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引きちぎることなどたやすいはずの手錠が、びくともしない。大した魔力封じではないはずだ。なのに、力がまったく戻る気配がない――どうも一度魔力がからになった場合、大した魔力封じではなくとも、回復を極端に遅らせることができるらしい。初めて知った。
もう少し勉強しておくべきだったか。そう思いながら、もう横に引きちぎろうとする。
「策もなしに体力を消耗するのは、賢明ではありませんよ」
がたがたとゆれのひどい馬車の中で、ジルの正面に座った少女が忠告した。
「竜封じも、魔封じも、あの方たちのほうが専門です。伊達に千年以上、竜神と女神相手に生きのびておりませんわ」
「……余裕ですね、フェイリス女王」
「そう見えますか?」
首をかしげるフェイリスの肌は薄汚れていて、青白い。ジルより厳重に、手足にも首にも重い鎖をかけられたこの少女は、記憶の中ではいつもいつもベッドの上で、心細そうに兄の帰りを待っていた。
「……何があったんですか」
「国境付近で襲撃を受けました。あの格好、方舟教団アルカでしょう」
何もしゃべらないかと思いきや、あっさり教えてくれた。
「わたしも大体同じような状況です。でも、サーヴェル家が護衛ですよね。それで貴女がさらわれたんですか?」
「ジルさまも今、囚われているのにそれをおっしゃる?」
ぐっと詰まったジルに、フェイリスは少し笑った。
「いきなり転移させられては、いくらサーヴェル家とはいえ戦いようがないでしょう。国境付近の魔力の磁場を利用した転移の術でしょうか。とはいえ、転移は基本神の御業です。そう遠くには飛ばされていないでしょう。ご家族は無事ですわ、きっと」
「今更、家族の話で誤魔化されませんよ。でも……ジェラルド様は、いないんだな。いたら、貴女をこんな目に遭わせるわけがない」
ひとつ、ジルの懸念が消えた。瞠目したフェイリスが、唇を綻ばせる。
「そうでしょうか。わたくしは、お兄様がアルカに与した可能性もあると考えていますよ」
「……。とにかく、今は脱出することを考えましょう」
そういう話は、会談でやるべきだ。
「わたしと貴女の魔力まで封じて、そう長くもたないはずです。魔力が封じ直す隙が必ずあるはずです、そこを突きましょう」
「手枷の魔力封じは聖槍で描かれたものです。そこそこ強力かと」
「は?」
半眼になったジルに、フェイリスは穏やかに微笑む。
「腐っても女神ですから、甘い見積もりは危険ですわ」
「そういうことは早く言え! いや待て、なんで聖槍が使われて……っまさかすべて、貴女の自作自演なのか!?」
「わたくし、さすがに自分で自分をこんな目に遭わせる趣味はございません」
「じゃあなんで、聖槍が貴女の魔力を封じるなんてあり得ないことになってる!?」
穏やかだったフェイリスの瞳に、影が差した。
「……そうですね、あり得ませんわよね……あの駄女神」
「駄女神」
反駁したジルに、フェイリスが笑顔を向ける。
「今、聖槍――女神は方舟教団アルカの手元に囚われています」
「だから、女神がそう簡単に捕まるわけないだろうが! 女神だぞ!?」
「駄女神なので」
今度ははっきり断言された。
「わたくしは聖槍を取り返さなければ、戻れません」
「信じられるか! 万が一女神クレイトスが捕まったとしても、脱出もできない? 竜神や竜帝相手ならまだしも、そんな馬鹿な話が――」
「落ち着いて考えてください、ジルさま。あなたがこれまで見てきた竜神や竜帝は、偉大な神らしく、絶対的な存在でしたか? 間抜けな理由で囚われたり動けなくなったり、決してそんな馬鹿なことはあり得ないと、あなたは心の底からそう信じられますか?」
一瞬にして脳裏に浮かんだ様々な光景に、腰を浮かせていたジルは、座り直した。
「……そういうことも、ありますよね。はい」
「わかっていただけて嬉しいですわ」
フェイリスはほがらかに笑っているが、本当に罠ではないのだろうか。つい半眼で観察するジルの前で、フェイリスが咳き込みだした。
