軍神令嬢は旅立ちを警戒中
いいですか陛下、とジルは手をつないだ夫を見あげた。
「黙ってわたしを囮にしない」
竜帝が竜妃宮に向かうための石造りの回廊は広く、等間隔で差し込む日光が届きづらい。人気はなく、夫婦の会話と靴音だけがばらばらに響いている。
「ひとりで敵の中に突っこんでいかない」
歩調を合わせてくれている夫はこちらを見たようだが、表情まで読めず、ジルはつないだ手の力を強めた。
「相談なしで転職もしない、わたしをためさない、それから変な連中とも付き合わない!」
「うん」
「それからそれから、そう、毒もわざと飲んじゃだめです!」
「わかった」
「ほんとにわかってますか!?」
一度やられた身としては、次がないとはなかなか信じられない。
足を止めたジルと一緒に、ちょうど日の差し込む位置で夫――ハディスも立ち止まる。見れば、頬を染めて恥じらっていた。その仕草も無論、信じられない。
「かわいこぶって、また話を誤魔化そうとしてるでしょう!」
「そんなことないよ」
「じゃあなんでそんなに嬉しそうなんですか」
「だって僕、全然君に信用されてないんだなあって……」
赤く染まった頬を両手で包んで、ハディスがうっとりと溜め息を吐いた。
「僕のことを君がものすごくわかっててくれて、嬉しい」
「そこ、喜ぶところじゃないですからね?」
ジルからの白い目もまったく気にせず、ハディスは顔をにやけさせている。もう、とジルは足を踏み鳴らした。
「もう一度復唱しますよ、いいですか! まず黙ってわたしを囮にしな――」
「無駄だって嬢ちゃん。こいつ、やると決めたら絶対やるからさー。ま、皇帝ってそういうもんだろ。まして竜帝ともなりゃ、そうじゃないと困るって」
よじ登るようにしてハディスの頭上に顎を乗せたのは、竜神ラーヴェだ。呑気な夫の育て親を、ジルはじろりとにらんだ。
「つまり陛下がこんななのは、ラーヴェ様のせいってことでいいですね?」
「そ、そう言われるとなぁ……」
「そうだ、ラーヴェのせいだ」
「「お前が言うな!」」
ジルとラーヴェにそろって怒鳴られたハディスが、唇を尖らせる。
「なんで僕だけが怒られるの」
「今までわたしが目を離すたび、陛下がろくなことをしてこなかったからです! ラーヴェ様も止めてくれたためしがありません!」
ぎろりとにらむと、気まずいのかラーヴェがわざとらしい咳払いをした。
「ま、まあ、今回嬢ちゃんが目を離すっつっても、レールザッツでクレイトスと会談する間だけだろ。何より女神の器がくるってときに、こいつだってそう馬鹿な真似しないさ。なんだかんだ竜帝らしくちゃんと帝都で留守番くらいできるって。なあ」
「そうだよ、できるよ」
ハディスの真顔で断言した。一拍置いたあと、ジルとラーヴェはそろって溜め息を吐く。
「まったく信じられないの、わたしだけですか?」
「すまん、俺も自信なくなってきた……お前、なんだって今回はそんなに聞き分けがいいんだよ。いつもなら嬢ちゃんと離れるなんて嫌だーって大騒ぎするのに」
妻と育て親の視線を受けて、ハディスが頬をふくらませる。
「そりゃ嫌だよ! ジルと会えないなんて、一秒だって嫌だ。でも僕を全然信じてないジルが離れてる間中、僕が何をしでかすかずうっと心配してくれると思うと、それはそれでいいかなあって……」
「なんでこんなふうに育てちゃったんですか?」
「子どもってのは思うようには育たない理があるんだ」
「へー、ずいぶんラーヴェ様に都合よくできた理ですね」
「それにいつまでも嫌だって駄々こねてばっかりも、芸がないじゃないか。僕だって成長するんだよ!」
悲しいことに、胸を張るハディスがまったく信じられない。だがひょいとハディスはジルを抱き上げて、歩き出してしまう。
