南国王の動乱【王の乱心】
「――陛下! ご無事でしたか!」
ちょうど国境を越えたあたりに、ビリーと撤退した兵たちの姿があった。兵の数が増えている。サーヴェル伯爵夫人が率いる援軍と合流したところだ。
雪の上に足をおろすと、おそらくルーファスを捕らえるよう命じられている兵たちが周囲を取り囲んだ。ビリーがその間を抜け、前に出る。
「戻って頂けて何よりです」
「不本意だけどね」
「……怪我をなさっておられますな」
右手に目を向けられ、初めて気づいた。どこで傷つけたのか、手から血がゆっくり滴っている。
「止血を。凍傷になってはいけない」
「勝手に治る、このくらい。それより――」
ルーファスの声を、地を這うような咆哮が遮った。
歴戦の兵士たちが、すくみ上がって動かない。ビリーでさえ両目を見開いたまま、ルーファスの上から襲い掛かってくる影を見つめている。振り向いたルーファスの目に、闇をまとう化け物が映った。
転移してきたのだ。ルーファスから滴る血の臭いを追って、ルーファスの真似をした。学習したのだ。
(これが竜の王)
竜神、竜の王、竜帝がそろった時代を生き抜き、国を守り続けた女神の守護者たちを、初めて誇りに思った。
兄妹で契ることなど、些事になってしまうだろう――こんな化け物を目の前にしたら。
「ッグギャアァ!?」
竜の王が、あと一歩でルーファスに届くというところで、その場から後ずさった。そして距離をとったまま、周囲をうろうろし出す。何か気に入らないものでもあるように。
「ど……どう、したのですかな」
「……。国境、じゃないかな。ここはもうクレイトスだろう」
明確に線が引かれているわけではないが、すぐ近くに、雪に半分埋もれた低木が実をつけていた。女神の加護があるからだ。
「クレイトスの地を踏むことができない、と?」
「少なくとも、今はね。いつまでもだとは思わないほうがいい。普通の竜だって入ってくるんだ。成長すれば気にしなくなるだろうよ」
うろうろしていた竜の王は、やがて諦めたのか、ラーヴェ帝国に向けて雪原を駆け下りていった。飛ばないあたり、まだうまく飛行できないのかもしれない。
「……ジェラルド殿下に報告せねばなりませんな」
息を呑んで様子を見守っていたビリーが、ほっと息を吐き出すと同時にそう言った。
「陛下も異存はありますまい。おとなしく引き返してくださいますな」
「……そうだね。状況が変わった」
頷いたビリーが、改めて下山の命令を出す。だいぶ日が傾いてきていたが、山頂近くで一晩すごすより、サーヴェル家が所有する監視塔や屋敷までおりたほうが安全だ。ここまできた兵たちも心得ている。サーヴェル伯夫人が先頭で指揮をとり、手際よく移動が始まった。
「陛下は私めが護衛しましょうか」
気が抜けたのか、ビリーが冗談めかして言う。
「サーヴェル伯。君はあんな化け物とでも、ひるむことなく戦えるか」
竜の王が姿を消した場所から視線を動かさず、尋ねた。ビリーがどんな顔をしているかは、見えない。
「もちろんです」
「死ねるか? 国のため――ジェラルドのために」
「……一辺倒なお答えを聞きたいわけではなさそうですな」
珍しい、とひとりごちたビリーの長い影が、ルーファスの足元まで届く。
「娘がジェラルド様に惚れておるのですよ。ジェラルド様の指示に何かひとつでも文句でもつけられれば、父親としては従わぬ道もあるのでしょうが、あいにく陛下のご子息は非の打ち所がないものでして」
「そうか、君の娘はジェラルドの婚約者だったね」
「あの子はジェラルド様のため戦うでしょう。竜帝にもひるまず。……そう育てたのは私ですが、憐れにも思うのです。ですから、親としては娘を矢面に立たせることなく片をつけたい。陛下のご協力があればそれもかないましょう」
「……護剣のことか。護剣を奪うようなことを言っていたね」
「ジェラルド様はそのように仰っておられましたが、陛下ご自身の力も私は必要だと思います」
振り向くと、ビリーが口元をゆるめた。赤い夕陽を背負った微笑みは、妙な郷愁を誘う。
