第三次ラキア聖戦【マートン伯爵領崩落事故】
――神降暦一三一〇、春。
マートン伯爵邸の改築工事中に起こった魔法陣の事故が、町の半分を沈めた。改築中の事故防止のため描かれた魔法陣が暴走し、地盤沈下を起こしたのだ。加えて地震のように起きた事故は火災を引き起こし、町全体に被害が拡大。一度緩んだ地盤は徐々に他の箇所も沈めるだろうと、マートン伯爵邸のある町は放棄が決まった。
しかしマートン伯爵に住民の避難先を準備し、生活を保障するだけの資金は残されていなかった。
そもそもがマートン伯爵邸の改築から起こった事故だ。住まいを、家族を奪われた住民たちの暴動から逃れるため、マートン伯爵一家は夜逃げした。工事を請け負った会社の人間も、住民に襲われるか町から逃げ出すかしたようだ。社長は首をくくろうとしたところを住民に引きずり下ろされて身ぐるみ剥がされ、夜盗に追い回され川に飛びこんで溺死体になった。
数年前、似たような事故で魔法陣を壊したと自白した男の一家は、真っ先に犯人だと疑われた。かつて自ら悪事を自白した勇気を讃えられた男は、妻子と一緒に殴り殺され、道ばたに死体になって転がった。
日に日に悪化していくマートン伯爵領に暴動の鎮圧のため、国から調査隊という名前の軍が派遣されたときには、もはやかつての町の面影は完全になくなっていた。
残ったマートン伯爵家の関係者はただひとり――ロレンス・マートン。
使用人として働いていた少年が、軍を率いてやってきた当時十四歳で神童と名高かったジェラルド・デア・クレイトスに出会ったのはそのときだった。
「お前が犯人だな」
今回の事故についての資料がないかと問われ、生き残った使用人たちの中でいちばん屋敷に詳しいからと案内を命じられたロレンスは、首をかしげる。
「なんのことでしょう」
「今回の魔法陣の事故だ」
周囲には誰もいない。壁も天井も欠けた風通しのよい部屋で、王太子は淡々と続けた。
「昨年、汚職で捕まった貴族が金と引き換えに差し止めていた資料の中に、お前の父が奏上した事件があった。規模は今回のほうが格段に上だが、発端はよく似ている」
「ああ――父が偽証した事件ですね」
「魔法陣の不備を見破ったのは息子だ、と書いてあった」
ロレンスは苦笑いを浮かべた。
「父は女神に偽証しようとしたあげく、息子まで巻き添えにしようとしてたんですか」
「あの魔法陣の不備を見破れたなら、逆のことをするのは容易だろう」
「まさか俺が疑われてるんでしょうか?」
両腕を広げて、ロレンスは王太子に向き直る。
「見ておわかりでしょう。俺の魔力は少ない。魔法陣を描いたって効果はないし、そもそも作業にも加われません。疑うなら、調べてみては? 濡れ衣をきせるおつもりなら、簡単でしょうが」
「くだらない化かし合いをするつもりはない。――次はどこに勤めるのか決まっているのか」
「は?」
思いがけぬ問いかけに固まったロレンスの隙を突くように、眼鏡越しの視線がまっすぐ向けられる。
「姉がいる南国王のところか。だが、南国王にはこんな小細工はきかないぞ」
――王太子ジェラルドと、現国王ルーファスとの不仲は有名だ。
貼り付けたままの笑顔の裏で、できる限りの情報を引き出す。何を言うべきか、どうすべきか。
ひょっとして今、自分は分岐点にいるのではないか。
「私に仕えろ」
笑顔が自分の顔から消えるのがわかった。何年ぶりだろうか。
「女神より賜りし大地を魔法陣で崩落させたあげくの暴動。現マートン伯爵の手落ちは目に余る。どうも知り合いの貴族を頼って逃げたようだが、爵位は一時王家預かりとする予定だ。継承権を持っているロレンス・マートンはまだ子どもだしな」
同世代のジェラルドに言われると複雑だが、この王太子が既に王都中枢の実権を握りつつあるとわかる言い様だった。現国王はもう政治に見向きもしないというのは、本当らしい。
「あいにく、俺は爵位に興味はありません」
「だがあると便利だ。それとも、南国王を自分ひとりでどうにかできると思うほど傲慢か?」
「――仕えないと言ったら?」
「お前は言わない」
即答だった。
ぽんぽんと進む会話の居心地のよさがそうさせたのか、やられっぱなしが性に合わないからか、不用意な台詞が滑り落ちる。
「俺は女神が、この国のありようが、あまり好きではないですよ。特に女神にすがりつく人間は、どいつもこいつも滅ぼしてやりたくなります。現に今、この街の光景を見ても心は痛まないんです。もうまっとうな人間ではないでしょう。それでも仕えろと?」
「奇遇だな、私もだ」
