの銀の瞳をあらわにする。
まるで夜空に煌めく星々のような、それ。日の光も、空の青さも、海のきらめきも、空に溶けていく白銀の魔力の残滓でさえ、そのまばたきの添え物。竜の影でさえ、その輝きを覆うことなどできない。
――ただただ美しい、かみさまの生き物が、そこにいた。