「遅れちゃうよ、ジル。僕もヴィッセル兄上にあとの予定を考えろって怒られちゃう」
「もう陛下の何もかもがあやしく見えます……」
「そんなに!? そんなに僕って信じられない!?」
「うきうき言わないでください!」
「嬢ちゃん、諦めよーぜ」
ジルと同じ目線の高さに、真顔の竜神が飛んできた。
「こいつは嬢ちゃんがいたってやるときはやる」
突っこむ気力も失ったジルを抱え、ハディスが回廊から外ヘと出た。
突然の日差しと白い花が、ジルの目を一瞬くらませる。
石畳の道が整備された竜妃宮の前庭は、出立の準備でにぎやかだった。竜妃宮も後宮の一画、竜妃の騎士以外基本は男子禁制を推奨されているが、今は別だ。後宮から借りた侍女や使用人、帝国軍所属の竜騎士が入り交じり、荷物のチェックや馬車の準備に走り回っている。既に竜も何頭か並んで、竜妃が飛び立つ時間を待っていた。
春の装いを脱ぎ捨てて新緑に着替え始めた空気は瑞々しく、前庭に咲く白い花から伝い落ちる昨夜の雨滴もきらきら光っている。空は薄い雲の筋の先が七色に光る蒼天。
気持ちのいい出発ができそうだ。
「嫌じゃー! なんっで儂がレールザッツに行かにゃならんのじゃ!」
「おじいちゃんは竜妃の騎士でしょ、しょうがないでしょ」
「儂は竜妃宮の図書室に入り浸っていいと言われたから引き受けたんじゃぞ! なのに竜妃宮から出ろ、しかも竜に乗って飛べじゃと!? こんなの詐欺じゃ、権力による横暴じゃ!」
「ほらロー坊も一緒だぞ、こんなんでも竜の王だぞー」
「こんなうきゅうきゅしか言わん竜の赤ん坊なぞもう飽きた!」
「ちょっとさりげなくローちゃんに失礼よ、ふたりとも」
「とにかく儂は嫌じゃーーーー! 竜にはもう二度と乗らんと決めたんじゃあ!」
「俺たちだって本当は嫌なんだよ! 鞍にくくりつけてやろうか」
「そうねそうしましょ、ローちゃんがいればきっと気絶してるだけで大丈夫よ!」
――どうもジルの部下たちは遠くでもめているようだが。
「竜妃の騎士がそろって竜に乗りたくないって、世も末だよなあ」
ラーヴェはからから笑っているが、ジルとしては頭が痛い。
「笑いごとじゃないですよ。三人とも竜妃の騎士なのに、騎竜がいないなんて!」
「お、嬢ちゃん言うようになったなー」
「もちろん。今のわたしには騎竜がいますからね!」
ふふんと胸を張ったジルに答えるように、鞍をつけられた赤竜が振り向いた。
他の竜と違い、面懸や胸懸にちょっとした飾りがついており、泥障には盾に花模様が描かれた竜妃の紋章がついている。
金目の赤竜。
竜神であるラーヴェ、竜の王・女王となる黒竜をのぞく、人間が手に届く最高位の竜――ジルの、竜妃の騎竜だ。
「ローがすねてたよ、君が自分の竜自分の竜ってはしゃぐから」
「だってわたしの竜ですよ! わたしだけの竜です!」
ハディスにおろしてもらったジルは、両手を広げて自分の竜の前に立つ。背後で赤竜も鼻を鳴らして自慢げにしていた。
ライカ大公国で出会ったこの金目の赤竜が武者修行を終え、ジルに再戦を挑んできたのは半月ほど前のことだ。勝者はジルだったが、炎を吐きながら旋回し、上空から滑空して突撃する必殺技に感動し、従わせるのではなく自分の騎竜になってほしいと頼んだら、辞儀を返して了承してくれた。
ハディスのように意思の疎通はとれないが、強さを求める心はひとつだと思っている。
「君が喜んでる分には僕はかまわないんだけど……」
「きゅ」
ひょっこりハディスの足の横からローが顔を出した。もめている竜妃の騎士たちから逃げてきたらしい。ころころ転がりそうな幼竜の姿だが、金目の黒竜であるローはまごうことなき竜の王である。ジルの背後にいる赤竜も、敬うように頭を垂れる。
