彼女はいい子なお嫁さん(後編)
ハディスは竜妃宮、というか後宮を警戒している。厨房も寝室も自分で管理すると私物化しておきながら、滅多に使わない。どうもカサンドラたち女官の手が入ることを嫌がっているようだ。
だから、後宮に『渡る』こともしない。なんの知らせもせずふらっと現れて用事を済ませたら自分の宮殿へ帰ってしまう。記録が取れないとかで、今はよくても将来困るとカサンドラが静かに憤っているのだが、「見世物じゃない」と意に介さない。何の話なのかはちょっとジルにはわかっていないのだけれど。
とにかく、ハディスは後宮のやることすべてに懐疑的だ。後宮を使いたがらないし、滞在も渋る。せっかく露天風呂ができたと言っても、おとなしく入りにきてくれない可能性が高かった。
だから一計を講じたのである。
人前で誘えば、きっとハディスは竜妃の面子を重んじて誘いを受ける。カサンドラの助言は見事功を奏した。想定した雰囲気と会議室の空気がちょっと違った気もするが、細かいことだろう。
(最近の陛下、すぐわたしから逃げるんだもんなあ)
結婚式のキスの練習もだめ。一緒に寝るのもだめ。カサンドラたちに協力してもらってもかわされる。どれもこれも些細なことだが、最近、いささかマンネリ気味なのがジルはひそかに不満だった。
出会った頃は、ハディスはあの手この手でジルの気を引こうとしたり、逆にジルの対応に慌てふためいたりしてくれたのに、今は妙に落ち着いてしまった。ジルがレールザッツ公爵領にハディスを置いて会談を向かうという話になっても、ちょっとさみしそうにしただけ。ジルを強く引き止めたりしない。
ジルを信じてくれているからだ。わかっている。
だが、ジルはまだ十二歳。頬を染めた女官たちからときめく恋人の話を聞くだけの側になるには、早すぎる。
こうなったら自ら積極的にいくしかない。
(しかもなんか、新しく侍女を入れるとか話もしてるし!)
侍女を雇う余裕ができたのは喜ばしいが、タイミング的にジルのいない間にたくさんの女性がハディスにつかえることになる。何が起こるか気づかないほど、ジルは子どもじゃない。
レールザッツに旅立つ前に、他の女たちから一歩も二歩も大きくリードしておかねばならないだろう。ただでさえ、ジルには年齢という壁があるのだから。相談したジルに、竜妃宮の女官たちは顔を見合わせていたが、最後は女官長の「相手は竜帝ですからね」というひとことで、協力的になった。
とにもかくにも、ハディスを露天風呂に放りこむことに成功した。
新しく竜妃宮にしつらえられた露天風呂は当然竜帝夫婦専用になるが、竜妃宮の奥に新しく増設することでたっぷり面積をとったので、脱衣所もやたら広い。ジルはそうっと足を踏み入れ、ハディスが脱いだ服が籠にあるのを確認した。着替えと一緒に畳んであるのが、律儀な夫らしい。
大きな曇り硝子の引き戸の向こうからは、滴の音と、波打つようなお湯の音が聞こえる。物もひともぼんやりとしか判別できないが、すでに湯に浸かっているようだ。
よしとジルは自分の分のバスタオルと湯着を籠に入れ、不自然にならないよう声をかける。
「陛下、どうですか。何か困ったことありません?」
「ん、ないよ。ゆっくりしてる」
曇り硝子の向こうから、ハディスの声が返ってきた。反響しているのか、いつもより耳に心地いい。
「ラーヴェ様は?」
「お湯が流れてる石の上で幸せそうに仰向けで寝てるよ。お前、それでも竜神か?」
お~というラーヴェの返事なのかなんなのかよくわからない応答は、ずいぶん遠くから聞こえた。どうやらくつろいでいるようだ。隙だらけである。
ふふ、とジルはほくそ笑んだ。
(でもラーヴェ様、きてるんだな)
ハディスが呼んだのだろうか。ふたりきりではないのは残念だが、そんな細かいことを気にしていては始まらない。
よし、と気合いを入れ直して、ジルは上着の一番上のボタンをはずそうとした。でも、湯が動く音にびっくりして、止まってしまう。
「……ジル? まだいる?」
「えっあ、は、はい! な、何か、問題あったら困る、ので」
どうもハディスは湯の中で動いただけのようだ。固まってしまった自分の過剰反応に、ジルはぶるぶると首を横に振る。
(わ、わたしがびっくりしてどうする。びっくりするのは陛下!)
