彼女はいい子なお嫁さん(前編)
アニメ放映開始、全巻重版、書籍版7巻&正史発売など諸々御礼。
ずっと応援してくださってる方、アニメで読み始めてくださった方、すべての皆様に感謝をこめて。
なおXのアンケートによりこの話は『ラブコメ38%:はれんち26%:ほのぼの20%:地獄16%』の配分でできております。
廊下を小走りで駆けていると、ちょうど会議室の扉が開いた。
「新しい侍女の募集、推薦状の規格統一がギリギリすぎて文句が出るだろうなぁ」
「これも情報戦です。規格に合わないものは書類選考で弾いてしまえばいい」
「それよりレールザッツの会談準備ですよ、時間がない」
愚痴や相談、確認がまざった雑談が聞こえてくる。会議が終わったのだ。部屋の中を見ると、案の定、高官や書記官たちが伸びをしたり腰を浮かせようとしているところだった。いちばん豪華な椅子に座っているハディスに駆け寄るジルに、ハディスがすぐ気づいて顔をあげ、まばたく。
「ジル、なんでタオル持ってるの」
「陛下! お風呂に入りましょう!」
はしゃいだジルの声と対称的に、冷や水をぶっかけられたように会議室中、廊下まで静まり返った。
「もう今日はお仕事ないですよね! ちょっと早いですけど、お風呂どうですか――陛下?」
ハディスの笑顔が固まっている気がして、首をかしげる。その近くにいるいけ好かない小姑ことヴィッセル宰相にいたっては、能面のようになっていた。しかも会議室のその場の誰も動かない。
あっとジルは気づいた。
「まだ会議、終わってないですか? なら待ってますから、わたし!」
「……あっうん――全員その場から動くな誰ひとりだ逃げたら殺す」
なぜかハディスの声には殺意がこもっている。ヴィッセルがわざわざ開きっぱなしだった会議室の扉を閉め直した。窓の鍵まで閉めてカーテンを引き出している。密閉されていく会議室に、ジルまで緊張が伝わった。
「ひょっとして聞かれちゃいけない大事な話をしてますか」
「まあね。でも大丈夫だよ、ここのひとたちは口が固いから」
部屋の片隅に身を寄せ合い始めた面々が、ハディスの笑顔の裏でこくこくと頷いている。
「で、ジル。さっき、なんて?」
会議の続きをしなくていいのかと思ったが、ジルの話を先にすませてくれようとしているのだろう。
「お風呂入りましょう、陛下」
妙に長い一呼吸を置いてから、ハディスは答えた。
「そんな話になった前後を教えてもらえる? 絶対に色々省略されてるよね? そう僕は信じてるからね?」
「あのね、完成したんですお風呂! 竜妃宮の!」
ハディスがぱちりとまばたいた。会議室内にいる全員の点呼を終えたヴィッセルが、溜め息まじりにつぶやく。
「新設した露天風呂か……予定より早いな」
「職人さんが頑張ってくれたんです! もうもう、すっごいですよ。広いし、空は綺麗だし! 実家から帰ったときによったところよりは狭いですけど……でも花とか浮かべたりもできるし、夜は洋燈をつけて星を楽しむのもいいって。仕事疲れにも絶対ききます! だから陛下にいちばんに入ってもらおうと思って……陛下?」
はーっと大きく溜め息を吐いたハディスだが、すぐに笑い返してくれる。
「いやうん、そうだね。だから呼びにきてくれたんだ」
「はい! カサンドラ様もまずは陛下を誘わないとだめだって。陛下が会議が終わって部屋に戻ってくるまで待ってようと思ってたんですけど、今なら夕日が見えるから早いほうがいいって!」
「兄上、竜妃宮の女官長の解雇条件調べておいてくれる?」
「竜妃宮の人事は竜妃が全権をになっている。竜妃宮そのものをつぶすほうが早い」
「せっかくわたしが色々改革してるのになんで潰そうとするんですか! 陛下がすごしやすいようにって女官たちもいっぱい頑張ってくれてるんですよ」
「君に余計なことばっかり教えて、僕はぜんぜんすごしやすくないけどね?」
「で、でもでもお風呂はぜったい、ぜーったい気に入りますから! 入りますよね?」
だめだろうか。
じいっと椅子に座ったままのハディスを見つめていると、苦笑いが返ってきた。
「わかった、じゃあ行こうか」
「ほんとですか! あ、でも、会議……」
「大丈夫だよ、僕の名誉にかかわるひどい誤解はとけたから。ね?」
ちらと振り返ったハディスに、ひとかたまりになっている官僚達が再度こくこくと頷き返す。
ヴィッセルからも小言が飛んでこないので、よくわからないがたぶん、いいのだろう。
張り切ってジルはバスタオルを小脇に抱え直し、ハディスの手を引く。
「陛下、早く早く! もう夕日が出てますよ。でも夜も絶対、綺麗です」
「うん、楽しみだなあ。ラーヴェも飛んできそう」
そういえば以前、秘境の温泉にいったときも、気持ちよさそうに湯に浮いていた。茹だったりしないんだろうかとひそかに思ったものだ。
「湯あたりしちゃだめだから、飲み物も用意しますね! お香とかも、カサンドラ様が陛下におすすめしてるのがたくさんあって」
「それは全部却下」
「なんでですか?」
「とにかく却下」
笑顔でとりつく島もない。不思議だったが、ハディスは香油などきちんと自分で選んで使うひとだから、こだわりがあるのだろうとジルはひとり、納得した。
雰囲気作りは大事だが、まずは誘えた時点で作戦は成功しているわけだし。
(さすがカサンドラ様だなあ。人前で誘えばきっと入ってくれますよって)
だが勝負はここからだ。
「ジル、嬉しそうだね」
「そりゃあもう素敵ですから、新しいお風呂! 絶対、陛下も楽しめますよ」
――一緒に入ったらもっと。
続く言葉を隠して、ハディスと手をつないで廊下を歩く。反応が楽しみで待ちきれず、鼻歌を歌ってしまう。妻のたくらみなど何も気づいていないようで、夫は「ふうん」と相づちを返していた。