迷いのない肯定に、返答に窮した。
「私にすれば親の仇討ちも姉の救助も、まっとうな人間の考えることだがな」
反応に困っている間に、ジェラルドはあっさりと背を向け、歩き出してしまう。
「まさかその言葉に俺が感動してついていくと思ってます? 俺、騙されるのは父の遺言で禁止されてまして」
「他人を騙すのではなく? お前、自分で思うよりずっとお人好しだぞ」
ロレンスがついてこないとは疑っていないようだ。
呆れて、でもそれが面白いような気もして、ロレンスも遅れて足を踏み出す。
「では、今後のご予定は? いくら内政を手中におさめようが、軍権が南国王の手元にあるままでは話になりませんよ」
「まず、サーヴェル家を味方につける」
「具体的には?」
「三女との婚約を打診している」
「古典的ですけど妥当な手段ですね。他には?」
「王都に新しい士官学校を開校予定だ。いずれくるラーヴェ帝国との開戦を見越して、急がせている」
へえ、とロレンスは低く笑った。ラーヴェ帝国とクレイトス王国は長く睨み合っているが、アンサス戦争終結してここ二十年は静かなものだ。大きな火種らしきものはない。
なのに、ラーヴェ帝国との開戦を見越してということは――火のないところに煙を立てて、自分で動かしやすい軍を作りながら、現国王から軍権を削り取る気だ。
悪くない。けれど、ひとつだけ腑に落ちない点があった。
「現国王の退位を待たないんですね。それはなぜです?」
そもそもこの王子様は、内政を放り出している現国王に嫌気がさしている民衆や貴族からの支持が厚い。いずれ『彼を王に』という声は広がるだろう。そのときを待ってもいいはずだ。
「あれはまだ四十にもなっていないんだぞ。あと二十年三十年、このまま放置しろと?」
「確かに王位は遠いかもしれませんが、南国王は実務を放り出している。あなたが実権を握るだけなら、あと十年もかからないでしょう。なのに急ぐ理由がわかりません。たとえ正統性があっても、反逆は外聞を損ねますよ」
「――ラーヴェ帝国で昨年、新しい皇帝が即位したのは知っているか」
「ああ、はい。ずいぶん若い皇帝らしいですね」
「あれは竜帝だ」
ロレンスはまばたいた。
竜帝が生まれたという噂は数年前からあった。けれど皇太子の不審死が続いたり、ラーヴェ帝国内が皇帝位を巡って争っているのは明らかで、それを払拭するためのはったりとか、プラティ大陸統一論とか定期的に流行る陰謀論のような――はっきり言えば竜帝という存在自体眉唾なので、信じていなかったのだ。
「……実在、してるんですか。竜帝」
「残念ながら本物のようだ。天剣を持っている」
女神と竜神も実在しているのか、という質問は呑みこんだ。ひょっとして現国王であるルーファスが投げやりなのは竜帝の存在が原因かなどと、本当かどうかもわからない神話の因縁からついつい考えてしまう。悪い癖だ。
「あれが竜帝から国を守れると思うか? ラーヴェ帝国内がもめている今のうちに手を打たないと、大変なことになる」
筋は通っている。だから、曖昧に相づちを返した。深入りは禁物だ。
最悪、姉を助けられればいいだけだ――枠が半分だけ残った玄関を通り抜け、屋敷を出たところでジェラルドがやっと振り返った。
「とりあえずお前は、ノイトラール竜騎士団に単身、潜入してこい」
「は?」
ノイトラール竜騎士団は当然、ラーヴェ帝国にある。そこにひとりで潜入とは。
「魔力がない分、功績が必要だ。最新の竜と竜騎士団の情報を持ち帰れ。ラーヴェ帝国では魔力がある者のほうが少ない。能力を示すいい機会だろう」
屋敷前につないであった白馬の鞍にまたがり、魔力も権力もお持ちのジェラルドがごもっともな正論を口にする。
「資金や最低限の用意ができたらまた連絡する」
慣れた手綱さばきで、ジェラルドが馬を走らせていってしまった。
とりあえず貼り付けておく習慣がついている笑顔で見送ったあと、ロレンスはつぶやく。
「……あの野郎」
正論でひとがついてくると思っているタイプだ。いずれ国を治める者としては正しい姿勢、ありかたなのかもしれないが。
(……魔力のない俺が、王太子の部下、ねえ)
この先、自分に向けられる侮蔑と苦労を想像すると、笑いがこみ上げてきた。悪くない気分だ。
何より、王太子に認められて仕事をすることになったと姉に手紙で報告できる。
いつも自分そっちのけでロレンスの心配ばかりする姉は、喜んでくれるだろう。もう姉が受け取るべき給金を、叔父一家の懐に入れられることもない。
その一点だけでも、王太子に仕える価値はあったのだ。
 




