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「この手か? それともこっちの手か?」
「ちが、ほんと僕、そんなつもりじゃなくて……っなんにもしてないよ! ほんとだよ!」
「ええそうですね、どうせ陛下は何もしてないけど何かやったんです!」
「意味がわからない! ラーヴェ、ちゃんと説明しろ!」
「嬢ちゃんをさがそうとしなかったのが、変な方向に勘違いさせちまったのかなあ」
むっとジルはハディスの腕を捻る力をゆるめる。フルーツサンドをつまみながら、ラーヴェが呑気に続けた。
「まさかあんな女の子がアルカ総帥だと思ってなくてな……指示がくるだろーからそこを押さえるつもりだったのに指示する側だったもんだから、遅れをとっちまった。いや~意地になってたとはいえ、嬢ちゃんを追っかけるの、我慢してよかったな、ハディス」
「……我慢してたんですか?」
「そりゃそうだよ! 行方不明だよ!? みんなは僕に愛想を尽かして出てったって言うし、そ、それに、もしほんとに、ジェラルド王子といたらどうしてくれようかって……!」
ああ、とジルは顔をしかめた。
「そこを気にするの、もうやめましょうよ……」
「気にするよ! 一生気にする!」
堂々と宣言されてしまうと、こちらが諦めるしかない気になってしまう。よくないな、と思いながらジルは膝立ちになって、ハディスの頭を抱き寄せた。
「怖かったですよね。でももう大丈夫です」
手から天剣が滑り落ちていったときのハディスの叫びは、まだジルの耳にも残っている。
槍が横をすり抜けて言った、あの瞬間も。
「陛下は渡しませんよ。――わたしも二度と、他の女に遅れは取りません」
間があって、ハディスの頭のてっぺんから空気が抜けるような音がした。力を失い、へなへなと寝台に倒れる。
「ぼ、ぼくの、およめ、さん……がっ……」
もう手慣れたものだ。うう、と悶えている頭をよっこいしょと持ち上げて、自分の膝の上に乗せる。
「っも~~~~なんで君はそう、かっこいいの!」
「普通じゃないです?」
「普通じゃない! ぜったい、普通じゃない……ああもう」
怖かった。
両目を片腕で覆って、ハディスがつぶやく。さらさらの髪を撫でて、ジルは笑った。
「素直で大変いい子です」
「あーもうなんか僕が負けた感じになってる! ラーヴェ、なんとか言え!」
「実際負けてんだよ」
ジルとラーヴェの笑い声にハディスが唇をとがらせ、子どものように丸まって横になってしまった。
それから少しだけ、会談の話をした。既に今回の一件は開戦の理由にしないと話がついている。交渉次第ではこちらの有利に和平条約が結べるかもしれない。
「中心になるのはアルカの対処についてになるかもって、レールザッツ公が言ってました」
「ん……まあ、そうだろうね……」
「総帥、逃がしちゃいましたからね。カニスも捕まえられなくて……ロルフはああいうのはすぐかわりができてキリがないからいいって言ってましたけど。そういえば、陛下」
少しだけ勇気がいる。けれど、確認は必要だ。
「女神が、ラーヴェ様に突っかかっていったときの話。どう思いますか?」
「……別に……女神の言うことだし…………それに、僕は……が……れば……――」
「え、なんです、陛下――……陛下?」
返事がないと思ったら、静かな寝息が聞こえてきた。ハディスの顔をラーヴェが覗き込んで、苦笑いを浮かべる。
「安心したんだろ。ここ最近、必死でレシピ読みあさってたからな……」
「不安と努力の方向がおかしくないですか?」
「で、女神がどうした? 俺が神格を落としたとか言ってたなあ」
悪戯っぽく見あげるラーヴェは、ジルが未来を知っていることを知っている。――本当は、過去かもしれないけれど。
「ラーヴェ様に、心当たりはないですか」
「残念ながら。……俺はな、神格を落とすその原因を覚えていられないんだ。そういう取り決めになっててな。クレイトスは逆で、全部覚えてるのが決まりだ」
「なんでまたそんなややこしいことに……」
「覚えていなくても、理の神なら過ちを繰り返さないはずだから。覚えていても、愛の女神なら許せるはずだから」
ヒトではおおよそ不可能な、縛りだ。
でも彼らは神だった。
「ま、そんな神の事情はいいんだよ。嬢ちゃんの反応からして、ろくでもない話だろーし」
「……聞きます?」
「いーや、駄目だ。聞いたら、俺は対処しなきゃいけなくなっちまうだろ」
時間を巻き戻すのは、理に反するのか否かと問われたら、反するだろう。
「あり得ない話。あり得ちゃいけない話だ。だから、聞かねぇよ」
「……有り難うございます」
きっと今まで、あえて聞かないでいてくれたのだ。だが、ラーヴェは横で嘆息する。
「でも、クレイトスがな……このまま引き下がるかどうか。後先考えねえから」
「……想像と、ずいぶん違いました。妹ってほんとですか」
「まぁなー。ほんと、大体が考えなしなんだよ。――皇太子を始末していけば、ハディスがちゃんと帝城に戻れるって信じたりな」
「陛下を孤立させるために仕組んだんじゃないですか!?」
「ハディスをないがしろにする帝城の連中が許せなかったんだよ。それでいて、なんでハディスに嫌われるのかもわからないんだ。そんな真似されて喜ぶような人間にハディスがなっちゃいけないとも、考えない」
ハディスの寝顔を見つめていたラーヴェは、一度金色の瞳を閉じ、ジルの姿を映した。
「頼むぞ、嬢ちゃん。女神をハディスに近づけるな。――愛に溺れさせるな」
そこにもう穏やかな色はなく、静謐な神の眼差しだけがある。
「こいつは、かみさまじゃない。人間なんだから」
唇を引き結び、ジルは頷いた。