慌ててジルは駆け寄り、背中をさすってやる。
この少女は体が弱いのだ。こんな灯りもほとんど差さず空気が汚れた鉄箱の中で、いつまで体力が持つか。
「おい、女王を休ませろ! 大事な人質だろう!?」
返事はない。舌打ちしてジルは羽織っているマントを脱ごうとしたが、両手首が繋がれたままではうまくできない。悪戦苦闘していると、フェイリスがまた笑い出した。
「――仮病ですか!?」
「ジルさま、聖槍を取り戻すまで協力しましょう。アルカの目的はわかりませんが、このままでは会談ができません。わたくしは女王としての資質を問われ、あなたは竜妃としての資質を問われる。お互い、余計な仕事を増やしたくはないでしょう」
「……確かに、利害は一致していますね。今だけは、ですが」
フェイリスは真顔になったジルからマントを受け取り、羽織る。
「わたくしはこのとおり戦いには不向きですから、足手まといです。ジルさまだけで隙を見て脱出してください。わたくしは聖槍の気配をたどれるので簡単に解放してもらえないでしょうが、ジルさまはあちらにとって想定外の客でしょうから、深く追われないはず」
「貴女を置いていけって言うんですか? 危険です」
「承知の上です。それに今、わたくしたちを運んでいるのはカルワリオ派ですから、まだ女神の器であるわたくしに価値を見出しているでしょう。簡単に殺されはしません」
首をかしげたジルの正面に、フェイリスは座り直した。
「方舟教団は、クレイトスを拠点とし女神を否定するもの、ラーヴェを拠点とし竜神を否定するものと、それぞれ別々に発足した集団が、竜神と女神に追い込まれて大昔にひとつになりました。ですから、派閥として未だ残っているのですよ。クレイトス拠点のモエキア派、ラーヴェ拠点のカルワリオ派」
「モエキア……って、エーゲル半島のモエキア監獄の、ですか?」
クレイトス王国の貴き身分の罪人を収容する場所だ。フェイリスは薄笑いを浮かべた。
「女神と竜神にとっての悲劇の場所、忌み地は、彼らにとって聖地です。ラーヴェ帝国でカルワリオの谷と言えば、第一次ラキア聖戦で竜神が討たれた場所ですし」
そういえばそんな話を歴史書で読んだような、読まなかったような――とにかく方舟教団にはモエキア派とカルワリオ派のふたつがあるんだな、とジルは呑みこんだ。
「じゃあ、フェイリス殿下をさらったのはモエキア派ですか」
「おそらくそうです。モエキア派はクレイトス発祥だけあって、魔術に長けていますから。聖槍を奪ったのも彼らでしょう」
「んん? でも今、わたしたちを運ぼうとしたとき、確か……」
モエキアの奴らは、という言い方からして考えられるのは、もう一派の――ラーヴェ拠点のカルワリオ派のほうだ。いつの間にか入れ替わっている。
「聖槍はモエキア派が、そしてわたくしの身柄はカルワリオ派が預かるという作戦なのかもしれません。これだけで捜索の手をふたつにわけて攪乱できますから。しかもクレイトスがラーヴェ帝国内で捜索隊を出すとなると、簡単にはいかない」
「……協定があるとはいえ、もめるかもしれませんね」
「竜妃殿下もここにいるとなると、判断が遅れることは間違いないでしょう。ロレンスならうまく交渉をまとめてくれると思うのだけれど……」
「は? うちだって優秀な臣下がそろってますが?」
ロレンスの優秀さはジルも知るところだが、かといってラーヴェ帝国側の人材を侮られるのは不本意だ。フェイリスはきょとんとしたあと、唇をほころばせた。
「――そうであることを願いますわ」
「なんですか、上から目線で。いざとなれば陛下だっているんですからね!」
「そこがいちばん不安ですが……聖槍の捜索なんて、絶対に協力なさらないのでは?」
返答に詰まりかけたが、なんとか言い返す。
「へ、陛下は、竜帝としてやらなきゃいけないことは、ちゃんとしますよ……たぶん!」
「いずれにせよ、聖槍を取り戻さねばなりません」
居住まいを正し、フェイリスが静かに言う。
「わたくしと引き離したのは、何かによからぬことに利用するつもりだからでしょうから」




