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不可解な声をあげたのは、誰何されたラーヴェ本人だった。
「誰って、お前……」
「あなた……あなたが、ラーヴェ、なの? 竜神、ラーヴェ……?」
「ついに記憶までおかしくなったか?」
ハディスが一笑した。だが、女神は呆然と目を見開いたまま、首を横に振る。
「うそ。だって……だって、竜妃。違うよね? こんな姿じゃ、なかったよね」
すがるような目を向けられ、ジルは静かに、事実だけを口にする。
「わたしがラーヴェ様を初めて見たのは、ジェラルド王子の誕生日会以降だ」
意味は伝わるだろう。クレイトスが時間を巻き戻した、あの日。
一度目の人生で、ジルはただの一度も、竜神ラーヴェの姿を見ていない。
「嘘、そんなはず……だって、私は、私は、やり直すって、決めて……っ!」
「……クレイトス、何の話だ。お前、また何をした?」
「どうして前と同じ姿じゃないの!?」
クレイトスの叫びに、背後でハディスとラーヴェが硬直する。
クレイトスから目を離さずに、ジルは告げた。
「聞いちゃだめです、陛下」
「それは、うん……でも」
「どうして? 私はお兄様が神格を落とす前に戻したのに……っどこかで間違えた? ううん違う、私はちゃんとやった! 戦争が本格化する前、クレイトスが戻せるだけ! そうフェイリスと決めたのよ。間違えるわけない! まだ神格を落としてない、はずなのに……!」
――ひとつだけ、ジルにも心当たりがある。
ハディスのひとつ前の竜帝。すなわちラーヴェが神格を落とす、ひとつ前。三百年前の竜帝が顕現するはずなのに、現れたのは、ジルが一度目の人生で見たハディスだった。
(あれが、ひとつ前っていうなら……)
時間は巻き戻ってなどいない。
ジルが聖槍に貫かれて終わったはずの時間は、十歳に戻ったと思ったあの瞬間とずっと続いている。
「そもそも理の縛りがなかったから、できたことなのよ! お、お兄様が、神格を落として、消えて……た、から……?」
クレイトスが、ぎょろりと両目をハディスに――ラーヴェに、向けた。
「お、ニい様、ね?」
ラーヴェは顔をしかめて黙っている。ハディスも同じだ。
そんなふたりを見て、クレイトスが虚空に向けて笑い出した。
「そうよ、お兄様以外あり得ないあり得ないあり得ない! 覚えてない? ええいいわ、あなたがたとえ忘れていても! それが逃れられぬ理だとしても!」
クレイトスの姿が解けた。現れたのは、黒の槍――女神の、聖槍。
ジルは身構える。
『器は、竜帝は違う――ここが続きなら!』
「陛下さがって!」
『どけ、竜妃イィィィィィ!』
激昂した聖槍がまっすぐ突っこんできた。
剣でそれを押しとどめるが、こらえるだけで精一杯だ。
(くそ、魔力が戻ってる!)
さっきあの二本の槍から魔力を吸い取ったせいだ。
『お前ハ勝テナい、竜妃!』
「ふざけるな、陛下はわたしが守る! そのための竜妃だ!」
弾き飛ばすと、空中で体勢を整えて、分裂した。ベイルブルグのときと同じだ。だが、街中ではなく、すべてがジルと、ジルの背後にいるハディスを狙って襲い掛かってくる。
アハハハハ、と女神の哄笑が日の昇った空に響き渡る。
『愛デ勝つか? 面白い、お前は知りたクないの?』
『本当に、何モ覚えていないのカ!』
前後左右、分裂した女神が、唱和するように叫ぶ。
『知りたくなイの、愛する男の身に、何ガあったのか!』
耳を貸してはいけない。これはアルカの甘言と同じだ。けれど。
『知りたいわよね。愛するっていうのは、そういうことだもの』
ジルの心の隙を突くように、聖槍が横をすり抜けた。
ハディスが天剣を持って身構える。けれど、ラーヴェがあの状態ではどこまでまともに戦えるか。
『これは愛よ! お前の理では防げない! 愛がない、お前では守れない!』
天剣と聖槍がぶつかった。だが、輝きがあきらかに天剣のほうが輝きが弱い。
「陛下!」
駄目だ、思い出させてはいけない。あのひとを、戻してはいけない。
きょうだいを処刑して回り、人を焼き、村を焼き、おそらくは育て親まで失って――すべてを呪って笑う、あんな姿には。
『さあ、思い出して竜帝! あのとき、ほんとうは――ッ!?』
それは、澄んだ音だった。
鈴のような、鐘のような。魔を祓う、正しくあれと背筋を伸ばすような、音。
聖槍が爆風と一緒に弾き飛ばされた。尖塔に打ち付けられ、そのまま沈む。
空に、魔法陣が輝いていた。空の青と、日の光に溶けて全貌はよく見えない。でも、先ほど描かれた魔法陣とよく似た形。
竜神ラーヴェの神紋。
「いい加減にしろ、クレイトス」
――そらから、りゅうのかみさまが、おりてくる。
小さな姿に、間違いはひとつもない。厳かに、正しい道を諭しに、おりてくる。
「ここで俺たちが戦えば、また戦争だぞ」
『……っなん、で……どうして、いつも……ッお前は、なに、を……!』
けれど愛の女神は納得しない。正しい道に、愛があるとは限らないから。
『お前はあのとき何をした、竜神ラーヴェエェェェェェ!』
「クレイトス」
はっとクレイトスが意識を向けた先には、女王がいた。
汎化した城壁の上に、ロレンスに支えられながら、風に吹かれて立っている。
「やめなさい。約束したでしょう?」
『……フェ……フェイリス……』
「あなたはもう、ひとりではないのよ」
聖槍から、力が、殺気が抜け落ちる。
「皆様、ご迷惑をおかけしました。女神クレイトスはアルカに囚われ、混乱しているのです」
でも、と晴れ渡った空の下で、女王がにこやかに笑う。
「これでやっと、会談ができますわね」