「お水なら種類も色々あるし、大丈夫だよ。湯加減もちょうどいい」
まずは服を脱ぐのだ。大丈夫、湯着はちゃんと用意した。ハディスはたぶん、何も着ていないけれど――いや別に、男の裸なんて、軍で見慣れているし。ちょっと前までは恥ずかしくて直視できなかったこともあるけれど、あれからジルの恋愛戦闘力だってあがった。
でも、なんだか指がうまく動かない。
「み、水風呂もあるんですよ。長湯するなら、使ってくださいね」
「へえ、あれかな。あとでためすよ。のぼせたくないし」
背中を流してあげますよ、と言って、びっくりさせるのだ。慌てふためくハディスに、陛下は子どもなんだから、なんて余裕をみせて、そして――そう、シャボン玉のセットを用意しておいたのだ。きっと一緒にやれば楽しい。
いつもと違うことをして、ほんのちょっと、ふたりの距離を縮めるだけ。離れる前に、思い出したらにやにやして元気が出るような思い出をひとつ、作るだけ。
(わ、悪いことをするわけじゃ、ないんだから)
ぽちゃんと湯が落ちる音がする。やけに耳に残る、艶めいた音。
湿った空気と一緒に耳に染みこむような、濡れた声。
「だから、だめだよ」
ぼっと、足元から頭のてっぺんまで、一気に全身が火照った。何が、と指し示されたわけでもないのに。
何も答えられず、かごから乱雑にバスタオルと湯着をつかみ、脱衣所から駆け出る。短い渡り廊下を走って竜妃宮に入ると、カサンドラと女官たちが並び立っていた。何かあればお呼び下さいと言われていたが、様子をうかがっていたらしい。
「いかがなさいましたか、竜妃殿下」
いつもの落ち着いた声に問われ、全力疾走したように息切れしていた呼吸が、少し落ち着く。
「し、失敗、しました……な、なんか」
顔が赤い。きっと真っ赤だ。
なぜだろう。涙まで浮かんできそうで、両腕で顔を隠す。
「は、はずかしく、なっちゃって……」
女官たちが顔を見合わせる。慌ててジルは振り仰いだ。
「でっでも、怖じ気づいたわけじゃないんです! 落ち着いたらもう一回、挑戦します」
「……それはもう、必要ないかと存じます」
「な、なんでですか!? これじゃあ陛下との関係がぜんぜん、進まないです!」
「きちんと進んでおられますよ。陛下もご理解されているようで、何よりです」
わけがわからない。不安げに見つめるジルに、カサンドラが目元をほころばせる。
「湯浴みを終えた陛下に、アイスを用意しましょう。冷たくておいしいですよ」
でも自分より大人のカサンドラがそう言うからにはそうなんだろうと、ジルは小さく頷き返した。
何より、ハディスがあがってくる前に頬の熱をさましてしまいたい。よくわからないこの羞恥を、絶対にハディスに気づかれたくない。
大丈夫、大丈夫――だって熱めのチョコレートソースをかけたバニラアイスを、ハディスはいつも通り受け取ってくれる。
「ジルも食べる?」
そう言って、あーんしてくれるのも、いつもどおり。
安心して、ジルは口をあける。ハディスが笑う。
「いい子にできたからね」
――そんな言葉の真意に気づかないでいれば、大丈夫。
■
がたがたっと物音と、走り去る音。
転んだりしないといいがと、ハディスは背中で音を聞いて思う。
「あ~ごくらくぅ……」
湯に浸かり直したラーヴェが、両翼を広げてぷかりと浮いている。頭の上に折りたたんだハンカチを乗せて、本格的に楽しんでいるようだ。両翼を動かすとすーっと水面を進んでいく姿に、妙な愛嬌がある。
「いや~後宮はめんどくせーけど、ここに通う価値はあるんじゃね?」
「そりゃあ、ジルが僕のために作った場所だからね」
外湯ではあるが、ちゃんと周囲からは見えないよううまく遮られているし、屋根も視界を確保しながら設計されている。ちゃんと湯冷ましをできる場所もある。もちろん、湯船はふたりで入って狭くもない、かといって広すぎもしない、ちょうどいい大きさ。
さすが後宮、夫婦で楽しむ風呂場の設計をよくわかっている。
「俺も人間のとき作ればよかったな~」
「竜妃宮に? 後宮に?」
「後宮にこんなもん作ったら俺が過労死するわ」
ラーヴェが後宮を作った理由は、最初に神格を落とした際に明確な跡継ぎを指名しておらず、せっかく平定した国内が内戦で荒れたからだ。次代を残す必要性を感じ、ラーヴェは後宮を作った。つまりラーヴェにとって後宮は、女共が夢見るような愛の園ではなく、国内を安定させるため次代を作る職場でしかない。
そしておそらく多くの竜帝がラーヴェの考えを引き継いだように、ハディスもそういうふうに後宮を位置づけている。それが後宮の女たちにとっては腹立たしいようだが、知ったことではない。妃は職業だ。衣食住とそれなりの地位を補償することで、報酬は払っている。それが嫌なら最初から後宮に入らずにいるか、皇妃をやめればいいだけのこと。
一方でじゃあ竜妃宮にならいいのか、と問わないのは、育て親に対する情けだ。そもそもラーヴェが「嫁さん」と示すたったひとりの竜妃がいた時代、竜妃宮はなかった。議論の余地がない。
「しかし後宮はほんと色々考えるなあ。お前のことも信じてるんだかなんなんだか」
「ラーヴェ、お前好きなものは最後に食べる派だったっけ?」
「あ~~? なんだいきなり。お前と同じだよ」
「そっか。そうだよねえ」
なぜか近くにシャボン玉のセットが置いてある。ジルが一緒に遊ぼうと用意していたのだろうか。あり得る。
ハディスの可愛いお嫁さんは、とても強くて大人びている分、油断しがちだから。
ハディスは、ふうっと息を吹きこんでシャボン玉を作る。浮かび上がったふわふわしたものは、暗くなり始めた空に弾ける。
そのどれかを切り取るなんて馬鹿馬鹿しい。
「最初から最後まで味わい尽くすよね」
「そーそー」
できあがりから弾けてしまうまで、いい子にできたなら、いつかはぜんぶ。