「ジェラルド様には竜帝に勝っていただきたい。それが娘の幸せにもなりましょう。そのためには、死などおそれませんよ」
「……そうか。君はジェラルドの大きな助けになるんだろうな」
軽く護剣を握る手を振った。凍った血が、ぱらぱらと落ちる。
頷き、背中を向けたビリーは本当にひとがいい。いや、侮っているのかもしれない。この至近距離ならよけられると。
女神の守護者を前に。
「だからこそ、僕は君を殺さないといけない」
その背中からまっすぐ胸まで、護剣をねじ込んだ。
信じられないという眼差しでこちらを見るビリーに向けるべきは、誠意だ。
「ありがとう。僕の息子を守ろうとしてくれて。だが君のような助けが得られる限り、ジェラルドはクレイトスの王になる覚悟をしない」
父親から護剣を取りあげ、竜神を失った竜帝と交渉できるなんて甘えた考えを持っているのはそのせいだ。
かつての自分のように、なんとかできると信じて。
「今から死ぬ君には、ジェラルドの勘違いを教えてあげよう。女神の守護者はひとりしか存在できない。そして護剣は、女神の守護者本人にしか扱えないようだ。守護者以外がラーヴェ帝国で護剣を振るえば竜神の理に呪われる、皇弟ゲオルグのように。僕はそれを確かめるために護剣をゲオルグに貸すことに同意した。結果は君も知っているだろう?」
ゲオルグ本人だけではなく周囲にまで奇妙な病が広がり、竜帝に屈した。
「護剣はね、君たちが思っているような代々クレイトス王家に伝わる神器ではないんだよ。女神の守護者になった者だけに与えられる神器なんだ」
ジェラルドが護剣を授けられれば、ルーファスの護剣は消える。ルーファス自身も護剣を得たとき、父親の護剣が失われるのを見た。護剣を失った父親は、安心したように死んだ。
「へ……いかが……おら、れれ、ばっ……」
「僕は守るべき女神を既に失っている。僕は所詮、次への――ジェラルドへのつなぎでしかないんだ。本気の竜帝にはとてもかなわない。父娘は、女神を守るための正しい配置ではない」
ビリーの目が、ルーファスの真意をさぐろうと動いている。
「竜帝を斃すのであれば、ジェラルド自身が女神の守護者になるしかない」
そして、そのためには。
「すまない。ジェラルドは君の娘を裏切るよ。必ずだ」
答えのかわりに、ビリーの口から血がこぼれた。
「君を生かしておくと、もめるだろう。息子の手間が増える。それに――国王陛下ご乱心のいい口実になるんじゃないかな? ああ、わかっているんだ」
やっとこちらに気づいた誰かが、悲鳴をあげた。
「僕がいるから、ジェラルドは甘える」
冷徹に、護剣を横に払う。体を半分、横に切られたビリー・サーヴェルの死体が転がる。
「僕のようにならずにいようだなんて、馬鹿な夢を見るんだ」
その頭を踏みつけて、ルーファスは笑った。
護剣を手に入れようとした時点で息子のたくらみは読めた。ジェラルドは竜帝が動かない今のうちに、ルーファスを殺し名実ともに実権を得るつもりだ。
(そんな、子どもじみた夢を見ている場合じゃないんだよ)
可哀想に、可哀想に。
竜帝が女神を、世界を滅ぼしにやってくる。
愛には愛を。女神には竜妃を。そんな理すらもう通じない、理そのものをゆがませてしまった竜帝が――あの竜の姿は、その証左だ。
(このままじゃあ世界は滅びるよ、ジェラルド)
生き残るためには、息子の覚悟が必要だ。
獣のように妹を穢し、世界を救う覚悟が。
(お前には好きな娘がいるのにね)
残された希望は、女神の愛だけだ。
彼女が愛を求める子どものようにではなく、愛を育む妻のように、愛を与える母親のようになれたなら。
「全員、退避しなさい!」
「シャーロット様……っ!」
「ルーファス様、ここから先へは行かせません。国王陛下にこのようなことを申し上げるのは心苦しいですけれど」
涙ひとつこぼさず、背中にいる者を守るために立ちはだかる、彼女のように。
「――夫の敵、覚悟!」
「いいだろう」
夫と同じように胴を真っ二つに斬り捨てて、暗くなった空をあおぐ。
彼女が夫と同じ所に逝けるよう祈った。女神でもなく、竜神でもない、何かに。
 