「いいのかロー、嬢ちゃんとられちまって。嬢ちゃんは最初、金目の黒竜に乗りたいって言ってたのになー」
「いいんですよ、もう。ローってば少しも飛ぼうとしないんですから」
「うぎゅう」
不満げに声をあげてローがハディスの足を尻尾でべしべし殴る。
「僕に八つ当たりするな」
「うぎゅ!」
何やらハディスとローが言い合いを始めるが、ローは竜帝の心――すなわちハディスの心を栄養に成長する。いつまでたってもローが卵から孵った姿のまま飛ぶこともしないのは、ハディスの責任でもある。
(本当は大きくなって飛べるくせに)
この間、ジルはハディスを乗せた金目の黒竜を目撃した。あれは絶対にローだ。飛べるくせに隠しているとなると、ジルにも考えがある。
「いつまでも小さいままでいればいいんですよ。わたしは知りません。いつかレアにだって捨てられちゃうんですから」
「きゅきゅ、きゅんきゅきゅきゅきゅうんきゅん!」
「レアはそんなことしないってさ」
「そうですか。でもロー、お前、わたしがレアを呼び出して乗せてもらうのも、あんまりよく思ってないんだろう」
「……ぎゅ」
ハディスの足元ですねたようにローが地面を蹴っている。
「わたしを乗せるのも嫌。わたしがレアに乗るのも嫌。だったらわたしには自分の騎竜が必要だ。何か間違ってるか?」
「……うぎゅう……」
「まあまあ嬢ちゃん、こいつにも黒竜のプライドってもんがあるんだよ。嫁さん乗り回されていい気しないってのもわかって――」
「コケッ!」
背後から鳴き声がしたと思ったら、ローが頭から布袋をかぶせられた。器用に嘴で紐を引っ張って布袋を縛り、ローを確保した軍鶏ソテーがずるずると竜の騎士たちの元へと引きずっていく。ローとハディスぐまという名のぬいぐるみの面倒をジルから頼まれているソテーは、任務に忠実だ。出発まで時間がないことも理解している。
「……あるんですか、黒竜のプライド」
竜の王は袋の中であがいていたようだが、脱出かなわず、悲しげな声をあげていた。
「あるって。信じようぜ」
「ローはわがままなだけだよ。ジルに主導権を握られるのも嫌、お嫁さんが自分以外にかまうのも嫌ってだけ。……何、ふたりともその顔」
お前が言うな、という二度目の言葉をかろうじて呑みこんだ。ラーヴェも同じだろう。
「でも、ジルの騎竜だからってこの竜に嫌がらせしたりしないと思うよ。そういえば、名前って決めたんだっけ?」
「はい。昨日やっと決めました!」
「……一応聞くけど、その名前、この竜も了承したんだよな? ステーキじゃないよな?」
「もちろん! な」
背後に目を向けると、赤竜がしっかり頷き返した。
なぜかラーヴェと目配せし合いながら、ハディスが尋ねる。
「まさかと思うけど、また調理方法とか肉の焼き加減だったり……」
「それも考えたんですけど、わたしの竜ですからね。食べ物からは離れました!」
「えっそうなの!? 君が!?」
「だって竜妃の騎竜ですからね!」
そういえば初めて他人に教える。ジルは胸を張った。
「マイネシュテルクストゴルトフリューゲルです!」
一拍おいたあと、ハディスが声をあげる。
「……えっ? え、マイネシュテル……な、何?」
「マイネシュテルクストゴルトフリューゲルです! かっこいいでしょう! でも長いのでマイネでいいですよ。な、マイネ」
呼びかけると、誇らしげにマイネも胸を張る。ラーヴェがそうっとハディスの横から顔を出した。
「お前、それで――いいのかぁ……そっかあ、かっこいいかぁ……」
「ス、ステーキよりはいいよね、うん……」
「ご歓談中失礼いたします、陛下!」
空から影と一緒に爽やかな声が飛び降りてきた。




